第107話 全部、こちらで持ちます
ヘロン港湾の小型艇は、北の口に、時刻どおりに着いた。接岸の手際がよかった。爪が閉じる前に、艇の側が速度を殺しきっている。環の保温帯の緑の粒が一つも瞬かないうちに、気密の表示が変わった。ケイは口の内側の壁に手を当てていた。掌に来た振動は、ほんのわずかだった。
降りてきたのは、四十代半ばの女だった。紺の上着に、会社の小さな徽章。後ろに随行員が二人、筒と鞄を抱えている。女は扉の敷居をまたぐ前に、一度足を止めて、床を見た。黄色と黒の二本の線が、口の廊下の奥へ延びている。
「クレアです。ヘロン港湾の、開発部」女は手を出した。握ると、乾いた手だった。「アサノさん。それから」目がケイの肩の後ろへ行った。「ヴィクさん。設備主任。テツさんは、今日は北宿舎の盤でしたね」
ヴィクが、腕を組んだまま眉を上げた。「よく覚えてきたね」
「覚えるのが仕事です」クレアは、壁の継ぎ目を手の甲で叩いた。一度。耳を寄せた。「いい音です。この継ぎ目は、一度剥がして、合わせ直してある。合わせた人は、合わせる前に両側を削っていますね。削らない人の継ぎ目は、もっと鳴ります」
ケイは黙っていた。その継ぎ目を削ったのは、若い保守員だった。
* * *
クレアは、コロの中を歩きながら、正確に褒めた。食堂の配膳台のチョークの付けを見て、「現金の少ない港の、いい仕組みです」と言った。窓棟三号の電気室では、盤の蓋を開けてもらい、裏の字を頭灯で読んだ。型番、日付、理由。四人分の筆跡。
「字が読めます」クレアは言った。「読める字で書く港は、多くありません」
六十四人棟への接続通路の前で、クレアは足を止めた。二列の窓の真ん中を、橙の線が横に切っている。外から見れば一本の線だが、中から見ると、窓ごとに切れた短い線が、硝子の上に並んでいるだけだった。
「この線は、残してあるのですね」
「残してある」
「塗り直す費用は、当社で持てます」クレアは言った。「窓の枠も、揃えて。住んでいる方の気持ちが、変わります」
「変わらなくていい」
クレアは手帳に何か書いた。何を書いたのか、ケイの位置からは見えなかった。ヴィクが、ケイの後ろで小さく鼻を鳴らした。嫌な顔の練習の音だった。
「あんた、ほんとに全部見て回る気かい」ヴィクが言った。
「全部、見ます」クレアは手帳を閉じた。「見ないで持つとは言えませんので」
食堂の壁の前で、クレアは随行員から筒を受け取った。壁には、アーチの図面が貼ってある。端が廊下へはみ出して、床のテープと並んで走っている。その隣に、エマが黄緑で線を足した航路図。クレアは航路図の反対側の空いた所に、筒から出した紙を広げ、四隅を画鋲で留めた。
完成予想図だった。コロの北の面に、アーチが据わっている。枠は白く塗り直され、爪の列が揃い、大きな船が腹を預けている。岩肌の窓は、全部同じ形の四角に揃っていた。丸窓はない。六十四人棟の二列の窓も四角くなって、真ん中の橙の横線は塗り消されている。食堂の中を描いた小さな挿絵もあった。床は明るい灰色で、どこにも線は描かれていなかった。
「当社の案です」クレアは言った。「トバの資産を一括で買い、アーチをこちらの北面に据えます。曳航も、据付の工事も、大型の発電設備も、全部、こちらで持ちます。星は、アサノさんの物のまま。北面の地代をお払いします。二つの口とアーチの運営は、当社が二十年、一括でお受けします。住んでいる方には、当社の雇用を」
「港は売らない」言葉を選ぶより先に、口が動いていた。クレアは頷いた。表情は、そのままだった。
「売っていただく話とは違います。貸していただく話です」
「同じだ」
「同じだと思われる方には、同じです」クレアは予想図の横に立ったまま、手帳を開いた。「では、住んでいる方に、直接お話しします。今夜、この食堂をお借りできますか。借りられなければ、廊下で」
「放送は私がやる」厨房の入口から、ユイが言った。放送用の端末を、両手で胸に抱えていた。「両方の話を、同じ長さで。それが決まり。ケイにも、同じ長さ」
「俺は、いい」
「よくない。決まりだから」
「それで結構です」クレアは、ユイに向かって頭を下げた。ペンの先が、手帳のケイの名前の下に、線を一本引いた。それからクレアは、壁の図面を見上げた。
「アーチには、工具棚と予備の部品が付いてきます」クレアは言った。「置く所がなければ、枠は運べても、仕事は運べない。工房のない港に、港は運べません。当社には、置く所があります」
ヴィクが、組んだ腕の中で、指を一本だけ動かした。ケイは予想図の前に立った。白い枠。四角い窓。灰色の床。指を伸ばして、挿絵の床を、爪の先で二度叩いた。乾いた紙の音がした。
「線がない」
「新しい床ですから」クレアは言った。
挿絵の灰色の床に、ケイの爪の跡が二つ、小さく凹んで残っていた。新しい床の上の傷は、それだけだった。
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