五月雨
「雨降って地固まるって言うけどさぁ」
ランチメニューのたまごサンドを摘まみながら、美雪さんは唇を尖らせた。
――古時計。
私とお姉ちゃんがお気に入りにしている、渋谷にある個人経営の小さな喫茶店。
ちょっとした相談事があった私は、友達の美雪さんを誘って、久しぶりにお店を訪れていた。
「要するに、今の若い子――ま、あたしもだけど。ともかく現代人は、下地が固まるのを待つ以前に、濡れることそのものが怖いわけよ」
左手で頬杖をつきながら、たまごサンドを口に運ぶ美雪さん。私はそんな美雪さんに生返事を返した。
「ちょっとー。香織、真面目に聞いてる?」
「聞いてますよー」
自分でも嫌になるくらい、答えた声に覇気はなかった。
「綺麗でまっさらだった自分に、なんだかよくわかんないジワッとしたものが染み込んでくるのが嫌なのよね。で、染み込んできたものと自分とをうまく折り合いをつけることができない。だから喧嘩は嫌で、んでもってたった一度の意見の食い違いでそのまま喧嘩別れってのもざらなわけ。……とまあ、これあたしの持論なんだけど」
私はやっぱり上の空だった。外はここ数日の五月晴れが嘘のような雨。注文した紅茶を一口すすりながら、私は、ほぅっと溜息ともつかない吐息を吐き出す。
「はぁ」
これは美雪さんの溜息だ。
「で、喧嘩の原因はなんだったわけ?」
「実は……」
私は今、付き合いはじめて一月も経っていない彼氏と喧嘩中だったのだ。
§
「要するに、そりゃ単なる嫉妬と独占欲ね」
私の掻い摘んだ説明を聞いた美雪さんは、特に考えるまでもなく即答した。
「そう、なんですよね……」
要約すると、こんな感じだ。
私は同じ学部の男の子と話をしていただけ。
受けていた講義の話題で、それなりに話も弾んで楽しかった。
けど、そんな場面を彼に目撃されていたようで、あとで「アイツは誰だ?」と詰め寄られた。
説明した私に彼は、「そうか」、と、不機嫌そうにそっぽを向いた。
そんな彼にカチンときた私は、「ホントあの人とはなんでもないの」と声を上げた。「分かってる」とやっぱり投げやりに答える彼に、私は「分かってないっ」と声を荒げ、彼も熱くなってきて――と、そこから先は火を見るよりも明らかな展開が待っていた。
最後は彼が、「んなに疑われたくなきゃ他の男と話さなきゃいいだろ」と言った。
私の涙腺と、あと切れてはいけない何かが見事に切れた。たぶん、人生初。ぶちぎれちゃいました。
「香織さんが怒るなんて、珍しいですね」
私たちの話に首を突っ込んできたのは、この喫茶店でウエイトレスをしている椎子ちゃんだ。
「そりゃあ、私だって怒ることくらいあるよ……」
「まあ、そんな態度を取られたら怒るのも当然ですけど……。分かりやすいくらいにへこんでますねー。紅茶、おかわりいります?」
「うん、お願い……。ありがとう、椎子ちゃん」
椎子ちゃんは、この喫茶店「古時計」の、若いマスターさんの妹さんだ。
小さい頃からお手伝いをしていたけれど、去年高校に進学してからは、正式にウエイトレスのアルバイト扱いで、お給料を貰って働いている。
お手伝い時代からの勝手知ったるなんとやら。椎子ちゃんはカウンターから厨房に戻ると、てきぱきと新しい紅茶の準備をして淹れてきてくれた。
二杯目の紅茶。
椎子ちゃんの淹れてくれる紅茶は美味しい。
このお店のメインは珈琲だから紅茶はティーバッグと聞いたけれど、とてもそうとは思えない。高品質なものを使っているのか、椎子ちゃんの淹れ方が上手いのか分からないけれど、温かいダージリンを一口含むと香りが鼻腔をくすぐって、身体の芯から温まった。
――外の雨のように陰鬱だった気分が、少しだけ和らいだ。
「なんていうかさぁ、カワイイ喧嘩だよねー」
彼に対する苛立ちと自己嫌悪の渦に沈んでいるど真ん中めがけて、事も無げにそんな台詞が放たれた。私は目を丸くした。
「カワイイ、ですか?」
「ん。なんか、小、中学生のレンアイって感じがするのよねー。変に拗ねたり嫉妬したりするその彼って」
「そう、なんですか?」
