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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第8章 この航路は渡さない

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第102話 岩ごと、引いてみろ

「ブレーキの補助、上げな」ヴィクの声が、テツの息の上に被さった。「電源室から全部回す。落ちるよ、リレー」


「乗せ替える。四秒」


 影の側の非常灯の緑まで、消えた。ハチの通信の雑音が、一瞬、途切れた。一。綱が爪の下で、また一掴みぶん滑った。二。三。杭の根元で、岩の粉が細く噴いた。四。


「乗った」


「巻き胴、止まりました」テツの声が裏返った。「止まってます。張力、定格の線の上で、止まってます」


 綱は、もう滑らなかった。溝の奥から喉まで、喉から闇の中のCまで、一本の棒のように張って、震えていた。震えの周期が、爪の下で、長くなっていった。


 そのとき、Cが回り始めた。


 ケイは喉の杭の陰から、それを見た。ガルムは、Cをまっすぐコロから引き離す向きに引いていた。だが綱は、Cの曳航金具から喉の杭へ、斜めに張っている。引けば引くほど、Cの片方の端は喉へ引き戻され、もう片方の端だけがガルムに持っていかれた。白い腹が、闇の中で、大きく向きを変えた。丸窓の列が、横一列から斜めになり、さらに傾いた。Cに鉤で繋がったガルムの黒い船体が、Cの回る向きに振られて、船首を、コロの岩の尾根へ向け始めた。


「尾根に寄ってくる」ブンの声だった。「船首が、こっちの尾根に、寄ってくる」


「ガルムの船首が、岩のほうへ回されてます」ユイが放送で言った。早口だった。「引っ張ってるのはガルムなのに、ガルムが、岩のほうへ」


 赤外の画面で、ガルムの横腹に白い熱の点が幾つも噴いた。ミノスは速かった。振られた船首を横の推力で押し戻し、切り返した。黒い船体が尾根から離れ、白い腹の回転が止まった。有能な船乗りの手だった。ガルムの主機が限界まで上がり、綱が鳴り、巻き胴が歯を食いしばり、岩は、何もしないで、そこにあった。


 船の推力は、岩に勝てない。だが、岩も、船を引き寄せはしない。


「巻き胴は持つ」ヴィクが言った。「岩は、もっと持つ。持つだけだけどね」


「小舟が二隻、Cの向こうに回ってる」コマの声が割り込んだ。「ガルムの子分。鉤を足しに来る気だよ。ヤットコ、出る?」


「出るな」ケイは言った。


「こっちで照らす」ブンが言った。「年寄りの目潰しを、見せてやる」


 尾根の上で、カンナの作業灯が全部点いた。古い、目の痛くなるほど白い灯だった。Cの向こうへ回り込もうとしていた小舟の影が、光の中で止まり、慌てて灯の外へ逃げた。


「ユイ、喋り続けろ」


「喋ってる、ずっと喋ってる」ユイの声が、放送と通信の両方で弾んだ。「今、ブンさんの灯で、小舟が逃げました。ケイは、たぶん、これから出ます。出ますよね?」


 ケイは、ハチの灯りを一つ点けた。


 杭の陰から出た。綱に沿って溝の口を抜け、Cへ向かって飛んだ。Cの白い腹が近づき、その向こうに、ガルムの黒い船体が、灯を消したまま、Cにしがみついているのが見えた。鉤が横に並んでCの外殻の縁に食い込み、その軸から伸びた索が、ガルムの舷へ張っていた。


「外しに行くな」ミノスの声が、通信に入った。低いまま、いつもより速かった。「張った鉤に手を出したら、腕ごと持っていかれるぞ」


 ケイは答えずに、いちばん左の鉤の横で、ハチを止めた。


 鉤の軸は、ケイの腕ほどの太さがあり、張った索に押しつけられて、動く気配もなかった。ケイは、爪を軸に添えたまま、待った。ミノスが切り返す。切り返すたびに、Cの向きがわずかに変わり、鉤と鉤の間で、力の配分が移る。ガルムが右へ押すとき、いちばん左の一本だけが、ほんの一瞬、緩む。


 その一瞬に、右と左を、同時に出した。


 右の爪が軸を掴み、左の爪が鉤の爪先を外殻の縁から持ち上げた。前のハチなら、左は半拍遅れて、緩みはもう終わっていた。今は、同じ瞬間だった。鉤の爪先が縁から外れ、索に引かれて闇の中へ飛んでいった。


