あなたと私の交差点
ずっと話してみたいと思っていた。この私を見て、笑ってほしかった。
それなのに、そんな彼からの第一声は。
「サーシャ!」
ああ、よく似た名前。それも当然だ。容姿も双子のように瓜二つなその名前の主は、私の実の妹なのだから。
「良かった……サーシャに、また会えて」
私に抱きつき、涙ぐんで言う彼に、それは妹だと伝えればいいだけ。
しかし、そんな簡単なことが、私はどうしても出来なかった。
この笑顔も涙も温もりも、全ては妹に向けられたもの。
私が妹と別人であることを知れば、彼は途端に私への興味を失い、ここにいない妹へ想いを巡らせるのが、容易に察せられた。
これからチームで、ずっとそばにいるのは私なのに? 私は見向きもされないの? 名前さえ、呼んでもらえない?
「私は……」
手放したくなかった。いや、違う。
奪ってやりたかったのだ。
自分のものにしたかった。
「私も、会いたかった……」
嘘はついていない。ずっとずっと焦がれてた。
そして私は、自分のなかで妹を二度捨てて、殺した。
その嘘は……沈黙の秘密は、十年以上破られることはなかった。
指導官であるマリーナ先生や、同じ班のリーダーだったランティスは薄々勘づいているようだったけれど、どういうわけか二人は見てみぬふりをしてくれた。その事実は安堵する一方、私をより一層みじめにさせる。
これでは、まるでリオンだけがなにも知らない人形だ。
私はこの愛しい少年を謀り、挙げ句他の人間にまでそれを強いている。
そんな想いが常に胸にあったから、正直、打ち明ける機会は何度でもあったのだと思う。
逆に、とうとう一生リオンを欺き、永遠に真実を告げられないと悟ったのは、あの炎の日。
組織が燃えて、マリーナさんに逃げろと言われた日。いつの間にかランティスやリオンともはぐれた、あの最後の夜。
私は振り返った。きた道を逆走したのだ。
妬ましく憎らしい……それでも、たった一人の肉親。生まれたばかりあの子の揺りかごのそばで、お姉ちゃんが守ってあげると得意気に宣言した団欒の記憶が、砕けて音を立てる。そしてその過去をより強く主調してくるのだ。
(わかってる!!)
本当は、全部自分が悪いことくらい知っている。あの子は何も悪くない。それどころか、実の姉にリオンを横取りされた。いや、騙し盗られたのだ。
サーシャ……私と違い貴族の父を持っていた。本名はアレクサンドラ。発音が難しくて、だったら愛称で呼びなさいと母が笑って言ったのだ。サーシャ。私のたったひとりの可愛い妹、サーシャ。
「サーシャ!」
途中、茂みを挟んで金の髪が見えた。確か別組織から首魁の手駒に引き抜かれた少年で、名前はソルドだったか。彼は誰かを背負っており、自身もひどく負傷しているようで、こちらに気づくことはなく森のなかへ消えた。他にも二人ほど影が見えたが、もう視認できる距離ではない。見送る余裕も義理もなく、私はそのまま逆走を続けた。すると。
「歌……?」
聴こえた。
これは、普通の歌ではない。魔法だ。
音楽を捧げることで精霊を使役する稀少魔法【メロディア】。
私も同じ魔法を持っている。マリーナ先生も。
今の組織に、この魔法を扱える人間は三人しかいない。
最後のひとり……サーシャ。
「炎の中にいるっていうの!?」
冗談ではなかった。今から飛び込んでも、あの子のもとにたどり着く前に死ぬ。たどり着けたとしても共に死ぬ。いや、あの子を炎と心中させるくらいなら、せめて最期は姉として傍に……。
そこまで考えて、ふと気づく。
「何の為に歌ってるの……?」
サーシャは恐ろしいことに、火精霊と風精霊を同時に使役するという荒業をこなしてまで、この炎を維持しているようだが、……時間を稼ごうとしている? それは何故?
