第120話 名札を抜く日
トバの基地の窓は、端から順に暗くなっていった。
シノが手元の紙を一行ずつ読み、読むたびに、壁の盤の把手を一つ下ろしていく。把手が下りると、基地の岩肌の窓の列が一区画ぶん、ふっと消えた。消えた区画は二度と点かない。紙の行に鉛筆で線が引かれ、次の行へ移る。
「規則から申し上げます」シノは把手に手を掛けたまま言った。「閉鎖の日の最後の灯は、資産課が落とします。立ち会いは、自由です」
ケイは管制室の窓際に立っていた。窓の外、基地から離れた闇に、アーチの枠が浮いている。五日前にリレーの電気を入れてから、枠の灯は夜も点いたままだった。整備腕の梁の点検窓が根元から先まで並び、固定架の爪の列の標識灯が、白く規則正しく光っている。
その右列の爪に、四角い建物が抱かれていた。
トバの単身寮だった。百四十人分の小さな部屋が、四階ぶん積んである。昼のうちに、トキが一本目の腕でそれを持ち上げ、右列の爪の間へ下ろした。爪が閉じるたびに、寮の壁の古い塗装が粉になって浮いた。ラズは、期日までに持ち出すなら零で付けると言った。清算の目録では、解体の費用が掛かるだけの建物だった。
「家を抱かせるのは、これが最初だ」昼の作業のあと、トキは操作席で把手を離さずに言った。「船なら何百と抱いた。船は、爪の間隔に合わせて肋が作ってある。家は、そうは作ってない」
「どこが噛んでない」ケイは聞いた。
「右の三番と五番。壁の厚みが爪の奥まで届いてない。当て木を噛ませろ。木だ。鉄だと、揺れたとき壁のほうが負ける」
若い保守員が、倉庫Bから持ってきた椅子の脚の余りを当て木に削って、二つの爪の奥へ差した。トキは把手を離してから、ガラスの足元越しにそれを見下ろし、何も言わずにもう一度把手を握った。
寮の窓には、灯が入っていた。リレーの線を一本、寮の盤に分けてある。誰も住んでいない百四十の窓が、全部点いていた。
シノが、次の把手を下ろした。基地の窓の列がまた一区画消えて、そのぶん、寮の窓の列が明るく見えた。暗くなる窓の列と、明るくなる窓の列が、闇のこちらとあちらで、ゆっくり入れ替わっていく。
「アサノさん」シノは紙から目を上げずに言った。「残りは、更衣室の区画と、この部屋です」
* * *
更衣室の通路は、もう半分暗かった。
鉄の戸棚が両側に並び、扉の名札の枠は、ほとんどが空だった。空の枠には、名札を抜いたときの爪の跡が白く残っている。その中に一つだけ、名札が差さったままの扉があった。
トキは、その前で立ち止まった。今度は、歩幅を緩めて戻すことはしなかった。
「前は、三十はいた」トキは空の枠の列を顎で指した。「一人抜けるたびに、この跡が増えた。最後に抜くのは俺だと、十年前から決まってた」
「決めたのは誰だ」
「年の順だ。規則だよ。あの人の好きな」トキは管制室のほうへ目をやった。
「規則には、書いてありません」通路の端から、シノの声がした。紙を持ったまま、通路の灯の把手の前に立っていた。「更衣室の名札の扱いは、個人の物として、各自で」
「なら、俺の規則だ」
名札は薄い樹脂の板で、角が丸く擦れていた。字は手で書いたもので、ところどころ薄くなって、上からなぞった跡がある。トキは親指の腹を名札の下の端に当て、押し上げた。枠の中で、板が引っかかった。何十年も差してあった板は、枠の形に少しだけ反っていた。トキは爪を立てて、もう一度押した。
抜けた。
枠に、白い爪の跡が一つ増えた。
トキは上着の内側から布の包みを出した。ほどくと、柄の長いスパナが出てきた。口の片側が研いで薄い。ケイが磨きすぎて返した物だった。トキは名札をスパナの柄に沿わせて置き、布を巻き直した。二度、巻いた。結び目を作らずに、端を包みの中へ折り込んだ。
「見張りは」トキが言った。包みを上着にしまいながら、目は空の戸棚の列を見ていた。
「ブンが起きてる」ケイは言った。「今夜は、ブンに頼んだ」
「断らなかったのか」
「断らなかった」
通信の端で、ブンの声が一行だけ入った。「年寄りは、夜が長い。寝ていいぞ」
トキは鼻で短く笑った。空の戸棚の扉を一つ、手の甲で軽く叩いた。鉄が、中身のない音を返した。
* * *
管制室に戻ると、シノは最後の行に鉛筆を当てていた。
窓の外で、トバの基地は、もうほとんど暗かった。残っているのは、この部屋の窓と、通路の非常灯だけだった。枠の向こうで、寮の百四十の窓が、基地のどの窓よりも明るく点いていた。
「以上で、閉鎖の手続きは終わりです」シノは紙を二つに折り、机の縁に両手を揃えた。「結論は、紙でお送りします」
シノが最後の把手を下ろした。管制室の灯が消えた。暗い部屋の窓に、枠の灯と寮の窓の灯だけが映った。
ケイはハチに戻る前に、枠の先端の操作室へ上がった。三方と足元がガラスの部屋だった。操作席の後ろの壁に、小さな鉄の戸棚が一つ付いている。扉に、名札を差す枠があった。枠は空だった。前にここで腕を握った誰かが抜いて、それから誰も差していない。
トキが後から上がってきて、操作席の横に立った。上着の上から、布の包みの形を押さえている。ガラスの足元の下に、灯の入った寮の屋根と、その向こうの暗い基地があった。
「向こうに、名札を挿す所はあるか」
ケイは答えなかった。端末を出して、操作室の戸棚の、空の枠の写真を一枚撮った。
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




