第117話 港を、受け取る
三百九十八日目の朝、トバの資産課の会議室には、紙が一枚しかなかった。
シノの机の上に、引き渡しの記録。いつものように、ほかには何も置いていない。両手を机の縁に揃え、シノはケイが座るのを待ってから、紙を読み始めた。
「規則から申し上げます」
窓の外を、アーチの脚が白く斜めに走っていた。整備腕が三本と、腕のない付け根が一つ。死んだ腕のあった所には、関節の受けが、空いた眼窩のように黒く残っていた。
シノは読んだ。物件の名。一体の範囲。工具棚と予備の部品。除くもの、発電の設備と、第三整備腕。付帯、単身寮一棟、期日までの持ち出しを条件に、零。代金、本体の値から部品値を引いた額。支払いの確認をもって、所有を移す。
「支払いを、確認いたします」
ケイは端末を開いた。アーチの口座。七か月前、ラズに放熱板を売った日に作った口座だった。説明欄に、自分の字が残っている。『枠を買う日まで、動かさない』。
数字を、全部選んだ。送り先に、ラズの会社の清算の口座。
指が、送る所で一度止まった。止まったのは、数字を見るためだった。ワルツの軸を抜いた日の分。カノンの骨を分けた日の分。石代。窓棟の家賃。一日ずつ積んだ分。それが全部、一つの数字になって、画面の真ん中にあった。
押した。
数字が消えた。零が残った。
二度目の零だった。一度目は、星を買った日だった。あの日は、零を見て、手が止まった。長く止まっていた。
今日は、止まらなかった。零の画面を閉じる前に、ケイの指はもう別の画面を開いていた。曳航の計画。索の数。リレーの燃料。単身寮を抱かせる爪の位置。北の尾根の張り出しの高さ。次に要る物の欄が、上から下まで並んでいた。
「確認しました」シノは紙に印を押した。印を押す手は、紙を揃える手と、同じ速さだった。「所有は、移りました。アーチは、あなたの物です、アサノさん」
シノは紙をケイの前へ滑らせた。それから、机の縁の両手を、一度離した。
「一つだけ、規則の外のことを申し上げます」
ケイは顔を上げた。
「トキは、四十年、あの操作室に座りました」シノは言った。「辞令の上では、トキの最後の勤務は、閉鎖の日です。その日まで、トキはトバの職員です。今日、あの枠に灯を入れるなら、座るのは、トバの職員です」
「……分かった」
「口で申し上げたことは、当方では何も決まっていません」シノは両手を机の縁に戻した。「ですので、記録にも書きます」
「あんたは、見るか。灯を入れるとき」
「当方は、記録を読みます」シノは紙の角を揃えた。揃えてから、窓の外のアーチの脚へ、一度だけ目をやった。「この部屋の窓からも、枠は見えます。記録を読む席から、たまたま」
* * *
会議室を出ると、廊下にラズが立っていた。ラズは、筒を一本持っていた。蓋を開けて、中から紙を引き出した。アーチの全体図だった。紙の端が、角から黄ばんでいる。その上を、橙色の線が何本も、横に走っていた。主構造の梁の付け根から、真っ直ぐ横へ。迷いのない線。枠を分けて売るための線だった。
「原本です」ラズは言った。「当社の控えは、もう要りません。あなたの物の図ですから」
ケイは図を受け取った。橙の線を、指でなぞった。紙の上で、枠の脚が割れている。
「消しますか」ラズが聞いた。
「消さない」ケイは図を丸めた。「俺が負けた線だ」
ラズは、ケイの手の中の筒を、しばらく見ていた。それから、一礼した。
「売り手としての仕事は、これで終わりです」
「次は、何で来る」
「客として」ラズは顔を上げた。「当社の在庫を、いずれ、あなたの港から大きい船で出します。その日の値段で」
* * *
灯は、夕方に入れた。リレーの給電艇が、枠の受電口に鼻を付けていた。窓に白板が立っている。『一 操作室から 二 腕は一本ずつ 三 四秒』。船団の艇が枠の周りに散って、それぞれの灯を点けていた。ボウ、タルク、トレイ、ヤットコ、カンナ。その外側に、ポルカ。エマは客を降ろしたあとの空の船で、航路の外に止まっていた。
ハチは、枠の下にいた。
操作室の三方のガラスの向こうに、トキが座っていた。トバの作業服を着ていた。肘に当て布。胸に、閉鎖の日付の入った職員証。
「送る」リレーの船長の声が言った。「一、二、三、四」
操作室に、灯が入った。
ガラスの中が白くなった。トキの手が、把手の上に見えた。計器盤の針が、一つずつ起き上がっていった。
「腕、一本目」トキが言った。
根元の点検窓に、灯が点いた。
一つ目の窓が点くと、その次が点いた。梁のトンネルの中を、灯が根元から先へ走っていった。窓枠の塗装の、手の形に剥げた所が照らされては、過ぎた。辞めた者の名に線を引いた落書きの窓も、トキが最後の線を引いた窓も、同じ速さで過ぎた。灯は腕の先端まで走り、先端の関節の標識灯を点けて、止まった。
「根元から、ちゃんと点いてる」ヴィクの声が、通信の中で低かった。「配線、生きてたね。前に借りたときは、操作席と腕一本分だけだったのに」
「計器、全部振れてます」テツが言った。「嘘の針は、一本もないです」
コロからの回線に、ユイの声が混ざった。放送の声だった。「今、トバで、枠に灯が入ってます。コロの窓からは、見えません。ごめんね。写真は、あとでケイが撮ってくる。……撮ってくるよね」
ケイは答えなかった。答える前に、二本目の腕が、同じように点いた。
固定架の爪の列に、標識灯が点いた。右列の一番から、奥へ。左列の一番から、奥へ。二列の灯の線が、枠の奥の一点へ向かって細くなっていった。四本目の腕の梁にも灯が走り、関節の手前で、一段、瞬いた。ブレーキの滑る段だった。瞬いて、また点いた。
死んだ腕のあった所だけ、灯の線が途切れていた。付け根の受けの先に、何もない。途切れた所から、星が見えた。
トバの基地の窓は、ほとんど暗かった。暗い窓の列の中に、一つだけ、灯の点いた窓があった。資産課の会議室の窓だった。机の前に、背筋の伸びた影が一つ、座っていた。その暗い基地を背に、白い巨大な枠が、端から端まで、灯の線で描き直されていた。数年ぶりの灯だった。船団の艇の灯が、枠の周りに小さな環を作り、その環の外で、ポルカの客席の窓が一列、横に光っていた。
枠の下に、黄色い点が一つあった。
ハチの窓から見上げても、枠の両端は窓に収まらなかった。前に来たときと同じだった。ケイはカメラを広い画角に替えなかった。替えずに、見ていた。操縦桿を握る手の、指の間が湿っていた。
「……でかいな」
口から出たのは、前と同じ言葉だった。通信の向こうで、ヴィクが笑った。テツが何か喋り出して、ブンに止められていた。
ポルカの灯が、一度だけ瞬いた。エマの船が、客に合図するときの瞬き方だった。
「見えてる」エマの声が、通信に一行だけ入った。「客のいない客席の窓が、全部、そっちを向いてる。……今日は、休みじゃないから。これ以上は言わない」
操作室の把手の上で、トキの手が、ゆっくり開いた。開いて、握り直した。トキは、足元のガラスの向こうの、黄色い点を見下ろしていた。
「どこへ持っていく」
ケイは操縦桿を握ったまま、枠の灯を見上げていた。
「持って帰る」ケイは言った。「うちの岩へ」
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