答えはすぐそばにあった。
森を抜けた、拓けた場所。呆然と、燃える組織を見上げている。
自分たちとそう歳の変わらぬ子ども達だった。
「何してるの! 早く逃げないと……っ」
私たちは組織の奴隷。飼い殺される宿命の道具。しかし今なら混乱に乗じて逃げ出せる希望があった。
すると、子ども達は私を見て酷く驚いた顔をする。
「さっきのひとだ!」
「え?」
「違うよ!」
思わぬ反応に面食らう。すると、別の子どもが騒ぎ立てる。
「さっきの人とは髪も服もちがうよ!」
こんな状況なのに、幼くして殺し屋として英才教育を受けた彼らは、相手の特徴を瞬時に記憶している。
だから、彼らの言う【さっきの人】が、妹サーシャであることはすぐ把握できた。
「それで……その人は?」
震える声で問いかける。そうすると、彼らの目に少しずつ、生気が宿り始めていることに気がついた。
「生きろ、って……」
愕然とした。
詳しく話を聞けば、妹は彼らに逃げるよう檄を飛ばしたという。いつまでも奴隷でいるな、広い世界を見にゆけ、と。
(貴女は……どこまでも!)
同じ腹から生まれて、何故こんなにも違うのか。
自分のことしか考えられない姉と比べ、妹は最期まで誰かの為に生きようとしている。かつてリオンを慰め、背を押した時と何も変わらない。
どこまでも自分を惨めにさせる妹だった。
ああ、だからこそ。
だからこそ誰よりも妹を憎んでいたし、愛していたし、尊敬していた。
胸の中には泥しかない。自分はなんと母親に似た醜い女か。
暗闇で星のように輝く妹への、一縷の憧れがなければ、サーシェスはここで死を選んだ。
しかし、それは駄目だった。
「走って!」
叫んだ。煙で喉が堪らなく痛い。だが、そんなものはどうした。今こうしている間にも、妹は炎の中で戦っている。
妹が助けようとした命だ。自分が守らなくてどうする。
(神様)
初めて祈った。
(地獄には私が行く。だからどうか、これからは)
痛みも苦しみもない世界で、リオンを待っていて。
子ども達を逃がしながら、追っ手を何人も殺した。師であるマリーナは、自分たちが人を殺す境遇にあることを心底惜しんでくれたが、最早そんなことはどうでもいい。
だって、何かを守るなら何かを傷つけないと。優しさには嘘があり、誰かの味方になるのは誰かの敵になること。
道徳心は棄てた。妹はもういない。
(リオン)
散り散りになった子ども達を見送る。概ね育った班に別れて逃げているようで、その様はなかなか連携がとれているように見えた。これでいい。
(ああ……リオン、に)
妹の最期を思い出す。
……これでとうとう、本当のことは言えなくなってしまったと、ぼんやり思った。
しかし、その日サーシェスが祈ってしまった【神様】は慈悲深く、そして残酷だった。
この中央大陸別で、自分のような東洋人が目立つ存在であることを重々自覚していたサーシェスは、ひたすら野山を逃げ続けていた。ランティスやリオンとはぐれたのは自業自得だったから、また会えるとも思ってはいない。ただ、無事でいてくれたらと願う。マリーナ先生も、どうか。
そうして大切な者のことを思いながらも、背に腹は代えられない。どんな環境下でも生き抜く知識と技術は、嫌というほど叩き込まれた。だから、盗みも殺しも、当たり前にその手段のうちだった。
指導役がマリーナ先生で本当に良かったと思う。あの人はドラッグの類いを嫌い、組織内で反感を買うと承知しながら、自分達に薬物強化を施さなかった。そうでなければ今ごろ、禁断症状でおかしくなっている。
……妹も、生きていたとしても薬の影響でどのみち永くはなかったのだと、この頃ようやく理解した。症状を抑えるならまた薬を投与するしかないのだから。まともな治療を受けられるならともかく、そんなものは貴族でもない限り無理だ。
(ひとり、か)
サーシャ……アレクサンドラ。たったひとりの妹。唯一の肉親。
もし母が自分たち姉妹を売らなければ、父の違う姉は妹の使用人となっていたかもしれないな、なんて未来を夢想する。……それでも、よかったかな、なんて。
だって妹は妹だ。光は光、花は花。
どんな境遇だって自分は妹を妬みながら憧れて、どんなに惨めで憎らしくても、きっと愛してしまう。
勝てない。
その証拠が、次の日に現れた。
