第128話 最初の大きな一隻
その朝、ケイは固定架の爪を、右列の一番から順に触った。検査は、全部通っている。入港可の札は、主盤の横で掛け金に掛かったままだった。それでも手が動いた。背骨の通路から脚の通路へ降り、爪の根元の点検口を開けては、手回しの軸の頭に指を当てる。錆の筋はない。油は乾いていない。右列の七番では、軸の頭に、割ったばかりの白い筋が一本、光っていた。若い保守員が、二回で割った筋だった。
右列の十番まで行って、左列の一番へ移ろうとしたところで、腕を掴まれた。「もう十分」ヴィクだった。「左列も、昨日、私が触った」
「まだ半分だ」
「半分で、ハチに乗りな。あんたがここにいると、爪が緊張する」ヴィクは腕を掴んだまま、ケイを北の口の方へ向けた。「前にも言ったね、これ」
「聞いた」
「覚えてるなら、早く行きな」
* * *
ボレロは、北面の闇の奥から来た。最初に見えたのは、船首灯の列だった。一つでなく、横に七つ並んでいる。灯の列が近づくにつれて、その下に船体の形が浮いてきた。ポルカの腹が、丸ごと十は入る長さだった。白い船腹に、濃い青の線が二本。客席の窓が、上下三段に、船首から船尾まで並んでいる。
「コロ、ボレロ」ガントは、一語ずつ置くように喋った。「印は、見えている」
北面の岩肌に、赤い磁石の列が光っていた。ガントが、ポルカの窓から指で数えた磁石だった。その列の上に、今はアーチの枠が据わっている。磁石の列は、固定架の爪の足元に、一本おきに並んでいた。
ケイはハチを枠の口の外へ出し、ボレロの船首の正面に浮かせた。艇の灯を、枠の口の縁に当てる。白い梁の四角が、闇の中に浮いた。「右、空いてる。そのまま、まっすぐ」
「まっすぐ行く」ガントが言った。「大きい船は、急に止まれない。だから、先に決めた。あなたの声で、最後の百を決める」
「なら、今から数える。百」
ボレロの船首が、枠の口へ入ってきた。窓の列が、ハチの前を次々に横切っていく。窓という窓に、違う顔があった。子供を膝に乗せた人。鞄を抱えた人。窓の硝子に、手帳を押し当てて何か書いている人。
「五十。右、手のひら一枚ぶん寄ってる」
「見えている。戻す」
「二十。そのまま」
「十。……五。止めてくれ」
船首が止まった。ボレロの船腹が、赤い磁石の列の真上に来ていた。
「受け側、待機完了」テツの声が入った。操作室からトキが、固定架の爪を右列と左列で開いたまま待たせている。船が枠の中に、そっと降りた。
触れた。
右列の一番が閉じた。左列の一番。右の二番。左の二番。爪が、一本おきに、船腹の肋を順に掴んでいく。ケイは数えていた。右の五番。左の六番。右の七番、割った軸の爪が、ほかの爪と同じ速さで閉じた。右の九番、左の十番。その先にも、まだ爪があった。閉じる音がハチの外壁を震わせて、途切れずに座席まで来た。ケイは数えるのをやめた。
最後の爪が閉じた振動が、ハチの座席の下で止まった。ボレロの動きが、アーチと一つになった。
「固定確認。気密確認へ移る」ヴィクの声だった。そのあとの三分間、必要なことしか、誰も言わなかった。
「一分。差圧、動いてない」
「背骨の継ぎ目、乾いてます」若い保守員の声が、小さく続いた。
「二分」ヴィクの声の向こうで、ケイは操縦桿を握った指の関節が白くなっているのを見て、開いた。
「漏れなし」ヴィクが壁を一度、掌で叩いたのを、背骨の通路のカメラが拾っていた。
* * *
乗降口が開いた。ボレロの扉の向こうに、背骨の通路が見えた。白い客船の廊下が、コロの岩の中まで、切れ目なく続いている。床に、テープが延びていた。白いまま延ばした物差しの上に、寮と脚へ移ってきた人たちの黄色が、ぽつぽつと塗られ始めていた。
降りてくる最初の靴が、その上を踏んだ。宇宙服の靴底でなく、普通の靴だった。次の靴。その次。キサへ乗り継ぐ客、ホタへ乗り継ぐ客、コロに用のある客。車輪のついた鞄を引いた客が、乗降口の敷居で、車輪を一度止めた。それから、乗り越えた。
かた、と鳴った。ハチのマイクが、その音を拾っていた。ケイは声を出さずに笑った。
客の列の中に、革靴が一足、混ざっていた。テープの縁の細い所だけを、一歩ずつ踏んでいる。ラズだった。背骨の通路の丸窓の前で立ち止まり、ハチの方へ、頭を下げた。
「客として参りました」ラズの声が、通路のカメラの回線で入った。「倉庫Bの床の在庫を、この船で出します。キサの先の買い手が、大きい船でしか受けないので。積み出しの料金は、料金表どおりに」
「値切らないのか」
「値切るかどうかは、その日の私が決めることです」ラズは言った。「今日の私は、払います」
ボレロの窓の一つで、子供がこちらへ手を振っていた。三段の窓の、いちばん下の段だった。
ケイはハチの両腕を上げた。右と左が、同じ高さで止まった。両腕を振った。どちらの腕も、遅れなかった。子供が隣の大人の袖を引いて、窓の外を指差した。
* * *
ボレロの操舵室の窓から、ガントがこちらを見ていた。背の高い男で、操舵室の低い天井の下で首を屈め、上着の擦れた肘を窓枠に載せていた。「印を、剥がさなかった」ガントが言った。
「剥がす暇がなかった。上に港を置いた」
ガントは、枠の梁と、爪と、背骨の通路と、その先のコロの岩肌の窓を、順に見た。見る速さも、喋る速さと同じだった。
「いい港だ」
「料金表に書いてある」
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




