第11話 部屋を選ぶ
扉の前に、虫の絵が貼ってあった。
紙の真ん中に黄色い胴があり、両脇に細い腕が二本生えている。片方だけ、短い。下手な字で『ハチ』と書いてあった。
「うちの子です」サエが、紙の隅を指で押さえた。ポルカの客だった三人家族の母親で、荷物の箱は、夫がまとめて抱えている。子供は、ケイの後ろに隠れて、黄色い艇を動かす男の顔を確かめていた。
「虫だ」ケイは素直に言った。絵のハチには、確かに六本の足が生えている。
「蜂は虫ですものね」サエが笑った。
「ハチは虫じゃないよ。ハチは、ハチ」子供が、ケイのズボンの陰から抗議した。絵の左腕が短いのを、ケイはじっと見た。合っていた。左は遅れる分、短く見える。
ユイが鍵束を持って廊下に立った。「三人部屋は二種類。船が見える部屋と、食堂に近い部屋。どっちも今日から使える。ケイ、扉を全部開けて」
ケイは工具箱を提げ、順に鍵を回した。鍵の噛み合う音、蝶番の軋み、ラッチの戻り。直した物の音を確かめるのは、自分の耳の役目だった。船の見える部屋の窓には、傷が細い線で、ちょうど椅子の高さに入っていた。
「窓の傷は、磨いてないの」サエが、窓枠の細い線を指でなぞった。
「磨くと曇る。そのまま使ったほうが、よく見える」子供が窓に張りついた。船の見える部屋を見たあとで、サエの夫が食堂に近い部屋の入口に立ち止まり、鼻を鳴らした。パンの焼ける匂いが、廊下に流れ込んでいる。夫婦が顔を見合わせた。
「こっちがいい」夫は、もう一度鼻を鳴らした。
「船の部屋がいい」子供が言った。サエは腰をかがめ、子供の目線まで降りた。
「ここは、朝ごはんが、階段一つで来る」「船も来る」「船は来るけど、パンは毎日」二人のやり取りは、パンの匂いの中で、どちらも譲らずに続いた。その間に、船が見える部屋の窓の下へしゃがんだ。窓枠の内側に、細い溝が一本走っている。カーテンの吊りを付けるための溝だった。
「船の部屋は、いつでも替えられる。まだ空いてる」ケイは窓枠の溝に、爪を当てた。
「本当ですか」サエが顔を上げた。
「約束はできない。替えたくなったら、俺に言え」子供は窓と母親の顔を見比べた。それからケイのズボンの裾を引いた。
「ハチ、窓から見せて」
「見せる」
「今」
「今は、荷物を運んでる」ケイは、子供の目線の高さまで、腰を落とした。
「今」サエの夫が、声を殺して笑った。決まったのは、食堂に近い部屋だった。
最後に案内するはずの男は、案内を待たず、接岸口に一番近い一人部屋の前で足を止めていた。採掘艇で働いているという。
「ここ。船の音が聞こえる所がいい」男は、扉の枠に掌を当てたまま言った。
「聞こえる。壁を伝って、振動もな」ケイは壁に掌を当てた。ポルカの固定から一日たっても、爪の軸の低い唸りが、壁の中にまだ残っている。
「それがいい」男は寝台の脚を靴の先で蹴り、揺れないのを確かめて、一秒でうなずいた。決めるのが、ケイより速かった。
* * *
ミチが選んだ部屋は、窓のない一人用だった。扉を開け、壁を拳で軽く叩く。乾いた鈍い音が返ってきた。
「音が入りませんね」ミチが、壁に耳を寄せた。
「昔、機械を置いてた。防音だ」ケイは壁の継ぎ目に、爪を当てた。厚い。
「ここにします」ユイが次の部屋の案内を続けようとして、ミチの顔を見た。ミチは、決めた人の顔をしていた。
ケイは部屋の灯りをつけた。寝台と、机と、壁に作りつけの本棚。天井の照明は暗く、四隅に影が溜まっている。
「暗いぞ」ケイは天井の照明を見上げた。ここは、一段強い灯りに替えられる。
「暗いのがいいんです」ミチは、ハチの荷台で運ばれてきた箱を二つ、床に下ろした。中身は本だった。蓋を開け、一冊ずつ出して、棚の一段目に立てる。二段目。三段目。背表紙の高さが順に揃っていく。ケイはその手つきを見ていた。物を置く前に、物の置き場を決める手だった。
四段目まで本が入って、ミチは手を止めた。五段目は、空のまま残った。
「上の段が、空いてますよ」ケイは五段目の板を指した。
「空けておきたいので」ミチは箱の蓋を閉じた。
「何か置くのか」
「決めてません」ミチは五段目の板に、指を一本だけ置いた。埃の層が、指の跡の形に切れた。
廊下では、サエの子供が黄色いマーカーを握って、白いテープの上にしゃがんでいた。十センチの区画を一つ、ぐしゃぐしゃに塗り潰す。夫婦の分が二つ続いた。ミチの分は、彼女自身が縁からはみ出さずに塗った。採掘艇で働くという男は、ペンを受け取って、一秒で塗り終えた。テープの黄色が、五人分伸びた。ケイの分を含めて、二十二になった。
* * *
日が暮れるころ、ケイはハチに乗った。子供の「今」を、ずっと預かっていた。
食堂に近い部屋には、船の見える窓がない。だからハチは、廊下の突き当たりの、丸い窓の外へ回った。灯りを一つ点け、黄色い胴が窓に映るようにして、右の腕を持ち上げる。左が半拍遅れて上がった。
窓の向こうで、小さな影が跳ねた。子供が窓に鼻を押しつけて、手を振っている。親が二人、その後ろで笑っていた。両腕を三度振ってから、艇を横へ滑らせて、視界から外した。
艇を固定架へ戻して廊下へ回ると、ユイが窓の前で待っていた。
「あの子、まだ窓から離れないの。左が遅い、って大声で解説してる」
「知ってる」
「直さないの?」
「三回直した。三回戻った」ケイは工具箱を持ち直した。「戻るのは、癖だ。癖には、先に命令を出す」
「それ、番組で使っていい?」
「撮るな」
ミチの部屋の前を通りかかると、扉は、細く開いたままだった。五段目の何もない板が、廊下の灯りを薄く受けている。ケイは通りすがりに、その板の高さを、目で測った。何を置くにしても、ちょうどいい高さだった。
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