立太式 そして少年は
その女はジャスの記憶にあるよりずっと小さく、細かった。
「お加減はいかがですか、妃殿下」
応接間で向かい合う母の表情は暗い。俯いて、微かに震えてさえいる。
「王子さま」
母の傍らに控えているのは、よく知る乳母ではなかった。自分や目の前の母と、よく似た面差し。それでいて中身は随分と質が異なることを知ったのは最近だ。
「蒼姫さん。あなたにも用があったのですが」
「行かないよ」
こちらを遮るわけでもない、ふんわり柔らかな声音で、しかし明確に拒絶される。
思わずジャスは笑ってしまった。
「即答しすぎです」
「ごめんね。でも、それがわたしなの。君が可愛いよ。君が望むならこの国から連れ去ってあげるって、今でも思ってる。だけど、その逆はありえないんだ」
ジャスのために国に残るという選択肢はない。蒼姫は悲しげに笑った。
「ごめんね、ひどいお姉ちゃんで」
「いえ。……少し、安心しました」
寧ろ、同性ゆえかロゼッタの呪いの影響を受けやすい蒼姫は、あまりこの城にいてはいけないだろう。一度は野に下った後なら尚更だ。呪いの影響がない快適な外界の空気を知ってなお、一時的とはいえ戻ってきたのは、ジャスの為だった。
こんな姉がいたのだ。
かつて思い描いていた理想の姉とは随分と違うけれど、目の前にいる、とても人間らしい姉は、理想以上に好ましかった。
「時を見て、あなたの死亡を公式発表します」
「うん」
「騒動が収まるまでは、ご夫君と東大陸にでも行ってて下さい」
「ありがと」
夫の存在に触れた途端、姉の頬がほんのり薔薇色を帯びる。相思相愛、連理比翼、一心同体。様々な言葉が思い浮かび、すぐ消えた。
この二人を完璧に言い表すなんて、自分にはできない。
「お会いできて良かったです、姉上」
「ーーえっ?」
緩んでいた蒼姫の顔に驚愕が広がる。照れ臭い気持ちでそれを無視し、ジャスは改めて母を見る。
「今日が私の立太式だというのは御存知ですか?」
無言。しかし、小さく頷いてくれた。
穏便に意思の疎通ができるだけでも上等すぎる成果だと、ジャスは静かに続けた。
「本来ならば国王の妻である妃殿下にもお出で頂きたいのですが」
「……できないわ」
その資格がない、というのだ。ジャスとて自分たち親子の確執の根の深さは理解している。むしろ、こうしてまともな返事が戻ってくるようになったのが奇跡だった。
「ええ、わかってます。今日伺ったのは、実は私的な用件でして」
「私的な……?」
母レメリーの視線が、ジャスを見る。その碧眼が、息子の赤い目を見て、哀しげに揺れた。
「ずっと言い忘れていたことがあったのを、思い出したので」
「……?」
恐怖と困惑から言葉が見つけられないらしい母に、ジャスは勇気を振り絞って言った。
「生命をくれて、ありがとうございました」
本当に不思議だった。
どうしてこんな当たり前のことを、ずっと伝えずにいたのだろう。
「怖いのに、つらかったのに。それでも産んでくれて、ありがとうございました」
「ーーーっ!」
母の顔がくしゃくしゃに歪む。ジャスは触れようとして、やめた。
今はまだ、自分も弱い。
いつかこの母の悲嘆を共に抱えられるくらい、頼れる息子になれたらいいのだけれど。
「……行って参ります。姉上も、のちほど」
「うん。頑張ってね」
蒼姫が柔らかな声で応じてくれる。
部屋を出て扉を閉じた時、奥から母の嗚咽が聞こえたが、ジャスもジャスで余裕がない。扉の前で蹲ってしまう。
「殿下!」
「ど、どうしました?」
部屋の外で待機していたクリフとヒースが慌てて声をかけてくる。何でもない、と意地で立ち上がった。
姉と母。あの二人の前では必死に平静を装った。折り目を正していきたい自分を示せたと思う。だからといって、急に全て飲み込んで成長できるほど、人間は優れた生物ではない。幼さはまだ自分の中にあるし、母への悲しさもあるし、ようやく再会できた姉には離れてほしくない。もっともっと時間を重ねて分かり合いたい人だった。