「おんやぁ!? お嬢ちゃん、戻ってきたんか!」
「えっ……?」
見られた。
この容姿を見られてしまった。
山の穴蔵にいたのだ。熊は殺して食べた。そうやって根城を転々としながら山で暮らしていた頃、地元の猟師らしい老人と出くわした。
彼は目を丸くしている。その姿を見ながら、混乱する頭で、しかし体だけが勝手に動いてしまった。
熊を殺した刃で、老人の喉仏を一瞬で掻き斬る。
予期せぬ遭遇は破滅を招く。手早く処分せよ。
幼い子どもが何日も山を彷徨い歩き、極限状態での反射だった。
老人は状況についていけず、きょとんとしていた。何が起きたのか理解できず、目も追い付いていないのだろう。その表情を見てサーシェスも我に返ったが、既に時は遅い。見慣れた角度に血が噴き飛ぶ。返り血を浴びない殺し方も、既に慣れたものだった。
……すごいな、自分。魔法がなくてもこんなに強いじゃないか。すごい。本当にすごい。だって沢山、頑張ったもの。妹に勝ちたくてリオンに見てほしくて、一生懸命がんばった。だからほら、今もこうして生きている。これは努力の賜物だ。自分の身を
完璧に守れる。それは誇らしいことだ。
……いや、そうじゃない。
違う。だって、いや、でも。
「なぜ殺したのだ?」
男の声だった。しかしもう反応できない。
だって図星だったから。
いくら自分の実力を賛美し現実逃避しても、何の罪も害意も見えなかったか細い老人を、問答無用で殺したのだ。
「あ……」
「その老人は、お前に声をかけただけのように見えたが。人違いをしているようにも」
淡々と喋る相手を振り返る。暗闇を具現化したような男だった。喪に服しているような黒の甲冑が、よりサーシェスの心を波立たさせる。
「ぅ、……あぅ……」
「吾はウォル。お前はサーシェス・ユリット本人に相違ないか?」
もう恐怖はなかった。
重そうな鎧を着ているのに、物音ひとつ立てず背後に立っていたこの男は、もしかしたら死神なのかもしれない。
地獄の使者のようだと思いながら、頷く。
「もう終わりか……」
「なに?」
「もう、終われるのかなぁ……?」
不覚にも泣いていた。
死にたくないと思っていた。だがもう生きたい理由もない。サーシャを見殺しにしたしリオンにはとうとう本当のことを打ち明けられない。挙げ句、ただそこにいただけの老人を殺してしまった。
もう頑張って生きなくてもいい。
そう誰かに言って貰えたなら、どれだけ良かっただろう。
お願い、私に罰を下さい。
「お前を捜していた」
「はは……でも、貴方みたいなの、いたかなぁ」
誰に対しても敬語でいた。それはかつて、将来は妹の使用人になるべく母から受けた教えであり、従順さを示し周囲から反感を買わない為の手段だった。もう魂にこびりついている。
もう、それもどうだっていいかな。どうせここで死ねるなら、最期ぐらい普通の女の子でいたい。好きな人に見てもらいたかったな、なんて泣いてみたい。
なのに、神様は残酷で。
「お前の話はランティスから聞いている」
「ランティスが捕まったの? はは……そりゃ私なんかが逃げられる訳もないか」
あの、暗殺者としては天才の部類に入る彼でさえ組織の網から抜け出せないなら、自分が生き延びられるはずもなかったのだう。そう思うといっそ愉快だったのに。
「……何を誤解しているかは想像がつくが。お前がこれから向かうのは牢獄ではなくこの世の楽園、我らが理想郷だ」
「天国? あはは、無理なのに。今まさに、その資格を無くしたんだよ」
もちろん殺しなんて初めてではない。しかし、完全に自分の都合で殺した。許されるわけがない。
ほら、と動かない老人を示す。もういっそ可笑しくて、サーシェスは笑っていた。
嗤うしかないだろう、こんな自分。
「ああ、バカ。本当に救えない。結局いつもこう。頑張って良い子のふりしても、
こうやってポカするの! ははは、だから誰も私を見てくれない! お母様も旦那様もリオンも、サーシャばっかり可愛がって大切にする。サーシャサーシャうるさいよ。私の名前はサーシェスなのに! ほんっと馬鹿しかいないわ。それ以外の名前を知らないかしら!」
涙が止まらなかった。早く私を殺してほしい。何より情けないのが、今こうやって叫んでいることが紛れもない本音の一部だからだ。
私は……私だって、ここにいるのに!!
