第105話 一年目の窓
三百六十五日目の朝、ユイは丸窓の廊下のいちばん奥で、床に膝をついていた。
テープの端を、指の腹で押さえている。黄色と、その下の黒い細線。食堂の入口から始まった二本の線は、接岸口の扉を越え、客の廊下を抜け、二本目の口の廊下で折れて、六十四人棟の二列の窓の下を通り、トバの宿舎の玄関を過ぎ、ブロックA、B、Cの丸窓の下を、一区画ずつ辿ってきていた。最後の区画は、昨日の夕方、ホタから来た夫婦の分だった。
「一年で、ここまで来た」ユイは、振り返らずに言った。「最初の日、私、食堂の入口のそばにしか貼ってなかったんだよ。テープが余って、困ってた」
「今は」
「今は、テープが足りない。何度も追加で注文した」ユイは立ち上がって、膝の埃を払った。「物差しのほうが、先に尽きた」
廊下の途中の一室の扉枠に、鉛筆の線が何本も、横に引かれていた。下のほうの線は古い。前に住んでいた家族の子供の背丈で、出ていくときに、消さずに置いていった線だった。いちばん上の五本目だけ、新しかった。キサから来た鉱夫の娘が、昨日、引いた。すぐ下の線より、指二本分高かった。
* * *
夕方の『コロ、夕方の雑談』は、長い特別編になった。
食堂の卓は全部廊下まで出され、それでも立っている人のほうが多かった。オトは一番大きな鍋を二つ並べ、柄杓を両手に一本ずつ持っていた。窓際の卓には、船団の船長たちが、客として座っていた。コマは寝袋を椅子の背に掛け、ブンは老眼鏡を額に上げて、トレイの船長と料理の値段の話をしている。タルクは画面の中で、掌の上に小さな杯を載せていた。リレーの船長は、白板の代わりに紙ナプキンに何か書いていた。トキが、トバの宿舎の家族と一緒に、入口に近い卓にいた。整備腕の把手を握っていた手が、今日は湯呑みを握っていた。
端末に、サワの顔が映った。「請求書、送った。おめでとうは、三行目。今日も無料」
「買った日と同じ行だ」
「あれから行が増えたから、三行目の重みが違う」
ヴィクが、湯呑みを持ってケイの隣に座った。テツと若い保守員が、向かいの卓で、蓋裏の字の書き方の話をしていた。どちらの字が読みやすいかで、揉めていた。
「今朝、全部の盤の蓋裏を数えた」ヴィクは言った。「あんたの字は、三割まで減ってたよ。残りは、あの二人と、トキの字」
「減ったか」
「減った。あんたが直せない盤が、この岩で一番多くなった」ヴィクは湯呑みを傾けた。「一年目としては、上出来」
ユイが放送室から、食堂の端末越しに喋っていた。今日は放送室の窓を開け放して、声が二重に聞こえた。
「今日の一通。サエさんのところの子から。『一年目の日に、ハチの両手を見せてください』。……だって、ケイ」
食堂中の顔が、ケイのほうを向いた。ケイは匙を置いた。オトが、鍋の蓋を閉めた。
「外から、全景、撮ってきて」ユイが言った。「買った日と同じ。番組で使う」
* * *
ハチで外へ出た。灯りを一つだけ点けて、コロから離れた。
岩肌の上に、窓の列が現れた。旅客の丸い口と、北の溝の近くの二本目の口。その間を、窓がつないでいる。食堂の窓。南棟の窓。東宿舎と窓棟。六十四人棟の二列の窓は、真ん中に橙の横線を一本、薄く残したまま、全部に灯りが点いていた。その横に、トバの宿舎の四角い窓。そして岩肌の端から端へ、客船の丸窓が、三つのブロックぶん、ずらりと並んでいた。買った日の夜に全景を撮ったときの窓は、この写真の中で、半分より手前の、ほんの一角に収まっていた。
「どう、見えてる?」ユイの声が通信に入った。
「見えてる」
「窓、数えた?」
「数えない」
「知ってた」ユイが笑った。「今日は、私が数えたから。居住、八百五十二。避難の席は、千を越えた。……はい、数字、おしまい」
