あの日流したepancher
あの人に告白して振られた翌日、私は二日酔いと共にあった。
早朝の冬の寒さを忘れるくらいにぐわんぐわんと頭が鳴っていた。
お寺にあるという鐘の筒の中に頭を入れて、大きな音を鳴らされたような頭痛がする。
コンパクトを開いて鏡に映った自分の顔を覗き込むと、元々白い肌がいつもより青白く思えた。
乱れてまとまりのなくなったブロンドの髪もまるで亡者のようだ。
のそりと起き上がろうとした私は、足元からふらついて転びそうになった。
壁伝いに身体を起こす。私はかぶりを振りながら辺りを見渡してみた。
知らない部屋だった。
春からお世話になっている義父の家は、日本を題材にした映画に出てくるような広く古い木造の家なのに、この部屋はまるでアパートの一室のように狭く、中央に置かれているテーブルの上や周囲に物が散乱していた。
まるで男性の部屋のようだ。
二日酔いで青かった顔が更に青ざめた。
思い返してみると、昨日の記憶が曖昧だった。
昨日は私の好きな人の誕生日で、彼の家に彼の友達が集まって小さなパーティーが開かれたのだ。
私は彼に想いを告げたかった。
だからそのパーティーに託けて、彼に告白した。彼には既に恋人がいることを知っていながら。
私の「je t’aime」という言葉のニュアンスを、彼は「like」と解釈した。
確かに、フランス語で「aimer」は「like」だけどそれは物に使う場合で、人に使う場合は意味が「love」に変わる。
私はそれを日本語で、ゆっくりと彼に説明した。
説明した後で、「あなたが好きです」と、彼にもよく分かる日本語で言った。顔から火が出るかと思った。
彼は一瞬だけ困った顔を浮かべた後、できる限りの気遣うような微笑みを浮かべながら「ごめんね」と言った。
その後もパーティーは続いた。
途中でカラオケに行こうと誰かが言い出して、一同外に出たところまでは覚えている。
けれど、そこから先の記憶が不鮮明だ。
私が確か、もう遅いので帰ると言い出すと、誰かが「家まで送る」と言って―――。
その後、どうなったのだろう?
記憶の糸を必死に手繰り寄せていると、不意に鼻腔をコーヒーの香りがくすぐった。
安物の、インスタントコーヒーの香りだ。
「よう。目ぇ覚めたか、お姫様」
ドアが開き、両手にコーヒーカップを持って現れたのは、長身の―――女性だった。
そのことに私はひとまず安堵の息を吐いた。
その女性は部屋に入るなり、足でテーブルの周りを占拠していた雑誌や細々とした小物を退かしてどかりと座り込んだ。
「立ってるの辛いなら座れよ」
私は促されるまま頷いた。
この人は誰だろう。私はその女性の顔をまじまじと見詰めながら思った。
茶色に染め上げられた長い髪を簡素なゴムでポニーに結わえたその女性と面識は無い。
―――いいや、顔を見た覚えはある。彼の誕生会の席に居た女性だ。
確か、あの人の幼馴染。名前は……訊いていないので分からない。
改めて「Qui êtes-vous ?(あなたは誰ですか?)」と訊ねるには間が空きすぎてしまった。まじまじと見ていた気まずさもある。
どう話を切り出そうか困っている私を見ながら、彼女は笑った。
「そう気構えるなって。日本語は分かるし、喋れるんだろ? 昨日自己紹介はしたはずだが……その調子じゃ忘れちまったみたいだな」
私は首を縦に振った。
彼女は「ま、あんな飲み潰れ方じゃあ仕方ないわな」と不穏な言動を残して言った。
「オレは楓佳。見ての通りのヤンキーだ。文句あっか?」
私はふるふると首を振った。
彼女―――フウカは、それを見てまたおかしそうに笑った。
§
フウカは、私があの人に告白するところを見たのだと言った。
結果振られはしたけど、フウカは「アイツちっこいのに度胸あんなぁ」と好感を持ったらしい。
余計なお世話である。ちっこいだなんて。
そして私が帰る時、彼女は自分がバイクで送ると言い出した。
フウカには、振られた私の様子が心配に思えてならなかったらしい。
なるべく平静を装ったつもりだったけど、彼女から見れば今にでも投身自殺をしそうなほどショックを受けているように見えたようだ。
