第108話 蓋の裏は、誰が書く
夜の食堂は、卓を全部廊下へ出しても、立つ人のほうが多かった。ユイは放送室の窓を開け放し、端末を二つ、食堂の真ん中の台に並べた。片方の画面に、砂時計の絵が出ている。
「クレアさん、十五分。ケイ、十五分。質問は、そのあと。時間が余っても、延ばさない」ユイはケイに端末の一つを押しつけた。「はい、ケイの枠」
ケイは端末を受け取り、台の上に戻した。「使わない」
「使いなさいよ」
「喋ることがない」
「ある」ユイは声を落とした。「あるでしょう。いつもみたいに、黙ってるだけで」
ケイは答えずに、壁際の、アーチの図面の端が廊下へはみ出している所に立った。背中の側の床を、テープの黄色が延びていた。
クレアは十五分きっかりで話した。紙は見なかった。家賃は今と同じ額を五年据え置き、そのあとも当社の標準の範囲。医者は、アーチの脚の区画に診療室を一つと、常勤を一人。仕事は、港の運営に要る人数を、先にコロの住民から採る。操作手、整備、荷役、清掃、食堂。一つ言うたびに、どこかで誰かの肩が下がった。質問は、十五分では終わらなかった。
「子供の学校は」
「ナバまでの通学便を、当社の船で。無料です」
「年寄りが、仕事を続けられなくなったら」
「当社の規定で、年金の上乗せがあります。書面でお渡しします」
「食堂は」厨房の奥から、オトが言った。
「当社の契約の業者が入ります。今の方にも、続けていただけます。献立は、当社の基準で」
オトは鍋の蓋を持ち上げ、中を覗いて、蓋を戻した。それきり、何も聞かなかった。
「給料は、いつ払われる」
「毎月、同じ日に」
最後の答えで、食堂の後ろのほうで、誰かが笑った。笑いは、すぐ止んだ。給料の出ない会社の岩に、ここの半分以上の人が、一度は住んでいた。
「ケイさんのほうは」聞いたのは、窓棟三号の二階の父親だった。「ケイさんの港で働いたら、給料は、いつ出るんです」
食堂の顔が、壁際のケイに集まった。ユイが、台の上の端末をケイの方へ押し出した。砂時計の絵が、まだ満ちたまま止まっている。
ケイは端末に手を伸ばさなかった。壁から背中を離しただけだった。
「出ない月もある」ケイは言った。「出る月は、仕事のあった月だ」
誰も笑わなかった。クレアも笑わなかった。クレアは手帳に一行書き、次の手が挙がるのを待った。ユイが、端末を台の真ん中へ引き戻した。引き戻す手が、いつもより遅かった。
クレアは、人の名前で答えた。ホタの農家の夫婦には保冷の倉庫の話を、キサから来た溶接工には、ヘロンの港の溶接の検定の話を。溶接工は腕を組んだまま、黙って聞いていた。組んだ腕が、途中でほどけた。
「トキさん」
クレアは、入口に近い卓のトキに、体を向けた。トキは湯呑みを握っていた。
「当社の港には、整備腕の操作手が三十人います。交代が組めて、休みが取れる現場です。あなたの席を、用意してあります。こちらのアーチでも、当社のほかの港でも」
トキは湯呑みを置かなかった。クレアの顔を見て、それから卓の上の自分の手を見た。長い間、何も言わなかった。クレアは待った。待ち方が上手だった。やがて次の質問の手が挙がって、トキの番は過ぎた。
食堂の入口の外に、エマがいた。ポルカの折り返しの間に、客として来ていた。敷居の手前、黒い線の半歩前に靴を揃えている。手が挙がった。
「入港料は、誰の表で」
「当社の表で」クレアは答えた。「どの港でも、同じ表です。遅れの違約金も、当社の規定で」
エマは頷きもせずに手帳を出し、一行書いて、閉じた。それだけだった。
* * *
最後に手を挙げたのは、ヴィクだった。ヴィクは卓の下から鉄の板を一枚持ち上げて、台の上に置いた。窓棟三号の、電気室の盤の蓋だった。昼のうちに、自分で外してきた物だ。裏を上にして置いた。
蓋の裏に、字が並んでいた。一番古いのが、ヴィクの太い字。その下に、ヴィクを真似た細い字。細い字は、行を追うごとに、どこか別の人の癖に寄っていく。その下に、テツの署名と試験紙の番号。一番新しい行に、トキの角ばった字で、爪の軸の油の種類。
クレアの随行員が、鞄から綴じ本を出して、蓋の横に置いた。ヘロンの標準点検書式。クレアがめくって見せた。どの頁も、同じ枠、同じ欄、同じ印字だった。
「当社は、全部の港で、この書式を使います。誰が点検しても、同じ紙が残ります」
ヴィクは綴じ本を手に取り、頁を三枚めくった。枠の線の太さを、爪の先でなぞった。戻して、また三枚めくった。
「いい紙だね」ヴィクは言った。本気の声だった。「で、蓋の裏は、誰が書く」
「当社の書式で」クレアは答えた。「どの港でも同じ字です」
ヴィクは蓋の裏の、細い字の行を、指の腹で一度なぞった。「なら、あの子の字は要らなくなるね」
クレアは、綴じ本を閉じなかった。食堂の半分が蓋を見て、残りの半分が綴じ本を見ていた。若い保守員は、壁際で、自分の袖口を握っていた。
「要らなくなります」クレアは言った。「あの方が辞めても、港は困りません。それが、当社の書式です」
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