第124話 窓の外に
エマの声が切れたあとの闇の奥で、コロの岩肌が、窓の灯の粒になって近づいていた。
ケイはハチを枠の先へ出した。タルクの曳き索の横を抜け、タルクの船首を追い越し、枠とコロの真ん中あたりまで飛んでから、艇を返した。振り返ると、枠が来ていた。恒星を背にして、灯の入った白い梁が四角く空を切り取り、その四角の中に、爪に抱かれた寮の窓の列が、百四十、全部点いていた。整備腕の梁の点検窓が根元から先まで並び、固定架の爪の標識灯が右列と左列で二本の線を引き、三本目の腕のあった所だけ、灯の線が途切れて星が覗いていた。その下の端に、ボウとトレイとリレーの灯がくっついて、先頭のタルクの灯が、索一本でその全部を引いていた。
大きかった。トバで見たときより、大きかった。トバでは枠の下に港があった。ここでは、枠の下に何もない。灯の四角の後ろを、船団の小さな灯が、索の長さだけ離れてついてくる。
「こっちから見ると、うちの船、ごみみたいだね」サワが言った。「請求書の字は、大きく書く」
「字の大きさで額は変わらない」
「気持ちが変わる」
「コロ、夕方の雑談、今日は夜の特別編」ユイの声が、ハチの通信に流れてきた。コロの全部の廊下に流している放送だった。「窓の表、配ったよね。今から、窓の順番に言います。見えた人は、手を振らなくていい。振ってもいい」
恒星の光が、枠の梁のあいだを抜けてコロの岩肌に落ち、その上に、枠の影が乗った。
影は、岩肌の端の、食堂の窓から始まった。
「食堂の窓。今、影が来てます」ユイが言った。「オトさん、鍋の蓋、閉めて。見に行って」
食堂の窓の硝子が、恒星の光を返して白く光っていた。その光を、枠の梁の影が一列ずつ撫でていった。梁の影が過ぎると光が戻り、次の梁の影が来るとまた沈む。窓の中で、誰かが卓から立ち上がって、窓に寄った。ケイの位置から、その人の形が見えた。柄杓を持ったままだった。
「食堂から伝言」ユイが言った。「オトさんが、『鍋の蓋は閉めた。今夜の煮込みは、枠が止まってから温め直す。焦げたら、枠のせい』。……だそうです」
「枠のせいでいい」ケイは言った。
「放送に乗せるよ、それ」
影は岩肌を渡って、南棟の窓へ移った。南棟の小さな窓の列が、端から順に暗くなって、戻った。東宿舎と窓棟の三つが、上の階から下の階へ、梁の影に撫でられていった。窓の数だけ、顔があった。子供を肩に乗せた人。寝間着の上に上着を羽織った人。窓の硝子に両手を当てた人。
「東宿舎の二階から先、見えてる? 見えてるね。手、振ってるの見えるよ、ケイ」
「見えてる」
「返事しなくていいから、見てて」
旅客の丸い口に着いたポルカから、エマの声が一行だけ入った。「客が、降りないの。窓の前から動かない。次の便の時刻は、動かさないけど」
影は北宿舎の窓を過ぎ、二本目の口の保温帯の十二の緑の上を過ぎ、六十四人棟の二列の窓へ届いた。上の列と下の列。真ん中に、橙の横線が一本、薄く残っている。影が上の列を撫で、下の列を撫でた。下の列の東から三つ目の窓は、ほかのどの窓よりも早くから点いていた。窓の下に、小さな丸い灯が一つ付いたままだった。ケイがリムから曳いてきた日に、ハチの予備の作業灯を磁石台で留めた場所だった。外す日付まで手順の紙に書いたのに、外せなかった灯だった。電池は、老人が自分で替えている。窓の中に、老人が一人、窓枠に肘をついていた。影がその窓を撫でて過ぎるあいだ、老人は肘を動かさなかった。窓枠の、老人が叩いて地の金属が見えていた所が、影の縁で一度だけ光った。
「六十四人棟。上の列、全部点いてる。下の列、全部点いてる」ユイの声が、いつもより遅くなった。「東から三つ目。あそこ、今日も、いちばん先に点いてた」
影はトバの宿舎の四角い窓へ移った。トバから来た家族の窓だった。トキの家族の窓もそこにある。窓の中の顔が、枠の爪に抱かれた寮の窓の列を、指差しているのが見えた。