ケイは答えずに、ハチを一段、岩から離した。全景が、端から端まで一枚に収まる位置まで。ブロックBの丸窓の廊下の突き当たりに、展望の窓があった。真鍮の縁の、子供の背丈の所が擦れて明るい窓。そこに、小さな人影が張りついていた。
ケイはハチの両腕に、同じ瞬間に、命令を送った。
二本の腕が、同時に上がった。
同じ高さを、同じ速さで。右も左も、灯りの中で、同じ角度に止まった。展望の窓の中で、小さな影が、両手を、いっぺんに上げた。両手で、大きく振った。ケイも両腕を振った。どちらの腕も遅れなかった。遅れない両腕と、子供の両手が、窓の硝子越しに、同じ拍子で揺れた。
放送の向こうで、食堂が沸いた。誰かが卓を叩き、誰かが鍋の蓋を落とした。ユイが、何か言おうとして、言葉にならずに笑っていた。
写真を撮って、ユイに送った。食堂の窓が、ひとつ、大きく光って、元へ戻った。
* * *
祝いの席が片づき始めた頃、エマは食堂の入口で、ポルカの乗員に何か言い置いていた。
「明日、ポルカは出ない」エマは、ケイが近づくと、先に言った。「整備日。乗員も休み。私も、休み」
「俺も、休みだ」
「知ってる。操舵室の表に、線が二本ある。同じ太さで」
ケイは、エマの上着の袖に付いていた、テープの黄色い切れ端を、指で摘まんで取った。エマは、それを見て、何も言わなかった。二人は、入口の床の最初の区画の上に立っていた。一年前、ユイが最初に貼った十センチだった。エマの爪先が、黒い線の上にあった。いつもは、線の半歩手前で止まる靴だった。
「明日、朝は遅くていい」エマが言った。
「遅く起きるのは、苦手だ」
「なら、苦手なことを一つ、やってみて」
胸のポケットで、指が黒いペンに触れた。鉛筆の隣に、ユイに返しそびれたままのペンがあった。床に自分の十センチを引くための、住む人のペンだった。好きだとは、もう言ってあった。まだ言えていないのは、その先の十センチだった。ケイはペンを握ったまま、ポケットから出さなかった。エマの爪先と自分の爪先が、同じ区画の上に並んでいた。
* * *
自室の机の上で、万力の口に、外した延長管が噛まされたままになっていた。「なぜ」の下に、答えが書いてある。読める字で。
ケイは端末から、トバで撮った写真を一枚、紙に刷った。巨大な枠。アーチ。その下の黄色い点。枠の両端は、写真に収まっていない。それを、万力の横の壁に、押しピンで四隅を留めた。
アーチの口座を開いた。一年分の仕事が、そこに入っていた。数字は、本体の値に、まだ十四万届いていなかった。運ぶ金と、据える金は、まだ一枚も数えていなかった。
扉は、相変わらず閉まらなかった。蝶番の側が下がって、枠に当たる。その開いたままの扉の枠を、誰かが、指の関節で二度叩いた。
革靴だった。廊下の床のテープの、黄色の縁の細い所だけを踏んで、ラズが立っていた。手に何も持っていなかった。鍋も、案内の紙も。
「おめでとうございます。一年、ですね」ラズは頭を下げた。「祝いの席には、間に合いませんでした。間に合わないように来ました。私が座ると、話が仕事になるので」
「入ってもいい。扉は閉まらないけど」
「いいえ、ここで」ラズの目が、ケイの肩越しに、壁の写真へ行った。万力の横の、刷ったばかりのアーチ。ラズは、それを長いこと見ていた。「トバの資産の清算を、当社が一括で受託しました。今日、契約が済みました。アーチも、その中に入っています」
ケイは、ラズの顔を見た。ラズは、いつもの顔をしていた。有能で、譲らない人の顔を。
「明日、トバの話をしに来ます」ラズは言った。「売り手として」
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