第127話 蓋の裏の字
名札は、枠に入る前に、一度引っかかった。アーチの先端の操作室で、トキは戸棚の扉の前に立ち、樹脂の板を枠の溝に当てていた。トバの更衣室の枠で何十年も差してあった板は、あちらの枠の形に反っている。こちらの枠は、同じ規格で、同じ幅だった。それでも、板の反りが溝の縁に当たった。トキは親指の腹で、板の下の端を押した。一度。二度目で、板が溝を滑り、枠の底に座った。
角の擦れた、手で書いた名前だった。薄くなった所を、上からなぞった跡がある。
「あの晩、写真を撮ってたな」トキは名札を見たまま言った。「この戸棚の」
「撮った」ケイは操作室の入口に立って、戸棚の枠の幅を目で測った。写真で見たとおりの幅だった。
「答えの代わりか」
「字で書くより、早い」
「下手な返事だ」トキは言った。「だが、枠の幅は合ってた」
トキは名札から手を離して、操作席に座った。布の包みを膝に置き、ほどかずに、把手に右手を載せた。「一本目、起こす」
「リレー、給電。腕は一本ずつ」ヴィクの声が回線に入った。「二本目は、一本目が畳まれてから」
「トバでも、そうだった」
把手が前へ倒れた。枠の右の、一本目の整備腕が、畳まれていた関節を順に伸ばした。梁のトンネルの点検窓が、腕の動きに合わせて星の角度をずらしていく。腕の先の工具棚が、コロの北面の岩肌の前へ降りてきた。トバの空の下で動いていた腕が、今、コロの岩の横で動いていた。トキは把手を半目盛り戻し、腕を止めた。止まった腕の先で、ハチの胴ほどのソケットが、揺れずに浮いていた。「動いた」トキは把手から手を離さずに言った。「ここでも、動く」
* * *
検査官は、ナバから検査艇で来た。名乗らずに、書類の束と点検用の頭灯を持って、背骨の通路を渡った。床の白いテープに一度目を落として、跨がずに、その横を歩いた。固定架の爪を右列から左列まで順に叩き、脚の中の避難艇の架台の表示灯を端から見て、アーチの主盤の前で立ち止まった。「避難艇の架台、灯は誰が点けました」
「私」ヴィクが言った。「自分の目で、一つずつ」
「記録は」
「蓋の裏」ヴィクは主盤の方へ顎をしゃくった。「どの盤も。読める字で」
検査官は、それ以上聞かなかった。「蓋を」
若い保守員が主盤の蓋を外した。蓋の裏に、古い字が並んでいた。トバの誰かの字だった。型番、日付、理由。頭灯で読める大きさで、何人分もの字が上から下へ積もっている。いちばん新しい行も、もう十年以上前の日付だった。
テツが、油圧の区分の欄に署名した。立会いの欄は、一番下。検査官はテツの資格証の裏を見て、区分を指でなぞり、頷いた。
若い保守員は、蓋の裏の、トバの誰かの最後の行のすぐ下に、ペンを当てた。型番。日付。理由。接続先、コロ北面、背骨経由。それから、もう一行書いた。『四本目 ブレーキ段ごとに滑る 一段=梁の継ぎ目一つ半 次の仕事』
字は、ケイの字に似ていた。似ていて、ケイの字より読みやすかった。
検査官は蓋の裏を頭灯で照らし、上の古い字から下の新しい字まで、一行ずつ目で降りていった。最後の行で止まった。「次の仕事、ですか」
「次の仕事です」保守員が言った。
検査官は書類の束から、薄い金属の札を一枚抜いた。『入港可』。主盤の横の札掛けに、自分の手で掛けた。札が、掛け金の上で小さく揺れた。
* * *
最初の仕事は、マズルカだった。ヨキは船を右列の爪の間へ入れた。マズルカの外板に、白い線が一本、斜めに残っている。客室の窓の列の下を、船首寄りから船尾へ、ハチ二台分ほど。航路に置かれていたカノンの外板に擦られた傷で、白はカノンの色だった。キサ線の運休が解けてからも、ヨキはその線を付けたまま走っていた。
「張り替えで」ヨキは言った。短い声だった。
「外した板は」ケイは聞いた。
「要らない。……いや、要る」ヨキは一度、船の窓の方を振り返った。「客が、あの線を見てた。運休のとき、窓からずっと。捨てたと言ったら、誰かががっかりする」
「なら、預かる。置き場はある」
「置き場代は」
「取らない。湯沸かし器の隣だ」
爪が順に閉じて、マズルカの船腹を掴んだ。トキが一本目の腕を寄せ、腕の先の工具棚から、人の背丈の倍の把手を持つ工具が降りてきて、傷のある外板の留め具を一本ずつ外していった。ハチは船腹の横に浮き、外した板を両の爪で受けて、寝かせて、下へ送った。若い保守員が宇宙服で板の縁に取りつき、新しい板の座を削った。灯の輪の中に、白い船腹と、黄色いハチと、若い保守員の宇宙服が、一つに収まっていた。
新しい板が、留め具の最後の一本で座った。白い線は、どこにもなかった。外した古い板は、ハチの爪の中で、白い線を上にして寝ていた。
ケイは請求書を送った。料金表どおりの額だった。ヨキの返事は、一行だった。『払った』。値切りの行は、どこにもなかった。
* * *
マズルカを出す段になって、右列の七番の爪が、噛んだ。手回しの軸が、錆で途中から動かない。トバで一度、トキのスパナで割って閉じた爪だった。開かない爪の間で、マズルカの船腹が止まっている。ヨキの操舵室の窓が、こちらを向いた。
「急がない」ヨキの声が入った。「次の便まで、まだある。客も、窓から見てる」
「見せる物じゃない」ケイは言った。
「見せたほうがいい。直すところを」
ケイの手が、操縦桿の上で動きかけた。ハチの爪で軸を掴めば、回せるかもしれない。
「ケイ」トキが言った。操作席から立ち上がっていた。膝の上の布の包みを持って、操作室の出口へ歩いていく。「待て」
トキは脚の通路を降り、右列の爪の根元の点検口まで来た。若い保守員が、船腹から戻ったばかりで、ヘルメットを脇に抱えて立っていた。
トキは包みをほどいた。スパナが出てきた。柄が長く、口の片側が研いで薄い。名札はもう戸棚にあって、包みの中は、スパナ一本だった。
「割るのは、ここだ」トキは軸の頭の、錆の筋の入った所を指で叩いた。「力で回すな。刃の薄いほうを、筋に当てて、柄の端を押せ。一回で割れなかったら、筋の反対から、もう一回」
「トキさんが」
「俺がやったら、お前はいつやる」
保守員は、トキの顔を見て、それから軸の錆の筋を見た。「一回で、割ります」
「二回でいい。二回目の場所も、蓋の裏に書いとけ」
トキはスパナを、布ごと、若い保守員の両手の上に置いた。
「磨きすぎるなよ」
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