「三階の、左の端」操作室から、トキの声が入った。いつもの低い声が、少しだけ速かった。「孫だ。硝子に鼻を付けてる。あれは、あとで母親に拭かされる」
「見えてるか、そこから」
「見えてる。ガラスは三方と足元だ。見えないほうが、難しい」トバの寮が、トバの宿舎の窓の前を過ぎていく。百四十の灯の窓と、宿舎の窓の灯が、闇を挟んで向かい合った。
それから丸窓だった。
ブロックA、B、C。客船の丸窓が、岩肌の端から端へずらりと並んでいて、枠の影が、その列を一つずつ撫でていった。丸窓の硝子の光が、ぽつ、ぽつと沈み、ぽつ、ぽつと戻る。どの丸窓にも顔があった。廊下の床に黄色いテープが延びている窓。扉の枠に鉛筆の横線が引いてある窓。カーテンが半分開いた窓。
Bの廊下の突き当たりの、大きな展望の丸窓に、小さな影が額を付けていた。真鍮の縁の、子供の背丈の所が擦れて明るい窓だった。
「今日の一通」ユイが言った。「さっき、廊下から走ってきて、紙を渡されました。展望の窓から。読みます。『枠の足のところに、黄色いのがいる』。……以上」
ケイは、自分のいる位置を、初めて外から見た。ハチは枠の足の先、枠とコロのあいだに浮いている。トバで、写真の中の枠の下に写っていた黄色い点と、同じ場所だった。あのとき写真を撮ったのは、ケイだった。今は、窓の方から見られていた。操縦桿を握った指が、手袋の中で汗をかいていた。ケイは右の指を一本ずつ開いて、また握った。左も、同じ速さで開いて、握った。
ケイはハチの両腕を、同じ瞬間に上げた。
展望の窓の中で、小さな両手が、いっぺんに上がった。
食堂の窓で、南棟の窓で、窓棟の窓で、手が上がった。六十四人棟の二列で、トバの宿舎で、丸窓の三つのブロックで。灯の点いた窓という窓に、上がった手の形が並んだ。老人の窓だけ、手は上がらなかった。老人は肘をついたまま、窓の下の小さな灯と、その向こうの大きな灯の枠を、交互に見ていた。
「ケイ」ヴィクの声が、放送の外の回線で入った。倉庫Bの奥の、巻き胴の前にいるはずだった。「腕、下ろしな。曳いてる最中」
「下ろした」
「聞いた。ユイが、今、放送で言った」ヴィクは言った。「倉庫には窓がないからね。放送で見てる。こっちは、綱の準備ができた。テツがコマの艇に乗せてもらって先に戻って、巻き胴の前に座ってる。ブンとコマが、三本目の杭まで索を通した」
「ここから先は、窓がありません」ユイが言った。「北面です。表の一番下の、線を引いたところ。見えない人は、想像で。想像の枠も、放送は受け付けます。……ケイ、あとで写真ちょうだい」
「撮る暇はない」
「なら、あの子に撮らせる」
枠の影がコロの岩肌を渡りきって、北面へ回った。北面には窓がない。暗い岩肌に、赤い磁石が一列、並んでいた。ガントが自分の船の腹の長さを数えた磁石で、その端に、アーチの脚が収まる受けの印が打ってある。影が磁石の列の上に乗り、枠の灯がその上から覆いかぶさっていった。
「タルク、落とせ。トレイ、後ろで受けろ。あと百」
「落とす」
枠の後ろで、トレイの索が張った。枠の速さが、索一本ぶん緩んだ。ケイはハチを北面の受けの前まで下げて、枠の角と岩肌のあいだを目で測った。枠は長い辺をこちらに向けて近づいてくる。受けの印まで、あと数十メートル。その上に、北の尾根が岩の庇のように張り出していた。窓の表では、誰の窓からも見えないと、ユイが線を引いて切った場所だった。
枠の上の角が、その張り出しの高さに、まっすぐ入ってくる。
ケイは角と張り出しの縁を、ハチの灯の中で重ねた。角のほうが、高かった。
「止めろ」ケイは言った。「このままじゃ、入らない」
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