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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第9章 大きな買い物、小さな家

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第116話 急がない会社

 クレアは、ラズの決定を知っていた。北の口の敷居をまたぐ前に、そう言った。


「清算受託者の方から、今朝、通知をいただきました。当社の案は、選ばれませんでした」


 言い方に、棘がなかった。報告書の一行を読むような声だった。随行員は今日は一人で、手ぶらだった。


 食堂の卓で、クレアは紙を一枚だけ出した。「条件を、変えてお持ちしました。トバの買い取りは、取り下げます。アーチは、アサノさんの物になる。それで結構です」クレアは紙をケイの前へ滑らせた。「据付のあとの運営だけ、当社にお任せいただけませんか。二つの口と、アーチ。十年。発電の設備は、当社が持ち込みます。操作手も、当社から。住民の方の雇用は、前と同じ条件で」


「断る」


「理由を、伺っても」


「うちの港だ」


「十年が長ければ、五年でも」


「年の話じゃない」


「では、何の話でしょう」


 ケイは答えずに、卓の下で靴の先を動かした。食堂の床の、黄色と黒の二本の線の上に、靴の先を置いた。クレアの目が、その靴を追った。線を見て、それからケイの顔に戻った。


 紙は、引かれなかった。クレアはケイの前に置いたまま、指を離した。目が、棚の一番上へ行った。模型の底の形に埃が抜けた跡が、丸い口の写真の前に、まだ残っていた。


「ワルツの最初の整備は、来週、当社の港で」クレアは言った。「いい船です。整備の記録に、この岩の名前がありました。軸を抜いた港として」


「知ってる」


「はい。記録にも、そう書いてありました」クレアは言った。「紙は、置いていきます。読まなくても、構いません」


     * * *


 窓棟三号の電気室に、トキがいた。クレアに、席の返事をする日だった。トキは盤の前に立ち、ヴィクが外してまた嵌めた蓋を、自分でもう一度外した。裏を上にして、膝に載せた。


 電気室の入口に、クレアが立っていた。随行員が、ヘロンの港の操作手の名簿を持っている。並んだ名前の下に、空いた欄が一つ。


「返事は、紙でなくて構いません」クレアは言った。


 トキは答えなかった。上着の胸から、鉛筆を出した。蓋の裏の、若い保守員の細い字の行を探した。その横の余白に、角ばった字で一行、書いた。書き終えて、蓋を盤に戻し、ねじを四つ、自分の指で締めた。


 蓋の裏を、クレアは見なかった。トキの手元を見ていた。「分かりました」クレアは名簿を受け取り、空いた欄に何も書かずに閉じた。


 ケイは、あとで蓋を開けて見た。若い保守員の字の横に、トキの字があった。


『爪の軸の油、冬の分。替えるのは、この子。見るのは、俺』


     * * *


 ヘロンの仕事を選んだ住民も、いた。二家族、六人。キサから来た溶接工の一家と、ホタから来た若い夫婦。溶接工は、説明会の夜にほどけた腕を、今日は組まずに、ケイの前に立った。


「検定を、取りたいんだ」溶接工は言った。「ヘロンの港でなら、取れる。ここでは、取れない」


「取れ」ケイは言った。


 溶接工は、ほかに何か言うことを探す顔をした。探すのをやめて、握手の手を出した。ケイは握った。溶接工の掌には、火花で焼けた点が並んでいた。


 その日の夕方、ユイが廊下に膝をついた。ブロックBの丸窓の下の、黄色の六区画。ユイは端を爪で起こし、一区画ずつ、自分の手で剥がしていった。剥がした黄色は、丸めずに、平らにして重ねた。下の黒い細線は、そのまま残った。


「規則だから」ユイは顔を上げずに言った。「出る人のは、私が剥がす。最初から、そう決めてる」


 溶接工の下の娘が、荷物の鞄に腰掛けて、それを見ていた。ユイの手元の、平らに重ねた黄色を指さした。


「それ、持ってっていい?」


 ユイの手が止まった。重ねた黄色の、一番上の一枚を取って、娘の掌に載せた。


「いいよ。向こうの床に貼っちゃ駄目だけど」


「なんで」


「向こうの床は、向こうの物差しだから」


 娘は十センチの黄色を掌の上で眺め、鞄の外のポケットに、折らずに差した。


 ケイは廊下の角で、剥がされた後の床を見ていた。黄色のあった所だけ、床の色が一段明るかった。同じ廊下のずっと先、テープの端の、Cの一番奥の客室の前では、エマの塗った黄色が一区画、まだ新しい艶で光っていた。その下の黒は、まだ引かれていなかった。


     * * *


 ヘロンの小型艇は、北の口に、来たときと同じ手際で付いていた。クレアは敷居の手前で振り向いた。食堂の壁から外した予想図を、随行員が筒に丸めて持っている。壁には、アーチの図面と航路図の間に、画鋲の穴が四つだけ残っていた。


「アサノさん」


「何だ」


「いい港です。本当に」クレアは言った。褒める声も、報告書の声と同じだった。「当社は、急ぎません。港は、いつか人手に困ります。そのとき、また伺います」


 クレアは艇に乗り込んだ。爪が外れ、保温帯の緑の粒が一つも瞬かないうちに、ヘロンの艇は北の口を離れていった。


読んでいただきありがとうございます!

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