ぼんやり顔の月
「すまない。こんなことを頼めるのはお前だけだ」
玄関の戸を「たのもー」と叩き、開口一番そのような意図の掴みにくいことを口走った私に、そのアパートの住人である香織は「はぁ……」と困惑げに生返事を返した。
早朝、まだ日も昇りきっていないこの時間帯に現れた突然の訪問者に、目の前の後輩は困惑の色を隠せずにいる。当然といえば当然の話だが、私にも急がなければならない理由というものがある。たとえ香織がまだ起き抜けの寝巻き姿だろうと、寝る前にトリートメントされながらも微妙に跳ねて癖がついてしまったロングの黒髪を気にしていようとも、どうしても今でなければならないのだ。
「それで……どんな用事なんですか? 瀬月先輩」
こんな無茶苦茶な訪問でも無下にせず取り合ってくれるのが香織の美徳でもある。私はよい後輩を持ったことへの感謝を噛み締めながら、搾り出すようにして言った。
「私に、料理というモノを教えてくれっ」
今度こそ、香織の目は呆気に取られて点になった。
§
「―――つまり。先輩の話を要約しますと。
彼氏さんに、お弁当を作ってくると約束した。
料理はしたことがなかったけれど、何とかなると思って高をくくっていた。
でも今朝早起きをして、いざ手をつけてみたら意外にも難しくて失敗続きでどーしよーもなくなってしまった。
けれど、彼氏さんの前で「任せておけ」と大見得を切ってしまった手前、「料理できませんでした」では済まされない。
だからどなたかに手っ取り早く簡単に作れる料理を教わって乗り切ってしまおう、と。
そういう成り行きですか?」
「ああ、話が早くて助かる」
香織にコーヒーを一杯入れてもらい掻い摘んで事情を説明した私は、コーヒーを口に含みながら「うむ?」と小首を傾げた。別にコーヒーが甘すぎるからではない。香織の要約に何か引っ掛かりを覚えたのだ。まるで奥歯にものが挟まったような違和感だ。
「―――ああ、そうか」
程なくしてその原因が判明した。
「橋本は私の彼氏ではない。付き合っていないのだからな」
「でも、お弁当作って差し上げるんでしょう?」
「それは、昼にヤツが食パンを一斤まるまる齧っていたのを見かねてだ!」
香織は「うわぁ、そんな人本当にいるんですねー」と驚きの声を上げた。ああ、いるんだ香織。そういう放っておけないような奴が現実に。
「けれど、なぜ私なんですか? 先輩とは、去年一年だけ部活でお世話になっただけですし……」
他に相談する人はいなかったんですか? と、香織はもっともな疑問をぶつけてきた。
確かに私と香織とは、私が大学を卒業するまでの一年間弓道部で指導していたというだけの仲で、大学院に進んでからはめっきり会っていない。もちろん、香織のアパートを訪ねたのも今日が初めてで、そもそも私はこのアパートに香織が住んでいることすら知らなかったのだ。
「―――本当はこのアパートに住んでいる旧友に相談したのだが……。それなら適任者がいるとお前を紹介された」
「楓佳さん、ですか」
その旧友が誰なのかに思い至ったのか、香織は深くため息をついた。
「楓佳さん、面倒ごとがあるととりあえず私を頼るんです。この前だって、まったく知らない人、それも男の人が私に相談持ちかけてきたんですよ? 聞いてみると、楓佳さんに勧められたって……。私は便利屋じゃあないんですっ」
ぷんすかと怒ったような仕草で抗議の声を上げる香織。その様子はどこか愛らしく、思わず笑いがこみ上げてくる。――まあ、彼女を便利屋のように使おうとしている私が笑うのはとても失礼のような気がするので留めるが。
「それで、今から作れるお弁当を教えてほしいんですよね?」
「ああ。キッチンを借りたい。できれば材料も使わせてもらえると有り難い。材料費は後々必ず返す」
今日の昼までに間に合えばいいのだから、教わったあと家に戻って作ればいい話ではある。しかし、今の私の部屋は科学の実験に失敗したマッドサイエンティストよろしくとんでもない有様になっている。しばらくはあのキッチンは使えそうにない。ステンレスの焦げは一体どのように落とせばよいものなのか――。そんなことを頭の片隅によぎらせながら私は懇願の眼を香織に向けた。
「だ、大丈夫ですよっ。ちゃんとお貸ししますっ」
なぜか半泣きで頷かれた。
理由を訊ねてみたところ、「だって、瀬月先輩すごい目で睨んでくるんですもの」とのことだ。目つきが悪いと言われるのには慣れているが、さすがに今回は少し落ち込んだ。
「……さて。まずは先輩の料理の腕を知りたいんですけど……」
エプロンを着込んでキッチンに立つ香織の姿は中々に様になっていた。私は何を作ろうかと思案したが、失敗した弁当をそのまま持ってきていることを思い出した。
「見せてください」
私はハンドバッグからその包みを取り出した。「んー。もう少しお洒落で可愛い包みのほうが……」ぼやきがわずかに聞こえた。外見なんて今はどうでもいい。とにかく、今の私の腕はどの程度のもので、改善できるかどうかが知りたいのだ。
「ではっ」
意気込んで、香織は弁当箱を開ける。
瞬間、部屋中に不完全燃焼を起こした石油ストーブのような、香水と肥料を勘違いしたような異臭が充満した。
「………」
「………」
「どうだ?」
黒い消し炭の山を前にして硬直を終えた香織は一言、
「地獄?」
的を射た回答をくれた。
§
その後私は香織のレクチャーを受けながら新たな弁当の制作に取り掛かった。「料理のさしすせそ」が大事だの、「お料理は技術より真心ですっ」だの、やけに抽象的な助言ばかり残す香織は、しかし料理の腕は確かだった。
私がどれだけ奮闘しても形にならなかった卵焼きを(私は形が整いやすいようにこんがりと焼き上げた)簡単に巻いてしまったのだ。とんとんとフライパンを、釘を打つように叩くだけで、面白いように丸まっていく卵。
そうか、香織は魔法使いだったのか!