知らない人だったが、あの人の幼馴染だというし、彼も「見た目以上に信頼できる人」と言っていたので、その好意に甘えることにした。
ただ、途中でフウカのアパートに寄ったのが間違いだったのかもしれない。
「いやあ、いつまでもなんかヘコんだようなシケた顔してたもんだからさ。飲んで忘れようぜっ! って酒勧めたら、お前、一気で飲み干してバタンキュ~。まさかあんなに弱いとは思わなかったぜ」
「ジュースと偽って勧めるからです」
「おフランス・マドモアゼルの嗜みでワインとか飲まないのか?」
「祝日にシャンパンなら少々……。ビール、飲んだこと無いです。苦いだけでした」
「そっか。まー、悪かった。許せ」
「……朝帰りだと、義父に叱られます」
「女の家に泊まったんだ。問題ねえだろ」
「男とか女とかという問題じゃないです」
「むー。お前、意外とねちっこいのな。外人だっつーから、もっとサッパリしてると思ってた」
「外国人みんながお気楽と思わないでください。繊細なのです。とても」
「そうかい。ああ、コーヒー。はやく飲まんと冷めるぞ?」
私は目の前のコーヒーカップを凝視した。香りを嗅ぐかぎり、これは安物のアメリカンコーヒーだろうか。
向こうのコーヒーは、ただ苦いだけで味がしないのだ。安かろうと高かろうと好きになれない。
私はコーヒーカップをそっと手に取り口に含んだ。思わず舌が出た。
熱いうえにミルクも砂糖も入っていなかった。
「オレ、ブラック派なんだ」
らしい。
口をへの字に曲げる私を、フウカは胡坐をかきながら面白そうににやにやと笑っていた。本当に意地の悪い人だ。
なぜ、こんな女性が彼の知り合いなのだろう?
私が持つあの人のイメージは、誠実、温厚、人当たりがいい、というもの。実際彼はそんな人柄だ。
そんなあの人の周囲に、こんな性格の曲がったガサツで乱暴そうな女性が居るのか、不思議でならなかった。
結局私はコーヒー一杯をご馳走になって、頭痛が治まり次第家に帰ることにした。
家まではフウカがバイクで送ってくれるという。
元々フウカが飲ませたお酒でこの家に担ぎこまれて強制的に泊まることになってしまったのだ。
それくらいは当然の責務だと私は思う。
「それにしても、お前、何であんなの好きになったりしたんだ?」
玄関で足を止めたフウカは、唐突にそんなことを訊ねてきた。
「……幼馴染をあんなの呼ばわりですか」
「いいから答えろって」
私は答えに困った。特別深い理由なんて無かった。
気付いたら好きになっていた。惹かれていた。
そこに理由なんて無いし、必要も無いだろうと私は思う。
「しいて言うなら……。分からないことだらけのこの国に来た私に、一番最初に優しくしてくれたのがあの人だったから、です」
「……ふぅん? だったら、優しくしてくれるなら誰でもよかったってワケか?」
「―――それは違います」
知らず知らずの内に、私の声は怒気をはらんでいた。
フウカは両手を挙げてふるふると首を振って、「怒るな怒るな」と私を宥めた。
「ま、ヘンな男に引っかかって痛い目見るよかよっぽどいいわな。安牌だ。―――ただ、残念なことに振られてしまった。その要因は二つある。分かるか?」
私は小首を傾げた。今までのフウカの態度からは想像のつかないような真剣な瞳だ。
ただのお節介で失礼なだけの人ではないようだ。私はフウカの答えを待った。
「一つ。アイツがロリコンじゃなかったこと」
―――訂正。やっぱりフウカは失礼な人だ。
「一応、この国で結婚の許される歳です、私は」
「それでもアイツは二十六だ。十離れてりゃあ立派なロリコンだぞ」
「……恋に歳の差は関係ありません。数年したら、私だってモデルのようなtailleを獲得できます。ママは美人でした」
「ま、百歩譲ってその主張は認めよう。問題は次の要因だ。たぶん、これがお前の一番の敗北原因。―――相手が悪かったんだな」
私は反射的に顔を上げた。彼の相手の人は、話に聞いただけで実際に会ったことはない。
昨日の誕生会も、その人は語学研修でニュージーランドへ行っていたらしく姿が無かった。
フウカは、その人のことを知っているのだろうか?
