第17話 ハチの後ろに家がある
出航前の家は、窓の覆いを下ろして黙っていた。灯りは落ち、中に人はいない。動く物は、家の前へつないだ黄色い小さな艇だけだった。二十三日目の朝、ケイはいつもの座席から、いつもより長く後ろを見ていた。外装板を運んだときは、両端が後方のカメラに収まった。今日は、家の片端しか映らない。白い壁がずっと奥まで延びて、窓の列が遠近法のように細くなり、その先はカメラの外だった。ハチを九つ縦に並べても、家の長さには届かない。
急いで着こうと強く噴かせば、止まるときにも同じだけ要る。到着後に向きを直す分の燃料は、帰りの分から先に取り分けてあった。リムからコロまでは、途中の待機を入れて二日。長い棟が通れない資材の列を避けて、遠回りの道を選んだ。
「航路、今朝の確認でも変更なし」出発側の当番が告げた。
「了解」
「本当に一隻でいくのか」立会いの担当が、外の足場から口を挟んだ。「曳航船を、有償でもう一隻出せる。後ろは見えないだろう」
「二隻だと、合図が倍いる。この重さなら一隻で足りる」ケイは後方のカメラを指で叩いた。「後ろは、帯の鳴りで聞く」
「鳴り?」
「張りが変わると、音も変わる」担当は納得しない顔のまま、足場の端へ下がった。
「私は連絡艇で先に戻る。受け側を開けておくから、着く前に呼びな」ヴィクの声は、もう艇の中から聞こえた。「土産が家しかないのは、あんたくらいだよ」
「小さい鉢でも頼めばよかったか」
「あんたの言う小さいは、信用できない」
ケイは二本の帯を張った。片方だけが先にまっすぐになる。そこで進めず、ハチの位置を半分ぶん横へずらして、もう片方を張った。台所のある側は重く、空の寝室ばかりの側は軽くて先に振れる。この家の癖は、切り離しの前の晩に、掌で押して覚えた。支持具を離す許可が届いた。
「ハチ、離脱する。周囲、退避確認」
「確認。出していい」
短く噴かした。家の下の縁が、支持具から離れていく。止めたくなるほど遅いのに、実際には、もう動いている。売約済みの紙を貼った扉が、後ろのカメラの端を横切って消えた。手を振る作業員へ、ケイは返事だけ返した。両手はふさがっていた。
* * *
問題の角は、列の端にあった。資材の列を抜ける手前で、鉄の作業台が一つ、通路へ肩を出している。撤去班の置き去りで、床に固定してあって動かせない。立会いの日に幅を測ってあった。通れる。ただし、前だけ抜けて後ろをぶつけなければ。
ケイは家を引き寄せず、ハチを斜めに置いた。家の頭が向きを変える。後ろの角は、反対へ振れる。左のカメラに作業台、右に家の後ろの角。二つの映像を、一つの画面に並べた。
「右、まだ余裕がある」立会いの担当が、外から声をかけてきた。「左は指五本。四本。三本」
「数はいい。声は要らない」
通信が静かになった。曲がり始めたところで、ケイは引く力を戻した。家はすぐには止まらない。窓が一枚、また一枚と作業台の上を滑っていく。待つ。もう少し。作業台の角と家の後ろの角の間に、光の筋が見えた。指三本。二本。ケイは最後の角が抜けるより前に、反対向きの動きを入れた。
「出た」担当の声が跳ねた。「後ろも出てる」
帯が鳴った。
家の回転が、止まっていなかった。角は作業台から離れたのに、重い台所の側が、まだ回り続けている。家の頭がハチの真後ろから横へ流れ、二本の帯が同時に横向きへ張り詰めて、ハチの尻をつかんだ。座席が傾く。前方の星が窓の右から左へゆっくり滑り、下の遠い灯りが上へ回った。ハチが家に振られている。艇の首が、自分の意志と無関係に、向きを変えていく。「おい、持っていかれる」と担当が叫んだが、ケイは答えなかった。
逆へ噴かせば帯が切れる。ケイは操縦桿から力を抜いた。回るなら、回らせる。帯が緩む位置まで艇が回りきるのを待つ。計器の針が赤へ寄って、戻った。背中が座席へ押しつけられ、右の肘が壁に当たって鳴った。星が半周を回り、止まりかけた。
止まりかけたところで、ケイは短く逆へ噴かした。一度。もう一度。
星の流れが遅くなり、灯りが窓の同じ位置へ戻ってきた。帯の張りが真ん中へ集まる。家は、ハチの後ろへ、まっすぐに戻った。
「……止まった?」担当の声が、小さくなっていた。
「止まってる」ケイの声は、自分の喉から出たと思えないほど遠かった。操縦桿から剥がした指が、握った形のまま曲がっていた。それを一本ずつ伸ばしてから前を向き、目を凝らした。前には、広い暗がりがあった。あとは、家ごとそこへ進めばいい。
* * *
リムの灯りが遠くなってから、後方のカメラを振り返った。三つに減った棟の列が、灯りの粒になって沈んでいく。消えた一つは、ケイの後ろにあった。自分で運んでいると知っていても、一軒の家が艇の後ろについてくる景色は、どう見ても変だった。
ユイに映像を送ると、返事の一行目が来た。「ちゃんと買った物です、って入れてね」
「家泥棒に見えるか」
「今、そういう感想が来た」ケイは声を出して笑い、受領書の写真も送った。
「あと、途中で星が回ってたんだけど」ユイは映像の一か所を指しているらしかった。「あれ、どうなってるの」
「回らせた」
「回っちゃったんだよね?」
「回らせた」ケイは繰り返した。ユイはそれ以上聞かなかったが、音声の向こうで、番組用の記録ボタンを押す音がした。
続けてテツの声が割り込んだ。「ケイさん、今の、わざとですか。見てたんですけど、艇がぐるっと」
「半分はな」
「半分って、残りの半分は」
「家が決めた」ケイは通信を切った。テツが自分の記録に何と書くのか、聞いてみたくなった。
待機位置で艇を止めた。止まったつもりになるのが、一番よくない。ハチの表示は動いていなくても、家のほうがまだ回っているかもしれない。ケイは遠くの灯りを一つ決めて、家の長い縁と重ねた。灯りは縁の上をじりじり横切った。短く戻した。灯りは縁の一点で止まった。
背もたれに、ようやく体を預けた。肩を回すと、右で小さく音がした。
帯を確かめに、外へ出した右のカメラを寄せた。右の一本の外側が、三十センチほど白く毛羽立っている。作業台の角か、振られたときの擦れか。糸が一本、浮いていた。切れてはいない。ケイは指の腹で、映像の上のその毛羽を撫でた。あと半分の道を、この帯は持つのか。
「ヴィク。右の帯が毛羽立った。切れてはいない」
「傷は直る前に言う。覚えたじゃないか」ヴィクの声が、コロの側から返った。「荷重を右から左へ、三割寄せな。着いたら真っ先に外して、私に見せること」
「寄せる」ケイは帯の割り振りを打ち直した。
食事の袋の中に、オトの字があった。『家の中で食べないこと』
ケイは包みを膝で押さえて、パンをかじった。覆いを下ろした窓の奥には、空の机がある。誰が最初にそこへコップを置くのか、まだ知らなかった。
到着予定を送った。玄関まで、あと半分だった。
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