だけど。
「……何でもない」
脳裏にあるのは、夏の夜の記憶。
『 せっかく命を頂いたのに、そうしてくれた方に、何も返せなかった……! 』
愛されたから孤独だったのだと、この腕のなかで泣いた少女がいた。
あれほど心揺さぶる涙を、ジャスは他に知らない。
愛しかったのだ、たまらなく。
その様に心を奪われた自分が、生きている実の家族を蔑ろにして良いはずがない。たとえ報われなくても、せめてこの想いだけは大切にしたいからーー。
よく晴れた初冬の日だった。
早朝から宮殿内部では大小様々な儀式が繰り返され、その果てにようやく、この国の正式な王太子が誕生となる。
「疲れたか」
目まぐるしく各所を巡ってきたジャスへ、数日ぶりに顔を合わせる父は淡々と言葉をかけてきた。気遣いというほど何も考えてはいない、些細な雑談なのだろうなと思いつつ答える。
「以前より、どの儀式も緊張しますね」
「ほお」
子ども時分はいつ排嫡されるかという不安の方が大きかったし、それ以降は最近までずっと臍を曲げてしまっていた。
「心構え一つで、こうも全て変わって見えるとは思いませんでした」
「……すまんな」
小さな謝罪に、ジャスは戸惑う。
「陛下?」
「何千年も隠し続けた。私もまた。逃げ切ることだけを考えていた」
だが、と父は苦い表情を見せた。
「お前は違うのだな」
「……そのように育てて頂きましたから」
父のことは今でも完全には信頼できてない。嫌いだし、怖い。恨みがましい気持ちだって、ひとつもないと言えば嘘になる。
だけど確かに感謝していることも、まあひとつだけあるのだ。
「私に沢山の出会いを下さって、ありがとうございました」
血の濃すぎたノアリスとジャス。先に生まれたノアリスが早熟だったのは、本人の資質もあるが、それ以上に地下に眠るロゼッタを中心とした【魔女】の呪いに触れてしまったからだと、先日の騒ぎの後に聞いた。城の最奥で大切に育てられるべき姫君が、世界の残酷さを知るには、あまりに早く。
ノアリスでなければ発狂したかもしれない。ならば弟はどうなる。ようやく生まれた王位継承者だ。それも、【星の遺言】という予言まで持って生まれてきた特別な王子。
死なせるわけにも、狂わせるわけにもいかなかったーー。
王宮の外で育てられた経緯を知って、ジャスの心はまたひとつ、穏やかになった。
「大勢の人の中で、沢山のことを学べました。だからこそ、自分の意思で、この人生を選べます」
「自分で、か」
私は逃げ出したくて仕方がなかったのだがなーーその囁きには、聞こえないふりをする。
「では、陛下」
「わかっておる。……いくぞ」
外では大勢の国民が待っている。待ち望まれた立太式。
今日、ジャスは初めて、民の前に姿を現す。秘され続けた王子の存在が、確かなものとなるのだ。
「殿下、よろしいのですか?」
民のために城の一角が公開され、広いバルコニーから王族が現れる。どこの国でもさほど珍しい行事ではないだろうし、国家の慶事ともなれば尚更だ。
「ここにいたのか、レイチェル」
「レン様にはノアリス様がついて下さっておりますもの」
「ああ、いたな」
バルコニーまであと少しという所で、剛胆にも国王と王子を呼び止めたのは、彼ら親子にとって他人とはいえぬ関係のレイチェルだった。国王にとってレイチェルは婚約者の侍女であったが、なにせその婚約者ともども幼い頃からの付き合いだ。公にそのような態度や力関係は認められないが、国王にとって彼女は頭の上がらない姉に等しい。
今も、下手に遮って小言を貰うのは御免だとばかりに沈黙している。
「お目を隠さずというのは……」
「どうせ噂は流れてるよ。それに、今まで散々隠れてたのに、ようやく出てきてすぐ嘘をつくというのもな」
「で、ですが……」