「ちゃんと聞いてますか? 先輩」
「ん? ああ。大丈夫だ。問題ない」
「なら、いいんですけど。時間が無いときのお弁当は冷凍食品で補ってもぜんぜん問題ないと思いますよ? ただ、これだけは自分で作った自信作、食べてもらいたい、評価してもらいたいっていう一品を作るんです」
「……ふむ。ためになる」
頷いてから、私は「剥いた果物はその一品に入るのか?」と訊ね、「入りませんっ」と叱咤されてしまった。
「せめてリンゴを剥けるようになってから言ってくださいよ。ウサギ剥きなんて技術は問いませんからっ」
私は肩を竦ませて見せた。こうしていると、香織はまるで教師のようだ。心強いことこの上ない。この調子で習えば、私もいつかは自分の力だけで料理ができるようになるかもしれない。そんな自信が付いてきた。
「そういえば、お前の姉は教師だったか」
「え? あ、はい。そうですよ」
突然姉の話に話題が変わり、香織は僅かに戸惑いはしたがすぐに明るく頷いた。
「まだ新米ですけどね」
と、笑う香織に、私は尋ねた。
「香織は、教師になるのか?」
今度こそ、香織は唐突な問いかけに目を丸くした。
香織は「んー、そうですねー」と眉を寄せて唸ったあと、
「絵本の描ける保育士さん……には、憧れてますよっ」
はにかみながら、答えていた。
§
私はその後、香織の手本を参考に試行錯誤を繰り返し、ついに卵焼きとアスパラのベーコン巻きを完成させた。形は歪だが、中々様になっている。「一時間練習してこのレベルですか……」という、香織の呟きが聞こえた気がしたが、私は胸のうちから湧き上がる達成感でいっぱいだった。
白いごはんを半分近くまで詰め、電子レンジで温めた唐揚げと見栄えを盛り上げる飾りの意味合いも含むというプチトマトとレタスで弁当箱を彩る。メインの卵焼きとベーコン巻きも忘れてはならない。かくして私の弁当は完成した。初めて作った弁当にしては上出来だ。少なくとも、香織談「地獄の三丁目」の千倍は美味そうだ。
香織は精根尽きたといった表情で「オメデトウございます……ふ、ふふ」と笑っている。思えば、早朝から突然押しかけてしまったのだ。眠い中無理をさせてしまったに違いない。
「本当にすまない。そして助かった。恩に着る」
「い、いいえ。おやすいごようですよ」
「できれば今度、もっとゆっくりと料理を学びたい。どうも私は料理の楽しみというモノに目覚めてしまったようだ。もっと色々なものを作ってみたい!」
力強く拳を握る私を他所に、香織はよよよ……と部屋の壁に寄り掛かってしまった。
§
香織の部屋を後にして、アパートの前に止めてあった自転車に跨ると、視界の隅に白い月を見つけた。
淡いうす桃色の、日の出直後の西の空。そこに浮かぶ月を眺めていると、不意に橋本のぼんやり顔が浮かんだ。
悪く言ってしまえば少し老けたような、しかし歳相応以上の精悍さと落ち着きを兼ね備えたその横顔は、黙っていればいわゆる「カッコイイ」という部類に入るのだろう。実際橋本のファンは多い―――らしい。
しかし私は知っている。あいつは一人でいる時、大抵の場合ぼぅっと過ごしているのだ。雲を眺めていると思えば、ねこじゃらしを揺らしながら猫と戯れている時もある。そんな時のあいつの横顔を眺めるのが、最近の私の楽しみになっていた。
そう言えば、香織が何か言っていたような気がする。確か、橋本が私の彼氏だとか何とか。
私は思わず失笑した。香織の突拍子も無い言葉に、ではない。
いい年した大人の女が、こんなにも単純なことをうやむやにしたままでいたことに、だ。
T字路のミラーに映る私の顔も、空の月と同じくぼんやりしていてよく分からないが。
あいつを思い出すと思わず笑みが浮かぶということは、つまり私は、人生で何度目かになる恋をしているということだった。
「だから人生は面白い」
まずは、この自信作の弁当の感想でも聞いてみるとしよう。
ペダルを踏む足には、知らず知らずの内に力がこもっていた。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
しっかりしているようで、どこか抜けている。料理もできない。恋の自覚も薄いままお弁当を作ると約束した彼女の不器用なまっすぐさが、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「ぼんやり顔の月」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2006 新歓号 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




