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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第3章 ここに住む理由

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第25話 朝飯の後にも人がいる

 卓が空かなかった。


 朝の便の客はとうに船へ戻り、皿も下げられている。それでも食堂の十八脚は、一脚ずつ誰かを載せたまま、ケイの前から動かなかった。脇に抱えた紙の筒が、腕の中で汗をかく。東の廊下を測って描いた図で、広げる卓が要る。


 隅ではサエの夫が本を読み、その脇で子供が二人、紙を折っていた。窓際の卓には、時計を直す夫婦が白い布を広げている。布の上には歯車が豆粒ほどに散らばり、ピンセットの先が一つをつまみ上げて、灯りに透かした。


「ここは、あと三十分使います。図の筒が、卓を探してましたから」時計屋の奥さんは、顔も上げずに言った。


「まだ何も言ってない」ケイは筒を抱え直した。落ちた歯車が一つ、卓の縁で転がって止まった。


「昼までいるなら、そろそろ注文して」厨房の窓から、オトが鍋の蓋を持ったまま言った。


「まだ朝のつもりだった」


「私にはもう昼の仕事なの。豆が待ってる」蓋の下から匂いが立ち、ケイの腹が先に返事をした。


 結局、空いた椅子の座面に図を広げ、床に膝をついて眺めた。椅子は卓の代わりにならないが、紙は文句を言わない。東の枝廊下、旧い宿舎の入口までの寸法が、自分の字で並んでいる。


「図はあと。現物を見るよ」入口にヴィクが立っていた。灯りの柄でケイの膝の先を指す。「あんたの尻が、この食堂で今いちばん場所を取ってる」


     * * *


 東の枝廊下は、共同室の先で、板を一枚打ちつけた扉に突き当たっていた。ヴィクがバールで釘を三本抜き、四本目は錆びて折れた。板を外すと、冷えた空気が足元を這って出てくる。中に空気があることは、昨日、テツの点検機が確かめてあった。


 その点検機が先に入った。首のカメラが壁を舐めるように左右へ振れ、後ろからテツが「異常なし、まだ異常なし」と節をつけて報告する。低い窓が、廊下の片側にずっと並んでいた。窓の下端はケイの腰の高さで、立ったままだと外が見えにくい。座って見る人のための高さだった。


 最初に開けた部屋の床に、四角い跡が残っていた。寝台が置かれていた所だけ、埃の積もり方が違う。長い四角が二つ、その間に、腕を二本並べたほどの短い四角が一つ。ケイは膝をつき、短いほうの縁を指の腹でなぞった。埃の層が指の幅だけ切れて、下から灰色の床が現れた。


「家族用。長く勤める人の部屋だったんだ」ヴィクが灯りを壁の隅へ向けた。「ここなら四人用も取れる」


「何人分戻せる」ケイは短い四角の縁から指を離した。


「四十四。空気の装置は、掃除すれば動く見込み。配る線と水の処理は増やさないと足りない」ヴィクは戸棚を一つ開け、中を覗いてすぐ閉めた。「戻す前に、まず捨てる物を出す。棚に残ってる物は、勝手に持ち出さないこと」


「使える物は」ケイは戸棚の扉を、指の背で叩いた。乾いた、いい音がした。


「使えるかどうかは、私が見てから言う。あんたが見ると、全部使える」


 戸棚の蝶番は、ケイの見立てでは、あと二十年はもつ代物だった。両手を、ポケットに入れた。手を置ける場所が、そこしかなかった。


     * * *


 四十八日目の昼、有料の連絡艇が接岸口に着いた。降りてきた男は、荷物より先に天井を見た。「その中継器、夜も同じ経路ですか」


「昼と夜で、勝手には動かないぞ」


「回線の話です」男は天井の一点を指した。線の継ぎ目が、そこだけ新しい。


 ケイはヴィクを呼ぼうとして、今日は見学の日だと思い出した。通信設備工のアラタ。妻のサナと、九歳のミナ、六歳のソウを連れて、四泊で来ている。ミナは小さな袋を自分で提げ、ソウは父親の鞄の端に、片手でぶら下がっていた。客用の四人部屋を一室空けて、ケイは待っていた。居住の百二人とは別に、泊まる四人の寝台を取ってある。


「帰りは五十二日目のポルカです。取ってあります」サナが先に言った。


「その日までに、ここがいいって思ってもらわないとな」


「決めるのは、帰ってからにします」


「そうしてくれ」ケイは荷物へ伸ばした手を引いた。アラタはもう、自分の鞄を台車に載せていた。


 部屋の扉を開けると、ソウが寝台の下へ首を突っ込んだ。「ここ、隠れられる」


「物を詰めたら掃除できないからね」サナが息子の襟を引いた。ミナは窓へ行かなかった。端末を開き、向こうにいる友達へ、着いた、と短く送る。返事が来るまで、画面を見て待っていた。その横でアラタは壁の接続口の蓋を外し、覗き込んでいる。四人が四つの別の場所を見ていた。この窓からハチが見える、という売り文句を、ケイは飲み込んだ。


「ここで仕事ができれば、ナバより部屋代は軽くなる」アラタは蓋を戻した。「ただ、現場は向こうにも残ります。毎週戻る時期もある」


「その行き来はエマに直接聞いてくれ。俺の仕事を全部そっちへ回すことは、前提にしないでほしい」


「助かります。最初から全部任せると言われるほうが、困る」


 開いた鞄の中に、使い込んだ工具が並んでいた。仕事を探す人の鞄には見えない。持っている仕事を、ここでも続けられるか見に来た人の鞄だった。


     * * *


 夕方、四人を連れて、東の枝廊下の入口まで行った。奥では、復旧班の男が旧い配管を外している。中へ入れる場所ではない。ヴィクが図を広げ、四人用の部屋が取れると説明した。ソウが工事札の向こうで働くテツの点検機に手を振った。テツは機械を振らずに、自分の手を振り返した。


 サナは図を畳み、ケイのほうを向いた。「診療は、どうなります」


「来週、ナバの診療班が初めて来る。そのあとは月に一度。ほかの日は、通信でつながる窓口がある」


「急いだときは。船はすぐ来ますか」


 答えは決まっていた。決まっているから、口が重かった。廊下の壁の、塗装の剥げた所を見ながら言った。「来ると約束はできない」


 サナは頷いた。責める顔ではなかったし、喜んでもいなかった。廊下の奥で、ソウが自分の影を追いかけて走る足音がする。


「明日の朝、食堂へ行ってもいいですか」


「朝飯なら、いつでも」


「朝ごはんのあとまで、いさせてください」サナは畳んだ図を、鞄の脇へ差した。「食べ終わっても帰らない場所には、食べ物以外の理由がありますから」


「席は空かないぞ。一昨日は、俺が床で図を広げた」


「見ました」


 ケイは厨房の窓へ回った。オトが翌朝の豆を水に浸している。豆は水の中で、一粒ずつ沈んでいった。「明日の朝、卓を一つだけ空けといてくれ」


「空けない」オトは豆の水を替えた。「空かないんだよ、あそこは」


読んでいただきありがとうございます!

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