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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第9章 大きな買い物、小さな家

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110/130

第110話 返すかもしれない口座

 オルカ船舶の担当は、今度は何も抱えずに食堂へ入ってきた。


 前と同じ上着だった。四十前の女で、肩から掛けた鞄の紐を、片手で握っている。卓に着く前に、担当は棚の一番上を見た。オトの調味料の瓶が並ぶ段の端に、ワルツの模型が、船首を丸い口の写真へ向けて置いてある。


「まだ、あそこに」


「置き場がそこしかない」ケイは言った。


 担当は座り、鞄から紙を出した。一枚だった。


「ヘロン港湾さんが、来月から、自社の港の整備枠をワルツに出してくださることになりました」担当は紙を卓の上で回し、ケイに向けた。「同型の二隻も、同じ港で。お約束の条件は、ご存じのとおりです。四百日目までに、アーチがこちらの岩で使えること」


 ケイは紙を見なかった。担当の顔を見ていた。


「計画を、拝見しました」担当は続けた。「ラズさんの会社から、清算の書類として回ってきました。四百日目に、代金を払う。そこから曳く。曳いて、据えて、電気を入れる。四百日目に、枠はまだトバにあります」


「ある」


「そのことを、私どもは、清算の書類で知りました」


「ヘロンは、何を持ってきた」


「日付です」担当は言った。「来月の三日から、と。紙の一行目に。二行目が値段で、三行目が港の名前でした」


「値段は」


「こちらと、ほとんど同じです」担当は、正直な顔のまま言った。「違ったのは、一行目だけです」


 食堂の奥で、オトが鍋の火を落とした。音が消えると、担当の声だけが残った。


 四百日目に買う。買ってから運ぶ。ケイの頭の中では、ずっとその順だった。オルカの紙の条件は、四百日目に使えること。二つの日付が、同じ日の上で、ずれていた。予約金を別の口座に置いた日に、数えないと決めた。数えない金の向こうにいる客のことも、一緒に数えなくなっていた。一度も、連絡をしなかった。


「曳いて、据える。四百日目のひと月あとには、使える」ケイは言った。


「そのひと月を、今日、初めて伺いました」担当の声は、低くも高くもならなかった。「ワルツは、その間も荷を積んで飛びます。整備の枠がなければ、制限の表示を付けて、荷を断って飛びます。カザが、それを一番嫌がります」


 ケイは黙った。制限の表示で荷の三割を断っていた船を、あの枠で直した。直した船の船長が、また荷を断る。その順番を作ったのは、自分の黙っていた一年だった。


「契約を、解かせていただきます」担当は言った。「条項に、解約の場合の」


「返す」


 担当が、紙の上で指を止めた。条項の行を指したまま。


「まだ、読んでいません」


「読まなくていい。全部返す」ケイは振り向いた。「ユイ」


 ユイは、放送室の窓から身を乗り出していた。端末を胸に抱えたまま、窓口の端末へ走り、書式を開いた。『返すかもしれない口座』。画面の一行が、長かった。


「全額。利息なし。返金先は、指定の口座」ユイは担当の紙の番号を、声に出して読みながら打った。「……送ります。いい?」


「送れ」


 ユイの指が、画面を押した。数字が、一瞬で零になった。長いあいだ、誰も触らなかった数字だった。


 担当の端末が、小さく鳴った。担当は画面を見て、頷いた。


「確認しました」担当は紙に署名した。署名の手は速かった。「動かしていなかったんですね」


「数えなかった」


「数えない、とおっしゃいました。最初の日に」担当は顔を上げた。「社長も、それを覚えていました」


 ヴィクが、窓口の後ろに立っていた。いつからいたのか、腕を組んで、零になった画面を見ていた。


「毎月、帳簿でこの口座を見てた」ヴィクは言った。「嫌な顔もした。でも、電話しなって、一度も言わなかった。私も、数えてなかったんだね」


「俺の客だ」


「知ってる。だから言ってる」


 ケイの端末が震えた。ラズからだった。文字だけの、一行。


『客が一人、減りました』


 ラズの紙の「確実に」の欄から、一行が消えた。大きい船を持つ客は、コロにはもう一社もいない。ケイは端末を伏せて、卓の上に置いた。伏せても、一行は画面の裏にあった。


     * * *


 帰る前に、担当は棚の前に立った。


「これは、会社の備品なので」担当は背伸びをして、模型を両手で下ろした。「持ち帰ります。置いていいかと言ったのは私ですが、帳簿に載っていまして」


 模型は、中が空の、軽い音を立てた。担当はそれを鞄に入れようとして、入らず、脇に抱えた。


 棚の上に、模型の底の形だけ、埃が抜けて残っていた。細長い、腹の長い船の形が、丸い口の写真の前に。ユイが布を持って来かけて、止まった。


「拭く?」ユイが小声で聞いた。


「あとでいい」


 担当は、食堂の入口で振り向いた。


「アサノさん。一年、お便りがありませんでした」担当は模型を抱え直した。「ヘロンさんは、先週いらっしゃいました」


読んでいただきありがとうございます!

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