「他の男と話さなきゃいいっていうのは暴論ですよね。学校でのまともな人間関係やコミュニケーションを放棄しろってことですから。身勝手で幼稚なのは、まあ、間違いないと思いますよ」
椎子ちゃんからも辛辣な言葉が飛んできた。
……そう、なのだろうか。
私が意固地になったせいで、ついそんな暴論が口をついてしまっただけなんじゃあ……。そんな考えが頭をよぎる。
「香織さんが気に病む必要、ないと思いますよ? 拗ねて対話拒否。『分かってる』って言葉で認めながら態度は不満たらたら。もやもやした気分とか、ひょっとしたら私が悪いのかも、みたいな罪悪感を植え付けるために、そういう態度を取る人もいるって聞きますし」
思わず肩が跳ねてしまう。
怒ってしまった私が悪いのかも。確かに私はそんなことを考えて、自己嫌悪に陥っていた。
「あえてそういう態度とって香織をコントロールしようってこと? とんでもねーヤツね、そいつ!」
「違……っ! 祐介くんはそんなこと……!」
しない、と、思いたい。
あれが意図的なものだなんて。
どちらかというと、そう。小さな子どもが受動的に要求を通そうとするときのわがままに近いのかもしれない。
イヤイヤ期って呼ばれている最初の反抗期を通して、小さな子どもは「イヤ!」「ダメ!」と、ストレートに反抗すると、親に叱られることを学ぶ。
叱られたくない、叱られるという不安から、直接的な反抗を避けるようになるけれど、不満の気持ちは消えない。そこで叱られない、安全な方法で不満を通そうとする。
お片付けして、お靴を履いて、と、親や先生に言われても、聞こえないふりをして遊び続けたり、わざとゆっくり動いたりする。
いつもは自分でできることでも、気を引くために「できない」と泣いたり、わざと失敗したりする。
叱られたり物事が思い通りにならなかったりしたとき、激しく泣くのではなく、ごはんや遊びを「いらない」と頑なに拒否して「叱られたから僕は傷ついている」というようなあからさまに不機嫌な態度を取ることで、親や先生を困らせようと――罪悪感を植え付けようとする。
子どものそういう行動は、悪意やずる賢さから生まれるものじゃあない。
言語能力がまだ未発達で、自分の感情――怒りや不安を言葉でうまく表現できない小さな子どもが、親や先生、周囲の気を引きたい――それか、自分の思い通りに物事を進めたいときに使う「未熟なコミュニケーション手段」のひとつ。
――そこまで考えて、まさか、と思う。
もしそうだとしたら、本当に自分の感情をコントロールできない、未熟なだけ、なのだろうか。
「しーちゃん、どうしたの?」
美雪さんの声にはっとなって顔を上げると、椎子ちゃんは顔を覆って天井を仰ぎ見ていた。
「……香織さん。その彼氏さん、ひょっとして、落合祐介って人じゃありません?」
「椎子ちゃん、祐介くんのこと知ってるの?」
椎子ちゃんは、大きく息を吐き出すと、消え入るくらい小さな声で「先輩です」とだけ口にした。
「美雪さんは、引っ込み思案そうな女の子と二人でよくお店に来ていた、三白眼の男の子に覚えありません?」
「あー。あるねー。いつもむすーっとしてクリームソーダ頼んでた子。ブラックコーヒーとか背伸びして頼みそうな雰囲気してるのに、いっつもクリームソーダでかわいいなーとか思った覚えあるわ!」
――――胸が、ざわざわする。
引っ込み思案そうな女の子と二人、という情報が、私の心をかき乱した。
……なんだ、これじゃあ祐介くんと、なにも変わらないじゃないか。
「――香織さん?」
椎子ちゃんの声に私は反射的に顔を上げていた。
しばらくのあいだ心ここに在らずといった感じだった私に心配してくれていた椎子ちゃんは、少し困った顔で言葉を続けた。
「先輩――その彼氏さんは、きっと、怖がってるだけなんです」
「怖がってる? 香織に?」
「いいえ、違います」
椎子ちゃんは首を振り、言葉を選ぶようにして、告げた。
「失うことに、です」