「死にたいのか」
静かな問いだった。男の深淵のような眼差しと視線がぶつかる。
「……違う」
「では、どうしたいのだ」
「いなかったことになりたい」
最初から。産まれる前に死んでしまえたら良かった。
自分の存在を抹消したい。
「……すまんな。殺すだけなら簡単だが、吾ではお前の望みを叶えてやれん。許せ」
許しを乞われ、サーシェスは渇いた笑みを溢す。ああ、いいなぁ、このひと。話が早い。この淡々とした態度、落ち着く。
こんな人間になれたらよかったのに。
「貴方のことは嫌いじゃないよ。私を殺さないの? 連行が命令?」
「いや、保護なのだが……まあ、いい。来い」
「はい」
死体を跨いだ。もうこれはモノだ。そして咎められることがない。だからこそ惨い。サーシェスは男のように許しを乞えない。その資格がない。だから切り捨てて歩くしかないのだ。
「……静かだけど、無感情でもないのよね」
呟くよう、男――ウォルに問いかける。決して口数の多くないサーシェスが、自ら他者に声をかけるのは珍しいことだった。これから自分に破滅を与えてくれるかもしれない相手に、気が弛んでいた。
「どこへ向かうの?」
「吾の主のもとへ、だな」
ウォルはあまり愛想が良くない印象だったが、そんなのはお互い様だ。そうやって大きな体を見上げていると、違和感が首をもたげる。
「ウォルさん。……人間じゃないの?」
「何故そう思う」
「なんとなく似てる。精霊たちと」
気配というか、雰囲気というか。根拠のない疑念だったが、何故か確信めいたものを感じている。
「……どうだろうな。主の望み通りに存在する、確かに人間ではないかもしれぬ」
「?」
やはり死神か? そう思いながら着いていった先で、サーシェスは更に打ちのめされる事になる。
「……リオン?」
ウォルに連れていかれた先にいたのは、なんとリオンだった。
リトレイズ国の港町ホリブ。その一等地にある屋敷の一室で、傷だらけのリオンが横たわっていた。入室してきたこちらをみて、飛び起きる。
「サーシャ!?」
ああ、ああ、ああ。
なんてことだろう。
また、貴方にその名前で呼ばれるなんて。
会えなくなるより良かったのか、会わないままのほうが良かったのか、もう自分で自分の気持ちが理解できない。
だが、今しかないのも、また事実で。
「わ、たしの……」
「え?」
蚊の鳴くような声は、ベッドの上のリオンには聞き取れなかったようだ。心配そうな声音に、心臓が痛いほど鼓動を打つ。
「私の名前は、サーシェスです」
絞り出せたのは、そんな一言で。
案の定リオンは困惑していたが、重傷者をあまり刺激するな、と割って入った女性がいた。
「はじめまして。……どう呼ぶのが正しいのかしら?」
リオンの部屋を出た途端、そう言われた。綺麗な巻き髪とサファイアの瞳。物語に出てくるお姫様みたいなのに、雰囲気は騎士のように凛々しい。
「……サーシェス、です」
「そうなの。じゃあサーシェス、よろしくね。私はルフィス。ランティスから話を聞いて、ずっと探してたのよ。二人とも生きてて良かった。頑張ったわね」
膝を折ってまで目線をサーシェスに合わせたルフィスは、聖母のように微笑んだ。そんな柔らかな慈愛の眼差しを、サーシェスは知らない。実母の言動にはいつも保身と打算が垣間見えたし、師匠マリーナも優しかったがそれ以上に殺し屋だった。
こんなにも温かく労われたことなど、一度もない。きっとリオンも、この言葉で懐柔されたのだろう。
(……この人が次のご主人なのかな)
でも、悪くないかも。
こんなに綺麗で優しそうな、素敵な女主人になら、使われてもいいかも。
……心は折れた。
あの老人を殺した瞬間に、サーシェスは自身に残されていた、なけなしの善性さえ切り捨ててしまったのだ。
道具に戻ろう。
結局どう足掻いても自分は妹のようにはなれないのだと、もう嘆くことさえ億劫だった。