ジャスは先日の一件から、このトロナイルで忌避される赤眼を隠していない。王宮ではその噂で持ちきりだったが、肝心の国王が「だから何だ」と開き直り、高位貴族にはヴァレンティノア公爵家やルートバルス侯爵家を筆頭に、付き合いのある者たちがそれぞれ根回しをしてくれていた。かつてロゼッタを廃した教会側には特に念入りに、王の十年以上に亘る根回しに加え、仕上げとばかりにチュニアールから来ていたマロナ達が交渉してくれたらしく、今のところ表だった問題は起きていなかった。
「ヒルダもいる。これだけ良い条件が揃う時代もそうないよ」
今この大陸で最も民衆の支持を得ている稀代の歌姫が、ジャスを主として認めて動いてくれている。それは大きな力だった。
……本当は、巻き込みたくはなかったのだけれど。
「もう、開き直ることにする。友達なんだし、助けて貰おうって。自分が王子だから云々とかは、少なくともヒルダとの間には、俺個人の些末な拘りだったんだよなって、最近になってやっとわかったから」
「それは……」
レイチェルが口ごもる。頭の中に台詞を並べたら最後まで必ず読み上げるような彼女にしては、珍しい反応だった。
「どうした?」
「彼女を妃に望まれる、ということですか?」
どうやらそれが気がかりだったらしい。なんだ、と肩透かしをくらった気分で答える。
「そんなこと、嘘でも言ったら絶交される」
ある意味ヒルダほど、伴侶として信頼できる相手はいないかもしれない。だが、やはりどれだけ考えても、ヒルダは友だった。
たとえ彼女が正真正銘、由緒正しい名家の血を引く令嬢であっても、ヒルダがヒルダである限り。
「あいつは俺に誰よりも遠慮しない。恩があるとか言っても、俺を盲信したことは一度もなかった。だから、背中を預けたい。俺が道を間違えた時、いつでも俺を殺せる位置にいてほしいんだ」
あいつなら巧く殺るよ、と軽く笑う。
「決めたんだ。友達も、育ての親も、仲間達も、何も捨てずに進むって」
「呼んだか?」
家族、の部分に反応したのか、黙っていた国王が会話に入ってくる。というか、そろそろバルコニーに出なければならない。その催促だろう。
「呼んでません。残念ながら、陛下は私にとって王様業務の先輩でしかありませんので」
「……確かに。お前はもう、ルフィス達の息子だな」
「はい」
しれっと頷き、片手でレイチェルを下がらせる。彼女は心得たように頭を下げた。
「先程の続きではないが」
再び歩き始めた時、国王が口を開いた。音量を抑えているあたり、ここだけの会話、というやつなのだろう。
「妃はどうする? 候補の中でも有力なのは、やはり帝国のマリアンヌ皇女と公国のセレスフィア公女だが」
「その件で少し我が儘があります」
「……む?」
「詳しくは日を改めてご相談申し上げますが」
ーーやっぱり自分は、恋に生きたロゼッタの末裔であり、王女でありながら恋愛結婚を掴み取り、恋は人生の至宝と断言する、クラウディアの甥なのだ。
「惚れた娘がいるのです」
バルコニーの扉が開かれる。本気で目を丸くして驚いている国王の顔は間抜けそのもので、これはなかなか見応えがあると、小さく笑った。
白い鳥が一斉に飛び立ち、花吹雪が舞い踊る。初冬の寒さを人々から忘れさせる演出は、今その主と次なる主のために巨大な芸樹品である城を見事に彩り、今日という慶事を祝福していた。
「遠いな、ジャス」
「……そうね」
「リアさん、大丈夫か?」
現在リアはチュニアール使節団に戻り、予定通り侍女のお仕着せに身を包み、同じく使用人に扮したセブンと並んで、ジャスを遠くから見つめていた。
これが本来の距離だったと、今更のように思い出しているのは、きっと自分だけではない。
「仲直りできなかったのか?」
「ううん。そうじゃないの」
数日前にリアが使節団から離れた理由を、単純にジャスと和解するために面会していたのだと思い込んでいるセブンに、リアは安心してほしくて笑顔を浮かべる。
「明日の夜には落ち合えるんだろ?」
「そういう話ね。さて。そろそろ中に戻らないと」
