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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第3章 ここに住む理由

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第26話 九時からは、子供の机

 床に置いた鋼球が、ひとりで転がり出した。


 親指の先ほどの球は、共同室の入口から奥へ向かい、板の継ぎ目を一本ずつ乗り越えて、放送室の扉の下端に当たって止まった。こつ、と鳴る。扉の向こうから声がした。「今、私の番組に入ったよ」


「録るな。床の傾きを測ってる」ケイは膝をついたまま、球を拾った。共同室の床は、放送室のほうへ一センチ半ほど下がっている。机を六つ並べて子供を座らせるなら、その一センチ半を、脚で埋めなければならない。


 座金の缶の蓋を開けた。薄い順に並べた輪が、缶の底で光る。テツが机の脚を持ち上げ、ケイが一枚ずつ差し込んだ。脚ごとに枚数が違う。放送室に近い角は四枚、入口側は一枚。指で押して揺れを見て、球を天板の真ん中に置く。球は動かなかった。六つ目の机の上でも動かない。ケイは天板の縁に頬を寄せ、球と天板の間の、髪の毛ほどの光を見た。


「傾いてないのに、傾いてる床って変な感じです。机は真っ直ぐなのに」テツは球の消えた床を、目で追っていた。


「床は傾いてる。机が水平なだけだ」ケイは球をポケットへ落とした。


 五十日目。共同室の奥の半分を、学習の場所にする。通り抜ける道と放送室の入口は塞がない。低い収納と音を和らげる仕切りで囲い、長机が六つに、席は十二。平日の九時から昼まで、ナバの学習支援の先生に週三回つなぐ。見守る大人は、住民の希望者が当番で受ける。大きな学校ではない。今まで別々の部屋で画面を見ていた子供たちが、机を並べられるだけの場所だった。


「七つ目が要る」ケイは六つの机の端を見た。空いた壁際に、もう一つ置ける幅がある。「午後だけ、部品の仕分けに使う。すぐ片づける」


 放送室の扉が開いて、ユイが首だけ出した。「油がつく物は駄目。片づけるって言った人の片づけは、信じないことにしてる」


「拭く」


「食堂の卓の輪っか、まだ残ってる。あれ、ケイの缶の跡。底の形が同じ」ユイは首を引っ込めて、扉を閉めた。壁際の空き地を名残惜しく測り直してから、ケイは巻き尺を戻した。


     * * *


 サエの夫が、重い箱を抱えて入ってきた。中身は全部、本だった。一番低い棚に、背表紙を子供の目の高さへ揃えて立てていく。箱にはまだ半分残っている。


「全部は置かないんですか」テツが箱を覗いた。


「全部置いたら、私がここへ住みたくなるので」サエの夫は、残りの半分の蓋を閉めた。


 先生とつなぐ試験は、昼前に行った。壁の画面に、ナバの部屋が映る。先生は眼鏡をかけた女で、机の後ろに地図が貼ってあった。


「こんにちは。聞こえますか」


「こんにちは。聞こえますか」


 先生の声が、半拍遅れて、もう一度聞こえた。子供たちが顔を見合わせる。先生は真面目な顔のまま、輪唱を続けた。「聞こえてます。二回」サエの子供が、律儀に手を挙げた。


 壁のマイクの脇に、ケイが足した予備のマイクが刺さっていた。両方を大きくすれば、よく聞こえる。そう考えたのがいけなかった。半拍遅れる音は、ハチの左腕だけで足りている。ケイは無言で、その線を抜こうとした。横から手が伸びて、別の線を先に抜いた。回線を測りに来ていたアラタだった。


「そっちじゃない。こっちです」線が一本になり、先生の声も一人になった。アラタは笑わなかった。壁のマイクの位置を、拳一つ分だけずらす。「声は、机の真ん中から拾ってください。壁からだと、部屋の反響まで一緒に入る」


「今のは、俺が悪い」


「悪いのは、線の数です。測定は二千。線の直しは、別に見積を出します」アラタは工具の袋の口を閉じた。


 ケイは頷いた。移住の約束はもらわない。回線の仕事は、仕事として払う。そう決めてあった。


     * * *


 授業が始まると、先生は、机の上にある物を見せてほしい、と言った。


 ミナは自分の袋から筆記具を出した。今日は体験で、午後には客室へ戻る。ソウは船の切符を、両手で広げた。


「それは、何日に使う物かな。よく見せてね」


「帰る日」


 隣の席のサエの子供が、ポケットから古い荷札を出した。ここへ来た日に、荷物へ付いていた札だ。端が擦り切れて、番号が薄れている。「ぼくは、これ。ぼくのは、もう使わない札」


「何日?」ソウが顔を寄せた。


「十一日目。だから、ぼくのほうが先輩」


 二人は二枚を並べて、数字を読み比べ始めた。そのうち、机の真ん中を二人で使っていた。ミナだけは、少し離れて座っている。先生が別の子と話している間に、サエの子供が本を一冊、ミナの前へ滑らせた。ミナは表紙を見て、読んだことがある、と小さく言った。それから、好きな絵のある頁を開いた。船が氷の間を抜ける絵だった。


 ケイは机の傾きを直すふりで、脚のそばにしゃがんだ。座金は、これ以上いじる必要のない枚数で収まっている。それでも指で、もう一度押した。


「管理人さん、そこだと画面が見えない。子供の画面が、あなたの背中で隠れるんです」サエが後ろから言った。


「見なくていい」


「見るのは、あなたじゃなくて子供です」


 ケイは立った。膝の埃を払うと、床に手をついた跡が白く残っていた。


 昼の鐘のあと、ミナは母親に連れられて戸口へ向かった。途中で一度、机へ戻る。本を取り、折った紙を栞にして、頁の間へ挟んだ。それから、一番低い棚を見た。


「これ、ここに置いていっていい? 持って帰ると、続きが分からなくなるから」


「そこなら、誰も動かさない」ケイは答えた。


 ミナはケイの手を見た。工具箱を持つ、大きな手だった。


「管理人さんも?」


「俺も動かさない」


「約束?」


「約束する」


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