それから。
ランティスとも再会を果たし、これから住むのだと説明されたのは、独立国チュニアール首都。それも女王の居城だった。
本当に自分たちを【保護】したのだと漸く理解したサーシェスは恥じ入ると共に、何か手伝えることはないかと考えた。しかし、今まで誰かを傷つけ殺すし事しか学んでいない。どうしようか、と途方に暮れる。
「どうかしたのか」
「ウォルさ……でん、か?」
「言葉の勉強をしていたのだな」
出会った日と変わらず、気がつけば背後に立っている不気味なこの男は、なんとあの聖母がごとく慈愛深き女王ルフィスの恋人なのだという。
この国で殿下と呼ばれる3人のひとり。
それなのに、彼はゆるく首を振った。騎士の身で女王と恋仲であることは駄目なことなのだろうか。子どものサーシェスには解りかねた。まあ、……お似合いでは、ないけど。初めて出会った日も、ルフィスを主としか呼ばなかった。
オトナのジジョウというやつか、とこの件を脇におき、サーシェスは読んでいた本を閉じる。
「読み書きには困らない、です。マリーナ先生が教えてくれたので」
「? どうした」
「べつに……」
なんてことはない。
ただウォル相手に、改めて敬語で接するのが、とんでもなく恥ずかしいのだ。初対面であれだけ醜態を晒した相手なのだから尚更だ。これが基本の口調と心がけていたのはサーシェス自身だが、一度とはいえ砕けた本音をぶつけた彼に冷静な状況で顔を合わせると、正直羞恥心で逃げたくなる。
「何かお役に立てることはないでしょうか」
「たとえば」
「……わかりません」
子どもの仕事はよく学び遊び食べて眠り、何より笑うことだと、ここの大人たちは真顔で言う。忙しくて大変ね、と言われた日は思わず絶句した。
「リオンを避けているようだが」
ぎくりとした。
再会してからこっち、サーシェスはリオンを避けている。大怪我と高熱で朦朧としていたリオンは、あの時のことを殆ど覚えていない。元気になって改めて顔を合わせた時、彼は嬉しそうに笑って言ったのだ。
『生きてて良かった……夢だったんじゃないかなって。……あの約束、ちゃんと守ってくれたんだね、サーシャ!』
そんな約束は知らない。だって私はサーシェスだから。
そう言いたいのに、言えなかった。
結局どこまで行っても自分は除け者だ。
『私の名前はサーシェスです!』
そう、馬鹿みたいに叫んだ。
以前はサーシャばかり呼ぶ皆を馬鹿にしていた。それ以外の名を知らぬのか、と。
しかし、実際はどうだろう。
サーシェスが欲しいと想う相手は、サーシェスの名さえ知らず、これから先も呼ぶことはない。自分を呼ぶのは自分だけ。
最初にリオンを見つけて好きになったのは自分だったのに。
もう、リオンとサーシャの間に割り込むこともできない。
「では、何故ランティスまで避けている?」
「それはっ……」
淡々とした問いかけに、今度こそ震えた。
この城で再会できたランティスの隣には、黒髪の少年がいたのだ。
天使のように愛らしい顔立ちに、深紅の瞳が不釣り合いな艶を与えている美貌の容姿。
ジャスと名乗った少年に、サーシェスは同じく自己紹介した。彼がトロナイル王国の王子だという説明は次元が違いすぎてピンとこなかったが、それを語ったのがこのルフィス女王だったので素直に頷いておく。
問題は王子、ジャスの反応だった。
『あなた、サーシェスっていうの?』
『え? ええ。はい。そうです』
まさかそこを疑問に持つとは。名前についてややこしい話を抱える身としては胃が痛い質問だ。しかし嘘は言っていない。
そう自分を納得させた瞬間に、その言葉は剣のようにサーシェスを貫いた。
『リオン、じゃなくて?』
『え……?』
まじまじと、サーシェスが持つ東洋人の特徴が顕著に現れた外見を観察してくる少年が、ひどく恐ろしいものに見えた。
私を誰かと、比べている?
