第10話 最初の一隻
その朝、ケイは接岸口の留め具を、四つとも順に触った。
昨日の検査で、全部通っている。検査の請求は八千クレジットで、それを払ったあとに、使用可の記録が届いた。それでも手が勝手に動いた。爪の腹を一つずつ撫で、開閉の軸に耳を寄せ、密閉の縁に指を這わせる。二千三百クレジットの薄い輪は、どの縁でも、溝に平らに収まっていた。四つ目まで行って、また最初へ戻ろうとしたところで、ヴィクに腕を掴まれた。
「もう十分」食堂からは、夜明け前から焼きパンの匂いが廊下に流れていた。オトは、客が着く前に、二十個焼くつもりでいる。
「三周目だ」ケイは四つ目の爪から、手を離さなかった。
「ハチに乗りな。あんたがここにいると、爪が緊張する」ヴィクは腕を掴んだまま、ケイを出口へ向けた。
修理ベイの外で、ハチの固定が外れた。黄色い背中に体を滑り込ませて、ハッチを閉めた。通信機に、エマの声が入った。「ポルカ、コロ。予定どおり入る」
「了解。口の外で待つ」ケイは操縦桿の感触を、両手で確かめた。
コロの外へ出ると、星の光の中に、白い船体が浮かんでいた。黄緑の線が船腹を一本横切り、その脇の外装は、きれいな新しい板に替わっている。歪んだ板のほうは、まだコロの資材台に固定してある。ハチを接岸口の横へ回した。案内灯だけでは、岩肌の影が邪魔をして、口の位置が船から見えにくい。ハチの灯りを口の縁に当てると、丸い輪郭が、闇の中に白く浮いた。
「口、見えた」エマの声は、いつもより短かった。
「右は空いてる。そのまま、まっすぐ」ポルカが向きを変え始めた。大きな船を細かく動かすのはエマの仕事で、ケイは外から見える隙間を、声に出して伝えた。船の窓が、ハチの前を次々に横切っていく。窓ごとに、違う顔があった。三人家族。本の箱を膝に載せた女。肩に袋を掛けた男。中の子供が、こちらへ手を振っていた。振り返したくなる腕を、ケイは堪えた。いま動かさないほうがいい物が、窓の外にたくさんある。
「あと十メートル。右、まだ空いてる」「見えてる。減速する」ハチの灯りの輪の中で、船首が音もなく大きくなった。
「五メートル。爪の位置は、上から見て一時。合わせて」
「合わせた」エマの声が、口の中で反響するように低くなった。
「もう半分。そこで止めて」
船首が止まった。「受け側、待機完了」ヴィクの声が入った。テツの映像で、四つの留め具が開いているのが見えた。死んだように傾いていたあの一つも、ほかの三つと同じ向きに、爪を立てている。
船が丸い口へ近づいた。
触れた。
一つ目が閉じる。二つ目。三つ目。最後の一つが閉じた音は、ハチの外壁を震わせて、ケイの座席まで来た。ポルカの動きが、コロと一つになった。ケイは操縦桿から、片手だけ離した。
「固定確認。気密確認へ移る」ヴィクは、いつもと同じ声だった。そのあとの三分間、必要なことしか、誰も言わなかった。
「一分。差圧、動いてない」
「継ぎ目、乾いてます」テツの声が、小さく続いた。縁の溝の中で、二千三百クレジットの輪が、指の届かない所で仕事をしている。
「二分」ハチの計器の針は、動かなかった。途中で、ケイは自分の指の関節が白くなっているのに気づいて、開いた。
「漏れなし」その瞬間、ヴィクが壁を一度、掌で叩いたのを、テツのカメラが拾っていた。
「船側、了解。扉を開ける」エマの声のあとで、映像が内側に切り替わった。通信の端で、エマが一言だけ足した。
「ケイ。いい口」
「料金表に書いてある」ケイは礼を言う代わりに、値段を言った。
「そういう返事をする人なのね」船の扉の向こうに、コロの廊下が見えた。床から床へ、切れ目なく、つながっている。
床には、白いテープが延びていた。降りてくる最初の靴が、その上を踏んだ。三百人目が立つはずの場所に、宇宙服の代わりに、手提げ袋を持った女の靴が、普通に、一歩、乗った。次の客は、車輪のついた鞄を引いていた。扉の敷居で車輪が一度止まり、それから乗り越えた。小さな車輪の乗り越える音が、ハチのマイクにまで届いた。
かた、と鳴った。
ケイは声を出さずに笑った。廊下の端では、ユイが片手を上げて客を迎えている。足元のテープを見て立ち止まった客に、ユイは早口で何かを言った。客が、テープの黄色い端と、ユイの顔を、順に見た。
「住民って、何人いるんですか」
「今、十七。あなたが十八人目になるかも。部屋は見せる。見るだけでも、タダ」
ハチの通信が、そのやり取りをそのまま拾っていた。頭を抱えたくなったが、客が笑っていたので、そのままにした。
「外側、異常なし」自分の声が掠れているのを、ケイは聞いた。窓の中の子供が、まだこちらを見ている。ケイは右の作業腕を持ち上げた。左が半拍遅れて上がる。子供が指を差して笑い、親の袖を引いた。ケイはそのまま、両腕を振った。左は最後まで遅れていた。
艇を固定架へ戻すと、ケイは廊下へ回り、敷居の前で膝をついた。車輪に巻き上げられた白いテープの端が、床から浮いていた。指の腹で押しつけると、糊が戻って、テープは元の位置に貼りついた。ヴィクが後ろから覗いた。
「そこは、あとで私が見る」
「見といてくれ。俺は、もう見た」ケイは立ち上がって、膝の埃を払った。
* * *
放熱板の清掃は、船が止まっている間に済ませた。ポルカの船底へハチを寄せ、縁の汚れを専用のパッドで拭う。前回と違って、歪んだ板を抜く必要がない。終わった板から順に、乗員へ返した。「二枚目、上がった。冷却、戻していい」「了解。温度、下がってます」水拭きの跡が一本ずつ、船の腹を横に並んだ。
ハチを固定架に戻し、食堂へ入ると、いつもと違う靴音が重なっていた。窓際の席に、エマが座っている。映像のときより、目線が高い。袖をまくり、手に薄い書類袋を持っていた。彼女がエマだと分かるまで、数秒かかった。
「作業代と停泊料、払った。確認して。それと、板の料金表。あれ、私の条件そのままね」
「書かされた」ケイは肩をすくめた。
「書かせたの」エマは、少しも悪びれなかった。
三千クレジットが入っていた。清掃の資材と、ベイの共同分を引いても、ちゃんと残る額だった。エマは、オトの出した皿を受け取り、豆と肉の煮込みを一口食べてから、端末を出した。
「次の枠、七日後で変わってない?」
「空けてある」
「使う。次は貨物が増える」エマは皿のパンを割った。背に、焼き印が白く残っている。「これ、何。コロ?」
「看板と同じ字だ。俺のポンチ」
「ロゴ、悪くない」エマは半分になったパンの断面の匂いを嗅いでから、窓の外のハチを、ちらりと見た。「子供に手を振ってたでしょう。左が遅れるの、そこから見えてた」
「見えてたか」ケイは、自分の左手を見た。
「遅れてても、最後まで振ってた。あれは、悪くなかった」エマはそう言って、椅子に座り直し、卓を指で軽く叩いた。「この椅子。誰が作ったの」
「俺」
「右が、低い」
椅子の脚の前に膝をつき、ケイは座金の缶を開けた。エマは立たなかった。座ったまま、片足を宙に浮かして、待った。
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