「ああ。オレの隣の部屋に女の子が一人暮らししてんだけど、そいつの姉貴がアイツの彼女だ」
親指でくいっと壁を指すフウカにつられて、私は思わず壁を凝視してしまった。
隣の部屋に、あの人の恋人の妹がいる。顔を見れば、その人がどれだけの容姿か見当がつくかもしれない。
ひょっとしたら、数年もすれば私にも勝ち目が見えてくるかもしれないのだ。
「言っとくが、そいつの姉ちゃんはすっげぇ美人だ。んでもっておしとやかで器量良し。こんなパーフェクトお嬢様が実在すんのか!? って物を投げたくなるほどのレベルだ。勝とうなんて思うなよ?」
胸の内を見透かされたようで、私は酷く恥ずかしく思い俯いた。
「そう気を落とすなって。元々分かってたんだろ? アイツには付き合ってるやつがいた。アイツは妙に義理堅くて真面目すぎる性格だから、付き合ってるやつ振ってまで違う女のところには行かない。だから断られる。……だろ?」
私は少しの間を置いてから頷いた。
元々勝ち目は無かったのだ。
だけど、この想いは本物だった。
本気で彼が好きだった。
彼になら、何でもしてあげられると思った。
そして、その覚悟もあった。
だからこの溢れ出る感情を抑えることができなかった。
この想いを告げたかった。
聞いてもらいたかったのだ。
あの人への、epancherを―――。
「―――お前、強ぇわ」
フウカはその長い髪の尾を翻して、玄関を開けた。
§
外の世界は、未だ夜の帳に包まれていた。朝焼けにはまだ早い時間。
冬の早朝は寒くて暗く、それ以外何も無いように思えた。
「……不思議に思うことがあります」
「何だ?」
留めてあった髪を解いてヘルメットをかぶり、バイクにまたがろうとしていたフウカはその動きを止めた。私は続けた。
「なぜフウカはあの人と知り合いになったのですか?」
フウカは首を傾げた。
「フウカの持つイメージと、あの人のイメージ、違いがありすぎます。正直、昨日のあの場所にあなたがいたことが不自然でなりません」
「それはアレか。オレみたいな髪を染めて乱暴でがさつな言葉使う不良娘が、どこぞのお坊ちゃまみたいな品のある好青年と知り合いなのが信じられないと?」
「そんな感じです」
「お前なぁ」
とフウカは苦笑を浮かべた。失礼なのは分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。
「言っただろ? 幼馴染だって。あいつ、父子家庭だったんだ」
私は頷いた。彼の妹であるシーコに聞いたことがある。母親を幼い頃に失くしたと。そして、去年の事故で、私のように今度は父親を亡くした。パパとママを亡くした私にシーコが語った身の上話だ。
「それで親が仕事中、昔保育園で働いてたオレのお袋が預かって面倒見てたんだ。そん時オレが遊びの相手してやってな。そんな腐れ縁だ」
「……crècheで働いていらしたのにも関わらず娘がこのようなフリョウに育ってしまっただなんて、お母様もさぞかし残念がったことでしょうね」
「お前、実は性格悪いだろ」
「そうでしょうか?」
「……まあ、それは置いといて、だ。ひとえに、縁ってやつだな」
縁。えん。ゆかり。人と人との絆。
縁あって人は出会い、そしてその縁を結んでいく。
そんな不思議な糸によって、この人たちは繋がっているのだろうか。