「一本」


「一本、外れました」ユイが言った。放送の向こうで、誰かが息を呑む音が重なった。


 次の鉤は、Cが押し戻される途中で来た。ケイは次の緩みを、爪の下の震えで数えた。三つ目の震えで、また両腕を同時に出した。外れた。鉤が、索ごと闇に消えた。残りの鉤に、ガルムの推力が全部乗った。Cの外殻が、鉤の周りで細く鳴った。


「二本」


「やめろ」ミノスの声だった。職人が、他人の手の危なさを言うときの声だった。「二本で持たせたら、軸が折れる。折れた軸が、あんたの計器盤に来る」


 隣の鉤の軸に、ハチの灯りを当てた。


 軸の根元の近く、索の輪が擦れる場所に、磨いた跡があった。磨いた跡の縁に、磨き残しがあった。細い、打ち込みの文字。管区の番号。数字の並びの最後の二つは、一と八。ケイの上着のポケットに入っている紙の、一行目の番号と同じだった。ナバ線の、最初に消えた一基。台座の脚は、いい鋼です。鉤の軸くらいには、なる。


「……番号」ケイは言った。


「番号って、ケイが」ユイの声が上ずった。「ロクさん、ガルムの鉤に、番号があるって」


「聞いています」ロクの声が、そこで速くなった。「そのまま、持っていてください」


 ケイは右の爪で、Cの外殻の手すりを掴んだ。左の爪で、その軸の、刻印の上、指一本ぶん離れた所を握った。刻印を潰さないように。次の緩みを待った。ミノスが切り返した。Cが回った。緩んだ。左の爪が、握ったまま、軸ごと引き抜いた。鉤の爪先が外殻から外れ、索がハチの前で激しく跳ね、左の腕の付け根が鳴った。離さなかった。軸は左の爪の中に残り、索だけが、ガルムのほうへ引かれて張った。ケイは索の付け根を右の刃で切った。軸が、ハチの左の手の中で、重く静かになった。


 残りは、一本だった。


 最後の鉤に、ガルムの推力の全部が乗っていた。Cの外殻の縁が、目に見えて歪んでいた。ケイは手を出さなかった。出す必要がなかった。


 Cが、最後に一度だけ回った。喉の杭の綱が、Cの端を引き戻した。最後の鉤の爪先が、歪んだ縁の上を、自分で滑った。


 外れた。


 引いていた物がなくなったガルムは、全部の推力のまま、空を引いた。黒い船体が、弾かれたように前へ飛び出し、Cの腹を離れ、溝の外の尾根の先の闇へ、一直線に走った。


 その先で、光が点いた。


 巡視艇の探照灯だった。尾根の向こうで、ユイの放送が始まったときから、灯を消して待っていた。白い光の柱が、飛び出してきたガルムの黒い船体を、船首から船尾まで、一度で捉えた。灯を消していた船が、影の側の真ん中で、いちばん明るい物になった。


「照らされました!」ユイが叫んだ。「ガルムが、巡視艇の光の中です。ロクさん、見えてますか、見えてますよね」


「見えています」ロクの声は、落ち着きを取り戻していた。「管区巡視、停船を命じます。ガルム、主機を落としなさい」


     * * *


 Cは、喉の綱に繋がったまま、何度か揺れて、止まった。


 ハチは、Cの外殻の横に浮いていた。左の爪に、鉤の軸を一本、握ったまま。右の爪は、Cの手すりを掴んだまま。両腕を広げた形で、ケイは、しばらく動けなかった。


 振り返ると、コロの岩肌の上で、丸窓に灯りが戻り始めていた。ブロックAの窓。ブロックBの窓。どの窓にも、顔があった。展望の窓に、サエの子の小さな影があった。両手を、硝子に当てていた。


 放送から、ユイの声が消えていた。代わりに、食堂にいた誰かの拍手が、マイクにかすかに入っていた。一人の拍手に、また誰かの拍手が重なって、そのうちに、放送の音が割れた。


「……テツ」ケイは言った。


「はい」テツの声は、泣いているのか笑っているのか、分からなかった。「巻き胴、止まってます。あれから、ずっと止まってます」


 通信に、雑音が一つ入った。知らない回線だった。


 光の中で、ガルムは推力を落としていた。回線の向こうで、ミノスが長く息を吐いた。


「……いい岩だ」


 ケイは、左の爪の中の鉤の軸を、灯りから隠さないように持ち直した。


「住んでるだけだ」


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