第14話 家の裏まで見せてくれ
洗濯ばさみが一つ、窓際の紐に残っていた。
売り物の三十二人棟は、写真で見たときは平たい箱だった。今は足音が響く。継ぎ目を踏む靴の裏に、ここで暮らした誰かが先に踏んだ硬さが残っていた。二段寝台の脇を抜けて、低い机の前で足を止めた。壁に丸い日焼けの跡がある。時計か鏡か、何かが長く掛かっていた形だった。
「その洗濯ばさみ、備品に入る?」立会いの担当が戸口から言った。「欲しけりゃつけるよ」
「まだ買ってない」答えたのは、天井の配管を見上げていたヴィクだった。紐に伸ばしかけていた手を、ケイは握って引っ込めた。
ヴィクは最初に、窓のない機械室へ入った。似た大きさの箱が三つ並んでいる。ケイには全部同じに見えたが、ヴィクは真ん中の蓋を外させ、持参の手鏡を奥の管に差し入れて覗いた。記録では先月も回っている。動かしてくれ、と担当に言った。床に低い唸りが伝わり、風が出口へ届くまでには間があった。ヴィクは手をかざすだけで終わらず、計器を出口に当てて数字を控え、隣の口へ移してもう一度測った。
「これは残せる。洗って、消耗品は替える」
「じゃあ三万八千の中で?」担当が帳面に線を引きかけた。ヴィクはその手を目で止めた。「今見た装置はね。全部いいとは言ってない」
台所の湯沸かし器は、銀色の胴が新品のように光っていた。ヴィクは底に手を入れ、合わせ目を指でなぞって、首を振った。拭いても消えない白い筋が、縁に沿って一周している。
「これは置いていく」
「ついてる物を捨てるのか」ケイは胴を叩いた。中身の詰まった、いい音がした。ヴィクは合わせ目の白い筋に爪を当てたまま、顔も上げずに言った。「新しい棟で、最初の一月、床を拭き続けたいなら持って帰りな」
代わりの値段を担当に聞いて、ケイは見積の予備欄を開いた。家一軒を買う話の中で、湯沸かし器一台が妙に惜しかった。
* * *
棟の裏へは、ハチで回った。外の足場に艇を寄せ、窓の下の骨組みを見上げる。壁には曳くための金具が四つ並んでいる。端から順に灯りを当てて、三つ目で手を止めた。塗装の色が一本だけ違う。カメラを寄せると、根元に短い傷が走っていた。髪の毛より太く、爪より細い。
「そこ、前の移設で取り替えたはずだけど」通信に担当の声が入った。カメラは寄せたまま、動かさなかった。
「ついてるのと、使えるのは別だ。綱は下の太い枠に掛ける」
「じゃあ、金具の分は値引きしろってこと?」
「いや。俺が使わないだけで、売る物は変わらない」ケイは骨組みの下の太い枠へ、ハチの灯りを移した。
「直して売れって言われるよりは、助かるけどね」担当の笑い声には、安堵が混じっていた。「あんた、変な客だ」
ハチを横へ滑らせた。棟の腹と足場の間に、短い作業腕がぎりぎり入る隙間がある。外から眺めるだけなら誰も気づかない、骨組みの陰の穴だった。仮の帯を右の腕で通すと、先が左のカメラの視野に現れた。それを指の先でつまみ、艇を止めたまま、輪だけを骨組みに掛けた。
「その間に入るんだね」ヴィクの声だった。屋根の上の彼女は、こちらの映像を横目で見ているのだろう。
「小さい船の使い道だ」ケイは輪を二度引いて、張りを確かめた。屋根の凹みも見に行った。写真では棟がへこんでいるように見えた所は、外側の覆いだけが浮いていた。内側の壁とは離れている。映像をヴィクへ送り、直す範囲に印をつけてもらう間に、ケイは隣の棟のほうへ艇の首を振った。
六十四人棟だった。二列の窓が、灯りの輪の中で光を返している。その足場の上に、灰色の上着の男が立っていた。窓の下の金具に手を当て、指の節でこつんと叩く。耳を近づけて、間を置いて、もう一度叩いた。それから顔を上げ、ハチのカメラをまっすぐ見て、二本の指を額の前で軽く振った。
ケイは手を振り返さなかった。灯りを下げて、その男の足場を視界から外した。
「今の、買い付けの人?」ヴィクが聞いた。多分な、とだけ答えた。
「手つきが、あんたに似てる」
「似てない」
「じゃあ、あんたが似てるんだ」ヴィクは通信の向こうで、屋根の印をもう一つ増やしたようだった。返事の代わりに、ケイは艇を反対側へ回した。
* * *
帰り際、隣の小区画から声がかかった。白い上着の女が、葉のついた箱を抱えて立っている。袖口だけ、きれいな緑色だった。
「その家、どこへ行くの」
「コロ。決まればだけど」ケイはハッチを開けたまま答えた。
「人は」
「二十八人。部屋は満員だ」
女は箱を降ろして、袖口の緑を見せるように腕を組んだ。「マコ。栽培のほうを見てる。あっちも売りに出るの」指した先に、住宅棟よりずっと小さな箱があり、細い窓の向こうに棚が何段も重なっていた。棚の上は空ではなく、葉が並んでいる。「野菜は私の物。棚と部屋は会社の物」
その区別を、彼女は最初に言った。会社が買い取っていた分の注文は今月で切れ、設備を引き継ぐ相手が見つからなければ、作物を片づけて別の仕事へ移るのだと言う。
「全部の食事は作れないわよ。この大きさじゃ」
「食堂の卓に一皿増えるだけでもいい」
「一皿の値段を出してくれる人がいい」マコは箱から小さな葉を一枚ちぎって、ケイの鼻先へ差し出した。
ケイは葉をかじった。薄い音がした。煮込みに入る乾いた菜とは違う、青い匂いが鼻へ抜ける。ヴィクも一枚もらい、噛み終えるまで口を開かずに、窓際を見た。
「大きな鉢が入るね、あの窓際」ヴィクの視線は、もう棚の隙間を測っていた。
「そこは作物を置く所」マコの返事は早かった。ヴィクは返事の代わりに、葉の残りを口に入れた。
連絡先だけを交換した。部屋が使える日も、設備を買うかどうかも、まだ決まっていないと言うと、マコはうなずいて、別の客に送る価格表をしまった。ハチへ戻る通路で、ヴィクがケイの手を見た。
「何を持ってる」
「葉っぱ」
「その下」
洗濯ばさみだった。握っていたことを、ケイは指が開くまで知らなかった。
「まだ買ってない」ヴィクが掌を出した。
その掌へ洗濯ばさみを置いてから、ケイは担当の所へ引き返し、次に来る日まで預かってくれと頼んだ。
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