何故、この容姿でその名を疑う?
警鐘が鳴った。
この、少年は。ジャスティス王子、貴方は!
妹のことを知っているの?
『リオンは僕だよ!』
そこで空気を読まず割り込んできたのが、当のリオンだった。その時に閃く。
そうだ。王子はもしや、あらかじめ名前だけ先に聞いていたのかも。リオンというのは男女ともにある名前だから、単なる名前当て遊びだったのではないか。
そう自分を安心させようとするも、背中の冷や汗と……僅かな期待が、止まらない。
もしかして、妹は、死んでいない?
口に出せない夢が生まれた瞬間だった。
「……あの王子様は綺麗すぎて緊張します。それに、男の子同士の方が楽しそうです」
別に拗ねているわけではない。実際、ランティスとリオンはジャスティスとよく遊んでいるようだし、最近では貴族の子であるイリヤという少年や、その幼なじみのパン屋の娘とも仲良く遊んでいる。
あの手の賑やかさは、実は苦手だった。
「そうか」
「はい。だから、私は今のままで」
あまりジャスティスに深入りして、探られたくない。そして、こちらも確認するのが怖かった。期待は期待。希望は希望。夢は夢のままにしておきたい。だからサーシェスは、ジャスティスと距離を保ちながらチュニアールで過ごしていくことになる。
ああ、でも――この少し後に起きる酷い出来事で、サーシェスは輪に入ろうとしなかったことを後悔した。
ジャスが誰にも会わせようとしなかった秘密の友達、セレナ。
きっと明かされることのない、泡沫のような彼の初恋。ジャス自身、きっと気づいていなかったし、これからもセレナは親友だと断言するのだろうけれど。
――何かを失うのには、瞬くほどの暇もかからない。
天真爛漫で無邪気そのものだったジャスが、声もなく泣いていた。
体も大人に近づき、ランティスが城下で恋人をつくったり、リオンからは明確に求愛されるようになった。男というのは思春期になると色気付かなければ死ぬ生き物なのか。
ランティスの恋人は、決まって金髪だった。しかしどうも無意識らしい。そして長く続かない。すぐ別れる。
リオンからの告白は、もちろん聞き流した。これは自分に向けられた想いではないから当然だ。
その頃にはシンルーという雪女とも親しくなっていたから、落ち着いた物腰の彼女と過ごすことが増えた。それはとても心安らぐ時間であり、時々二人で城下に降りて遊んだ。
パン工房【リコリス】の看板娘はイリヤの幼なじみで喧嘩友達のような関係だが、その元凶ともいえるイリヤ本人さえ不在ならば、とてもよくでした看板娘だ。見知った女二人組とは、注文の傍らで雑談を交わす。
その中に、引っ掛かる名前があった。
なんでも現在トロナイルで大層有名な若手大物歌手らしい。年頃は自分たちと変わらぬ少女だとか。
「サーシェスさんとおんなじで、東洋系の顔立ちや聞きましたよ!」
少し訛った新情報に、ピンとくる。
ジャスと出会ったときの反応から、もしやトロナイルにいるのではないか、という期待はあった。
そして今、東洋系の容姿で、同じ年頃、歌手をしている娘。
……調べてみる価値は充分にあった。
問題は、リオンに知られないようにすることだ。それには協力者が必要になる。どうすればいいか、思案していた時。
「じゃあ、オレとリオンでマリーナ先生を探そう」
「え?」
幼い頃から兄のような存在であったランティスに打ち明けると、彼はそう提案してきた。
「リオンには、妹の件は伏せる。あくまで表向きはマリーナ先生を探すことだ」
「勿論です! 私だって先生には」
「わかってる。だから、その歌手が本当に妹なのか確認してこいよ」
リオンの世話は慣れてるからと笑うランティスに、サーシェスは深く、頭を下げた。
ヒルデガルド・コーバッツ。
かつての名前は、アレクサンドラ。
妹は生き延びたばかりか男爵家の養女として温かく迎え入れられており、そこで新しい人生を謳歌していた。
王子と友人になり、そして国民的な人気を誇る歌手にまで登り詰めた。
(本当に……貴女は)
どこまで私を惨めにすれば気がすむの?