「失うって彼女を? あ~、他の男と仲良くしてるだけで嫉妬って、つまりそういうことよねー。他の男子と一言話しただけで、自分の元から離れていくんじゃないか~ってやつ。どんだけ自分に自信がないのやら。不安募らせて被害妄想勝手に膨らませてるだけってこと?」
「概ね合ってますけど、それだけじゃないって言いますか……」
「煮え切らないわねー。しーちゃん、つまりどーゆーこと?」
「ごめんなさい。それは言えません」
きっぱりと、椎子ちゃんは首を振った。これ以上は個人的なこと、プライベートの、特にデリケートな部分にあたります。そんなニュアンスを含ませるような真剣な顔で、椎子ちゃんは私の顔をまっすぐに見ながら。
「これ以上は、もっと仲良くなって、落合先輩が自分から話してくれるのを待ってあげてください」
そう、柔らかい、けれどどこか悲し気な表情を浮かべていた。
「へぇ。しーちゃんは、仲直りしてあげてもいい派なんだ?」
「はい。不安と、失うことへの恐れのあまり、自分の感情をコントロールできなくなっちゃってるだけですから。本当はもっと、ぶっきらぼうですけれど優しい先輩なんですよ」
椎子ちゃんが、敵対ムードで考えを固めつつある美雪さんに優しく嗜めるように言う。
椎子ちゃんは、祐介くんのことをよく知っているような口ぶりだった。私の知らない彼の深い部分まで。
――言葉にできない複雑な気持ちが胸の中で渦巻き始めて、私は顔を伏せてしまった。
「ま、そうよね。そんな子どもっぽさを許容してさ、やれやれって思いながら付き合うってのも女のカイショーってやつかもね」
「もちろん、無茶な要望を受け入れる必要はありませんよ? それは先輩のためにもなりませんから」
それは分かっている。
重々承知しているつもりだ。
過剰に反応してしまったり、感情的になってしまったりしては、余計にこじれてしまうことくらい。
けれど、それができなかった。
それはきっと、私がまだまだ幼稚で未熟だからなんだろう。
祐介くんのことを悪く言えない。私のほうが、二つも年上なのに。
「香織。あんま自分を責めすぎないでよね」
サンドイッチの最後の一欠けを口に放り込む。ミルクティーで流し込んでから、美雪さんは続けた。
「香織、理不尽な彼のことよりもさ、今、自分のことに嫌悪っちゃってるでしょ」
「それ、は……」
見透かされたようで、私は言い淀んでしまった。
「相手に変な勘繰りしちゃったときとか、自分の嫉妬心に気付いたときとか、人の悪口っていうか、人を悪い風に考えちゃったりとかしたとき、あんた絶対あとで自己嫌悪ってるでしょ。なんていうか、『ああ、こんな嫌なことを考えてしまっている自分が嫌い~』、みたいな」
私は小さく頷いた。確かに、そんな自分が嫌いだ。自分の中で淀んでいる、形容しがたい何か。そんなものをいつの間にか手に入れてしまっている自分に嫌気がさすことだってある。
「香織は潔癖なのよ」
今度はやれやれといった感じに、美雪さんは嘆息した。
「潔癖、ですか……」
肩が沈んでいく。そんな私に、椎子ちゃんが優しい声色で言った。
「香織さん。今のは悪く言ってるわけじゃないですよ? それだけ誠実で、優しくありたいと願う綺麗な心を持っている証拠なんですから」
「そうそう、あたしもそれ言いたかった! 完璧を求めなくていいじゃん!」
横から美雪さんに肩を抱かれる。カウンターからも、椎子ちゃんが優しく肩に手を添えてくれた。
「一度さ、雨に打たれて、転んで、泥だらけになってみなさいよ。意外とスッキリするわよ?」
「そういうものですか?」
私の疑念の声に美雪さんは「そういうものよ」と笑った。
「美雪さんの例えはあれですけど、一度自分のブラックな部分を認めてあげるのは大事なことですよ」
「そそっ! ずるいことも考えるし、嫉妬もするよね。人間だもの!」
「でも、そのあとに『これじゃダメだ』って反省できる香織さんは、十分に素敵なひとです。悪いところを認めてあげることで、本当の自分も見えてくるんです」
お兄ちゃんの受け売りですけどね、と、椎子ちゃんは笑う。
「そうすれば、もう少し大人になれて、祐介くんとも冷静にお話しできて、彼のこと、ちゃんと見ることができるのかな……」
