第106話 売り手の朝
七時に目が開いた。
遅く起きる、と決めて寝たのに、体はいつもの時刻を覚えていた。ケイは寝台の上で天井の配管を眺め、継ぎ目の保温材が一か所めくれているのを見つけ、見つけたことを後悔した。起き上がれば、直したくなる。起き上がらずに、もう一度目を閉じた。瞼の裏で、めくれた保温材の端がひらひらしていた。
七時四十分に諦めた。扉は、いつものように閉まらずに、蝶番の側から枠へもたれていた。机の上では万力が延長管を噛み、その横の壁で、刷ったアーチの写真が押しピン四つに留まっている。ケイは写真の前を素通りし、工具袋に伸ばしかけた手を、上着の胸のポケットへ回した。黒いペンと鉛筆が、指先で並んでいた。
食堂には、休みの朝の匂いがした。オトが焼き台の前で、パンに焼き印を押している。窓際の卓に、エマがいた。制服を着ていない。膝の抜けた作業ズボンに、厚手のシャツ。湯呑みを両手で包み、ケイの顔を見るなり言った。
「早い」
「遅く起きた」
「七時四十分は、遅くない」エマは湯呑みを置いた。「苦手なことを一つ、って言ったのに」
「やった。三十分だけ」
オトが、焼き印の付いたパンを二つ、卓に置いた。片方の焼き印が、いつもより深く焦げていた。
ケイが座ると、椅子の脚のどこかが、体の重さに合わせて一度鳴った。二番の椅子だった。前に一度締め直した脚の、同じボルトの音だ。指が上着の上を探って、工具袋のない所を掴んだ。「持ってきてない」
「知ってる」エマは湯呑みから目を上げなかった。「持ってきてたら、私は帰ってた」
「帰るのか」
「休みの人と休みを過ごす、って約束したでしょう。働く人と過ごすなら、ポルカで働く」
ケイは椅子の上で、体の重さを反対の腰へ移した。ボルトは鳴らなくなった。鳴る場所を、体でよけただけだった。エマはそれを見て、パンをちぎった。ちぎった半分を、ケイの皿に置いた。焦げの深い方だった。
* * *
十時に、扉の枠が二度鳴った。食堂の入口の、開けっ放しの扉の枠を、ラズが指の関節で叩いていた。叩く必要のない扉を叩く。それがラズのやり方だった。灰色の上着の脇に、背表紙のある綴りを一冊抱えている。拳一つ分の厚さがあった。
「休みの日に、申し訳ありません」
「知ってて来たろう」
「知っていて来ました。今日なら、お二人ともいらっしゃる」ラズは卓の前で、エマに一礼した。「船長にも、聞いていただいたほうが早い」
エマは席を立たなかった。湯呑みを脇へ寄せ、卓の上に空いた場所を作った。
「休みだから、聞くだけ。口は出さない。値段の話になったら、帰る。それでよければ」
「それで結構です」
ラズは座り、綴りを卓に置いた。開かなかった。手を表紙の上に置いたまま、話し始めた。
「トバの清算は、当社が一括で受けました。アーチも含めて。シノさんが付けた優先交渉権は、当社が引き継ぎます。最終の期日は、変わらず四百日目。それまでに、本体の代金と、曳航の計画を」
「知ってる」
「存じています。念のためです」ラズは綴りの背を、指で一度なぞった。「買い手の候補は、二つあります。あなたと、もう一社。私の基準は一つです。高く、早く、確実に。三つ全部を取れる買い手は、いません。三つのうち二つを取れる方に、売ります」
「あんたの欲は、どれだ」
「どれでもありません」ラズは、ためらわなかった。「受託者の報酬は、トバの貸し手に返した額で決まります。返した額が多いほど、当社の値段が上がる。高いのは好きです。ですが、成り立たない高さは、零と同じです」
ケイは席を立ち、自分の部屋へ行って、戻った。手に持ってきたのは、紙一枚だった。シノに七つの山を出した日にもらった、受理の控え。その上に、床のテープの写真を一枚、重ねてある。食堂の入口から始まって、角を曲がっていく黄色。
ケイはそれを、ラズの綴りの横に置いた。卓の上に、紙が二つ並んだ。片方は拳の厚さで、もう片方は、卓の木目が透けそうに薄い。
エマが手を伸ばした。親指と人差し指で、綴りの厚さを挟んだ。指の間が、開いた。次に、控えと写真を挟んだ。指の間は、ほとんど閉じていた。エマはそれ以上何もせずに指を離し、湯呑みを手元へ戻した。比べた顔もしなかった。「口は出さない」エマはもう一度言った。
ラズは、エマの指の動きを、最後まで見ていた。それから、綴りの表紙を指で一度叩いた。
「中身を、ご覧になりますか」
「見ない」
「賢明です。見れば、比べたくなる。比べると、人は向こうの紙に合わせて、自分の紙を書き直します」
ラズは綴りを手元へ引き寄せた。「厚さは、中身の値段と関係がありません。ですが、向こうの方は、厚い紙を書き慣れている。書き慣れた人の紙は、間違いが少ない」
オトが、厨房の奥で鍋の蓋を置いた。ケイは、自分の薄い紙の角を、指で卓の縁に揃えた。揃えても、厚くはならなかった。
「向こうは、いくらだ」
ラズは綴りから手を離した。表紙に、会社の名前はなかった。
「向こうは、トバを丸ごと。百六十万です」
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