そう自嘲するだけで済んでいた頃は、まだマシだったかもしれない。
だって、まさか。
師匠を探し続け、ようやく連絡が取れて再会した矢先。紆余曲折を経てチュニアールの使節団として、ジャスティスが正式に王太子へ任命される式典に参加することになってしまうなんて。
そして――――。
『サーシェス姉さん。……貴女は僕の姉さんだ』
最悪の再会をした。
過去を捨てた妹と、その捨てられた過去にしがみつき、妹のふりをしてきた愚かな姉。
どういうことだと、リオンは呆然としていた。
終わったな、と思うのに、現実は憎らしいほど平坦に明日を連れてくる。
様々な想定外の事態を乗り越え、ついにジャスが正式に、次期国王であることが全世界に公表された。
シンルーの方も探し求めていた相手が意外な形で手に入って、ひとまずは祝ってよさそうだ。その相手が、サーシェス達の恩師が昔に強制堕胎された、息子その人であるというのは気がかりだが。それでもシンルーが管理するだろうし、これから色々と話を聞いていかねばならないだろうな、と思う。
そんなシンルーを残して、まずは退出する。シンルーと例の男の因縁も、先程断片的にだが聞いていた。今夜くらいは遠慮したほうがいい。
「ねえ」
だから。
そんな感傷に浸っていたサーシェスは、すぐ後ろを歩いていたリオンの声に、すぐには振り向けなかった。
「なんて呼べばいい?」
自業自得だった。
嘘をついて、隠し事をして、妹に成り済まして騙しつづけた代償。
私の名前はサーシェスです、なんて。もう口が裂けても言えそうにない。
「ただの出来損ないですよ」
「……名前はないわけ?」
「脱け殻ですから」
囁くように告げ、この場を離れるように早足で歩く。しかし、すぐに止められた。
リオンに、サーシェスとして、手を掴まれている。
悔しいことに、情けないことに。
もうどう頑張っても修復不可能な関係なってから、ようやく本当の自分が彼の瞳に映っている。
「……僕のためだったの?」
「いいえ」
これだけは断言できた。その速さに驚くリオンに、サーシェスは全てを告げる。
「ずっと貴方が好きでした。だから、妹のふりをして、そばにいた。妹に向けられる言葉を、……わた、しは……」
泥棒猫。そんな言葉が浮かんだ。
「じゃあ、やり直しただね」
「え?」
「君の妹……じゃ、ないんだったね、もう。“早く仲直りして僕の殿下にお祝い言いにおいでよね!”って」
妹がそんなことを……?
彼女はもう未来を見ているから、当然と言えば当然か。
「仲直りって……いえ、やり直すって何を……」
「だーかーら!」
はい、と差し出される、手。
握手を求められていることに気づいて、思わずサーシェスは涙が溢れた。
ああ、神様。
まだ機会を与えてくれるのですか。
……この場合は妹に感謝すべきなのだろうが、今はどうしても心情として難しい。
「わ、わた……わたし、私の、名前は」
「うん」
「私の名前は、サーシェスです。サーシャでなくて、ごめんなさい」
これは終幕だ。
長く歪な恋と愛憎。
離れていくであろうことが前提の『やり直し』を、リオンが口にした。
「そっか。僕はリオン。貴女の妹がずっと好きで、会いたかったんだ」
さあ、次で全てが終わる。
だけどそれ以上に始めたい。
この地獄のような恋から、飛び立ちたいのだ。
ありのままの自分で、誰より特別な相手に本当の想いを伝えたいから。
「初めまして、サーシェス。君に会えて良かったよ」
「初めまして、リオン。私も、ずっと会いたかった」
恋でも友情でも家族愛でもない。
そんなもの最初から二人の間には存在していなかったから。
だから、ここから始まる。
ようやく繋がれた手が、本当の彼らの交差点だった。




