第18話 窓の外に、もう一軒
コロの灯りが見えたとき、ケイの手は、いつもの接岸口のほうへ曲がりかけた。
ハチ一隻なら通れる道だった。今日は、後ろに家がある。操縦桿を戻して、予定していた外側の道へ回った。二日かけて運んだ物を、最後の近道で削る気はなかった。二十四日目の朝で、右の帯は毛羽立ったまま持っていた。三割寄せた左が、その分を引き受けて張っている。
「コロ、こちらハチ。荷物つきで帰った」
返事より先に、食堂の声が通信に入った。「来たって」「どっち?」「いつもの窓じゃ見えない」ヴィクが割って入った。「ユイ、雑音切って。お帰り。受け側、こっちでつなぐよ」
取り付ける先は、旅客用の接岸口ではなかった。居住区の外壁に、使っていない増築用の丸い口がある。覆いを外した輪の縁に、ヴィクたちが受けの骨組みを組み上げていた。客船の泊まる口は空けてある。家を留めるために客を追い返せば、工事の間の飯代が稼げない。骨組みの一本に赤い線が引いてあった。朝のうちにヴィクが付けた印で、受け渡しの間に骨組みが動けば、その線がずれて見える。
「受け側、外の人は退避済み。まず仮の支持架へ」ヴィクの声が入った。「見えてる。向きは、もっと手前で作る」とだけ返して、ケイは口へまっすぐ向かわず、岩から離れた場所で家を回し始めた。向きを変えたあとに、動きを止める場所が要る。長い縁が口の正面にほぼ揃ったとき、家はまだ動いていた。ここで焦って引き直せば、受け口を追いかけて何度も回る羽目になる。ずっと手前で使った時間は、そのためだった。
近づくにつれて、ハチの灯りが窓の覆いに映った。覆いの隙間から、誰もいない空の廊下が透けている。家の頭が、骨組みの輪へ入った。
「あと半歩ぶん、下へ持っていく」ケイが言うと、「了解。こっちからは引かない」とヴィクが返した。下だけ揃えても足りない。家の反対側が浮いたままなら、留め具を閉めたあとに無理な力が残る。ケイは帯の片方を緩め、ハチを家の側面へ回し込んだ。右の腕を家の下端に当て、左の腕には先に命令を出す。半拍遅れて、左が動き出した。二本の腕が同時に角を押した。軽く押す。待つ。窓の列が、コロの壁と平行になった。腕を離しても、家はそれ以上回らなかった。
「その位置で受けて」ケイが言うと、支持架が、家の下の骨組みをつかんだ。低い衝撃が帯を伝って、座席の背まで届く。一本ずつ、受け側へ重さが渡っていった。帯はすぐには外さず、最後の確認が返るまで、同じ画面を見ていた。
「固定、保持できてる。離していいよ」ヴィクの声を待って、ハチを後ろへ引くと、赤い線が家の縁の陰から現れた。「赤線、ずれてません」とテツの声が入った。ずれていない。金具の傾きも見えない。曳く仕事は、ここで終わった。寝ている間も飯を食っている間も、あの骨組みが家を持っている。口の中で、よし、と言った。通信には乗らなかった。二本の帯を緩めると、家はついてこなかった。コロの側に、残った。
* * *
艇を降りると、膝が固まっていた。段差の手前で足を止め、工具箱を持ち直す。走りたかったが、走れば箱の中の物が全部ひっくり返る。
修理ベイの入口で、ヴィクが外した帯を持って待っていた。毛羽立った所を爪の先で撫で、糸を一本つまんで見せる。
「三十センチ。もう一度振られてたら、ここで切れてたね」
「二度目は、なかった」
「なかったから、今こうして話してる」ヴィクは帯を巻き、ケイの手に押しつけた。「捨てるんじゃないよ。次に振られたとき、これを見な」
「捨てるとは言ってない」
「溜める気だろ。分かってて渡してる」ヴィクは背を向けて、点検表を取りに戻った。
廊下に出ると、テツが待っていた。目が、まだ画面の中の腕を追っていた。
「最後、腕で押したの、見ました」
「画面に出てたか」
「角が、すっと揃いました」テツは両手で家の形を作り、指で端を押した。廊下で邪魔になった彼を、通りがかった住民が一歩、押し戻した。
「その前に止めるのが大事だぞ」
「はい。記録、もう一回見ます」テツが次に乗りたい艇は、顔を見れば分かった。分かったことは、口に出さずにおいた。
新しい棟へ通じる内扉には、立入禁止の札が下がっている。今夜は誰も寝られない。設備をつなぎ、試し、検査を受けてからだ。札を見ていると、ヴィクが隣に来た。
「明日、部品が来る。今日は外の作業で終わり」
「窓だけ、見てくる」
「それはいい」ヴィクが札を指で弾くのを見届けて、ケイはその場を離れた。
廊下の床の黄色を、二十八人分踏んで歩いた。食堂の入口に立つ前から、様子が違った。人の声がない。皿の音だけが、遠慮がちに鳴っている。
戸口から見た食堂は、全員が同じ方向を向いていた。卓の脇に、背中が並んでいる。ケイは工具箱を床に置いて、背中の間を抜けた。誰も振り向かなかった。サエの子供が父親の肩に乗って、指を折っていた。
いつも星が見えていた窓の、半分が塞がっていた。
空しかなかった所に、壁がある。壁には窓が並んでいた。覆いが下りて、灯りはない。四つ、六つ、八つ。列は食堂の窓枠を越えて右の端まで続き、角を曲がって見えなくなった。端まで数えようとすれば、顔をガラスに寄せなければならない。皿を持った人が、皿を持ったまま窓へ額を寄せていた。ヴィクの鉢の葉が、誰かの肩に押されて揺れている。
「ほんとに家だ」
誰かが言った。それだけで、食堂の全員が息を吐いた。
「あの中、誰が住むの」サエの子供が、父親の肩の上から窓を指した。
「まだ誰も。検査が終わってからだ」ケイは背中の間から答えた。
「じゃあ、その前に見に行く」
「入れない。札がある」
「札、外して」
「外さない」子供は窓に額を戻して、指を数え直した。
ユイが端末を掲げて、撮った映像を再生した。食堂の中から見た、あの家だった。窓の列の端、角の所に、黄色い点が一つ張りついている。
「これ、ケイ」
ずっと小さい。ハチは、点だった。映像の点を見て、窓の向こうの壁を見て、また映像の点を見た。
声を出さないまま、椅子に腰を下ろした。脚の下の座金を靴の先で押し込んで、揺れを止める。それから椅子を半分だけ、窓のほうへ回した。角の見える位置だった。オトが皿を置いた。「冷める前に食べて。立ったままでもいいから」湯気がガラスに一筋、白い跡を作った。向こうの新しい窓に、食堂の灯りが小さく映っていた。
「家が欲しいって言ってたの、誰?」オトは皿の脇に立ったまま、窓を見ていた。
「俺だよ」
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