いくら地味とはいえ、労働階級の二人組がいつまでも式典を立ち見しているのは体裁がよろしくない。扮装の意味がなくなる。
去り際、もう一度ジャスを見た。
ーー初めて出逢ったときには隠していた赤い目をそのままに、彼は歴史の表舞台へと姿を現した。
ステラやロゼッタの件については、日を改めるということで納得しているし、ヒルダやジャスの言う通り、今更どうしようもないことではある。
だが、やはり。
その責任を全てジャス一人に押し付けてしまったような罪悪感は否めない。
踵を返したところで、周囲から更に歓声が上がる。思わずセブンと共に振り向くと、ジャスが国民に向けて手を振っているらしかった。
「なんか王子の時は愛想いいな」
「一応いつも王子だったと思うわよ?」
それこそ生まれた瞬間から王子だったのだが、チュニアールで長く共に過ごしたセブンには、今のジャスが違和感の塊に思えるらしい。真顔で言うだけに、つい笑ってしまう。
「こーら。リア、セブン」
「目立ちたいのか、お前達は」
呆れたような声に呼ばれ、リアとセブンは振り向く。セブンが咄嗟にリアを庇うように後ろに隠すが、すぐ顔馴染みの男二人だと気付き、緊張を解いた。
「なんだ、アランと紅夜にーちゃんか」
貴族服のアランと、魔法で髪と目を染めた紅夜だった。
「なんだじゃないよ、全く」
アランがセブンを小突く。確かに、長居しすぎたとは思う。
「す、すみません」
「護衛の身にもなれ」
淡々と叱るのは紅夜だ。
「護衛……ですか」
「まだ不満なのか」
現状、サズたちは行方不明のままである。賊の侵入と逃亡を許してしまったことをリアは気にしていたのだが、逆に当の王家の姉弟が、揃ってリアの身の安全に懸念を示してきたのだ。
そして自由が利き、護衛として腕が立つ上に信頼もおけるという、ほぼ唯一の人材である紅夜に白羽の矢がたったのは、当然とも言える流れだった。
「不満ではなくて、ですね」
こそこそ歩き始めながら、やはり唇は尖っていく。やはり釈然としない気持ちが残っているのだろうか。
「あたしよりも、ノアリス王女殿下のほうについて差し上げたほうがよろしいのではないかと」
恋人の命が狙われているのだ。しかも、その賊について浅からぬ縁をもち、騒動の切欠にも等しいリアの護衛など、紅夜にとってもあまりいい気のしない役割ではないか。
が。
「あいつこそ要らないだろ。あれほど守り甲斐のない女は他にいないぞ。本人が武器なのに」
「ちょっ……あの、恋人ですよね?」
「嫁」
「だったら尚更! 大切なんですよね?」
武器とは、あんまりな言い方だ。しかしセブンとアランは特に気にしていないらしく、のんびり先を歩いている。
「そうだが」
紅夜がしれっと頷くが、流されない。
「それなのに守り甲斐がないなんて」
「事実だからな。……間近であいつの剣捌きを見たと聞いたが?」
「そ、それは確かに凄まじいものでしたけど!」
あのサズを圧倒するほど冴えた剣技を、忘れられるはずがない。
「それとこれとは……」
「現実を見ろ。だからあいつも護衛として王妃に張り付いてるんだろうが」
そうだった。
自分より王族一同を優先して守るべきだ主張した結果、何故かこうなったのだ。
リアには紅夜、王妃にはノアリス、ジャスにはランティス、国王にはティフォールが、それぞれの形で護衛に当たっているのが、今現在の「現実」だった。誰も異を唱えず、それが妥当だと認めているなか、自分が王族と同様の護衛を受けているのが、リアはなんとも居たたまれない。
「あとほんの数日だ。耐えろ」
「長いんですよ、もう……」
早くチュニアールに帰って仲間たちと共に雑務をこなしたい所存である。こんな特別扱いは御免だった。
「それより、いいのか」
「なにがですか?」
「ヒルデガルドが王宮の祝宴で歌うんだろ。急がないと始まるぞ」
「もっと早く言ってくださいっ!」
自分の周りにはマイペースな人間が多すぎて困ると思うリアだった。




