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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第8章 この航路は渡さない

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101/130

第101話 影の側

 ハチは溝の喉の内側、二本目の杭の陰で、灯りを全部消して浮いていた。


 右の爪を、綱に軽く乗せてあった。握らずに、乗せるだけ。二重撚りの綱は、杭の根元で折り返して、溝の外の闇へ伸び、その先のブロックCへ届いている。綱が何かを伝えれば、爪の付け根から座席まで、それが来る。計器盤の灯も絞ってあった。縁に挟んだ洗濯ばさみの影が、盤の上でかすかに見える程度に。


「こちら放送室」ユイの声が、コロの全館とハチの通信に、同時に入った。「臨時の『コロ、夕方の雑談』です。夕方じゃないけど。今夜は、見えたことを全部喋ります。この放送は、管轄の巡視艇にも繋がっています。ロクさん、聞こえてますか」


 少しの間があって、硬い声が一行だけ入った。「聞いています。記録しています」


「ありがとうございます。じゃあ、今の様子。倉庫Bの操作席に、テツ。電源室にヴィク。外壁の給電口に、リレーさんの船。影の側の尾根の上に、ブンさんのカンナ。ケイは、どこにいるか言っちゃいけないので、言いません」


 どこかの丸窓で、子供が笑った声が、放送の背後に拾われた。ユイは声を落とした。「……みんな、窓から見てていいけど、灯りは消してね」


 ブロックAとBの丸窓が、端から暗くなっていった。コロの影の側の岩肌から、灯が消えていく。星の光だけが残った。


 タルクとボウは、コロの日向の側の遠い闇で、灯を消して待っていた。引かない約束だった。ガルムと綱引きをすれば、索が切れたときに誰かの船が岩に叩きつけられる。力で引き合う役は、今夜は岩に任せてあった。


「引かないのは、苦手だ」タルクの声が、短く通信に入った。


「知ってる」サワが答えた。「だから、うちが隣にいる。引きそうになったら、請求書を読み上げてあげる」


 時間が過ぎた。ケイは数えなかった。綱に乗せた爪の下で、何も起きなかった。座席の背に、自分の心臓の音が当たっていた。


「星が消えた」


 ブンの声だった。低く、しわがれていた。


「尾根の上から見て、Cの向こう。三つ、並んで消えた。今、また三つ。何かが、星の前を横切ってる。でかい。灯を点けてない」


「ガルムです」ユイの声が、放送の中で震えた。「ブンさんが、星が消えたって。灯を消した船が、Cに近づいてます」


 ケイは溝の口から、闇を見た。何も見えなかった。見えないまま、見えない物の形だけが分かった。ブロックCの白い腹の向こうで、星が、細長い形に欠けていた。欠けた形は、じわじわと大きくなり、Cの腹に重なって、止まった。


 最初の振動が、爪の付け根に来た。


 硬い、短い衝撃が、綱を伝って四回、続けて来た。鉤だった。ガルムがCの外殻に、鉤を四本、打ち込んだ。一本ごとに、綱が指で弾いたように細かく震え、座席の背に、四つの小さな点が刺さるように届いた。


「鉤、四本」ケイは通信に言った。喉が乾いて、低い声しか出なかった。


「ケイが、鉤が四本って」ユイが繰り返した。「ロクさん、ガルムがCに鉤を掛けました。四本です」


 次に、綱が、ほんのわずか緩んだ。仮係留の索が切られたのだとケイには分かった。Cをコロに留めていた細い索が、一本、また一本、音もなく切られて、Cが、綱一本だけでこの岩に繋がった形になった。見なくても、その手際は、綱の緩み方で分かった。迷いなく、同じ間隔で、四本。


「切った」ケイは言った。「仮係留、全部」


「こちらテツ。巻き胴、止まってます。ブレーキ、掛けたまま。綱の張り、……ほぼ零です」


 闇の中で、ブロックCが動き出した。


 白い腹が、星の欠けた形に引かれて、コロから離れる向きへ、ゆっくり滑り始めた。丸窓の列が、ハチの目の前を斜めに横切り、窓の暗い硝子に、ときどき星が一つ映っては流れた。何百トンもある客船の居住区画が、音もなく、影の中を持っていかれる。止める物は何もないように見えた。ガルムの主機の熱が、Cの腹の向こうで、赤外の画面にだけ、ぼんやり白く滲んでいた。


 爪の下で、綱が生き返った。


 緩んでいた綱が、溝の外へ向かって、ずるずると引かれ始めた。杭の根元で、綱が向きを変える所が、鳴いた。空気のない所で、鳴るはずがなかった。鳴いたのは、ハチの爪だった。綱の震えを、爪が拾い、付け根が拾い、座席の骨組みが拾って、ケイの背骨に、低い、長い音として届いた。


 綱が、張った。


 喉の二本目の杭で折り返された綱が、溝の中と外で、同時に一直線になった。杭の根元の岩の粉が、ぱっと舞い上がり、ハチの閉じた灯の前で、星の光を受けて光った。Cの腹が、一瞬、引かれる向きの途中で止まった。ガルムの赤外の滲みが、白く強くなった。主機を、上げてきた。


「テツ」


「ブレーキ、持ってます、持ってます。張力の針が、上がって、定格の、定格の線に」


「持たせろ」


「持たせ」


 テツの声が、そこで切れた。


 爪の下で、綱が一段、溝の外へ滑った。ほんの一掴みぶん。通信の向こうで、テツが息を呑む音と、ブレーキを掛けたままの巻き胴の歯が、一目盛り、逆向きに噛み直す硬い音が、同時に聞こえた。


読んでいただきありがとうございます!

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