「かもね。香織が付き合うような子だし、よく知っていけば、案外似た者同士だったりして」
「似た者同士、ですか?」
煮え切らない私の態度を解すように、美雪さんは調子のいい、からかうような口調で続ける。
「そそ。向こうも今頃、あ~、やっちまった~って、自己嫌悪に陥ってるかもよ? 初心で潔癖な香織と同じように、素直になれない恋愛初心者なカワイイ後輩っ」
くすくすと悪戯っぽく笑う美雪さん。
どうだろう。祐介くんはぶっきらぼうだし、口数も数少ないから、本当のところどうなのかよくわからない。
そして気付いた。
私はまだ、自分の交際相手のことを何一つ知らずにいたことに。
祐介くんが何に怒っていたのか。
美雪さんの言うように子供じみた嫉妬や独占欲で拗ねただけなのか。
それとも椎子ちゃんの言う、「失うことへの恐れ」が根底にあって、自分を見失ってコントロールできていないだけなのか。
私はまだ何も、彼のことを知らないまま喧嘩をしたのだ。
私自身もはじめての男性との交際で、正直、舞い上がっていたところもあったと思う。
自分のことばかりで、彼を見ようとしていなかったのかもしれない。
「ま、付き合って日は浅いんだし、さっさと別れるってのもアリよねー」
今度は、悪戯っぽく。本気か冗談か分からないような美雪さんの言葉に、私は少しだけ心が軽くなった気がした。
「んで、最初の話に戻るんだけど。なんにせよ、さぁ」
最後の締めくくりのように、美雪さんはミルクティーを飲み干してから、言った。
「地固めるためにいくら土砂降りが降り続いてもさ。そのあと晴れなきゃどうしようもないわけよ。もー泥沼?」
私は思わず苦笑で返す。
「年上のおねーさんとしては、もう少し寛容な心をもって見守ってあげるくらいの包容力? ってのを、見せてあげてもいいんじゃない?」
「――ん。そうですよね」
私は答えた。
仲直り、といっても、私が謝るようなことは何一つない。
そんな意固地な態度を示していたら、もし彼に申し訳ない気持ちや謝りたい気持ちがあったとしても、素直になれないどころか、余計に反発してしまうかもしれない。
まずは、会おう。
傷つくのを恐れずに。
彼の言葉を聞こう。
彼が何を考えているのかを理解できるよう努めよう。
それが仲直りするための冴えたやり方だと信じて。
雨のあとは晴れなければ、それは嘘だ。
梅雨明けを待たずにいきなり冬だなんて、そんな嫌なことはないでしょう?
「あ、もしその彼くんが本当にどうしようもないやつで、香織に合わないヤツだったらあたしに言いな? 絶縁状叩きつける手助けしたげるから! カチコミよ、カチコミ!」
「あ、あはは。お手柔らかにお願いしますね」
なぜか強面な年上のお姉さん達や、がたいの良い体育会系の男性に知り合いの多い美雪さんのエールを受けながら、私は携帯を取り出して、最近登録されたばかりの、けれど何度も頻繁に開いているアドレスをそっと開いた。
開けた瞬間、メールの着信音が響いた。
祐介くんからだった。
慌ててメールを開く。
文面に目を落とした瞬間、私の頬は、思わず綻んでいた。
視界の端で、美雪さんと椎子ちゃんが顔を合わせてやれやれと肩をすくめながら笑っているのが見えた。
喫茶店の窓から見える景色は、梅雨の雨が断続的に降りしきるままだけれど。
私の雨上がりは、思ったよりも早そうに思えた。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
三人集まって喫茶店で恋愛相談。雨の日の、ほんの少しだけ自分を見つめ直す一幕が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。
引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「五月雨」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2006 梅雨号 掲載
(※Web掲載にあたり大幅に加筆修正)