「そんな大層なものじゃねぇって。まあ、いわゆる一つの不思議な偶然ってやつだな。ほら、オレの隣にアイツの彼女の妹が住んでたり、世の中広いようで狭いんだ」
フウカの何気ない言葉に、私は突然恐怖を感じた。
私が好きになった人には、既に様々な縁が張り巡らされていた。
彼には恋人がいて、幼馴染がいて、その恋人の妹と幼馴染は知り合いで……。きっと、私の知らない縁がまだたくさんあるはずだ。
フウカの言葉を聞いた途端、その目に見えない縁が、目の前にすっと姿を現したような錯覚に陥った。
それは複雑に絡み合いながらも、既に完結された一つの世界だった。
彼に会ってまだ間もない私が入り込む余地なんて皆無に思えるほど、その世界は完成されているように思えたのだ。
「……私が勝てない理由の一つに、その縁というものがあったのでしょうか。彼が今まで築いてきたその縁の環にとって、突然湧いて出た私は、邪魔者、なのでしょうか」
次第に細くなっていく自分の声に涙が滲みそうになった。
すると突然視界が塞がれた。何が起きたのか分からずに一瞬パニックに陥りそうになる。
けれど、何のことはなかった。フウカが無理やり、私の頭にヘルメットをかぶせただけだった。
「馬鹿か、お前は」
ずれて視界を塞いでいたヘルメットを直すと、目と鼻の先にフウカの釣り目があった。
睨み付けるような鋭い目だった。私は思わずたじろいだ。
「今度アイツに同じこと言ってみろ。……いいや、アイツの周りにいるやつなら誰でもいい。とにかく訊いてみろ。口を揃えて違うって答えるはずだ」
フウカはそっぽを向くようにして顔を背け、再びバイクにまたがった。
エンジンをかける。変な改造をしているのか、とても近所迷惑な唸りを上げてバイクが吼えた。
「乗れよ」
ぱんとタンデムシートを叩いたフウカに促され、私はそこに腰掛けた。
「掴まっとけよ」
ゆっくりと、バイクが動き出す。
私はしっかりとフウカの腰に手を回してしがみついた。
風になびくフウカの長い髪が頬をくすぐってこそばゆかったけど、フウカの背中は温かかった。
§
バイクは細い路地を抜けて広い国道に出るや否や、途端にスピードを上げた。
その驚きと、身を切るような夜明け前の風の寒さに思わず私の身体は縮こまった。
早朝の国道に他の車の姿は無かった。
まるで、ジェットコースターに乗っているようなスピードでフウカのバイクは駆けた。
私はもう少しスピードを落とすよう、抗議の声を上げようとして目を見開き、そして、見た。
道沿いに並ぶ街灯が、まるで流星のように流れていく。
その光景に私は目を見張った。遠くで煌いているのは駅前のビルの灯りだろうか。
遠くで揺れる光と、急速に遠ざかっていく二つの光。
揺らめくそれらの光で彩られた街は、まるで別世界に迷い込んでしまったような錯覚を私に与えた。
私は流れていく街灯に魅入っていた。
その灯りを掴もうと手を伸ばしたくてもこのスピードだ。危なくて伸ばせるはずがない。
勇気を振り絞って手を伸ばしても、掴めそうで掴むことができない。
通り過ぎてしまえば、二度と掴めない一瞬の瞬き。
何かに似ているなと、私は漠然と思った。
私は片腕でしっかりとフウカに掴まりながらゆっくりと手を伸ばしていた。
「落ちるぞ」というフウカの声も気に留めずに開いた指をぎゅっと握る。
思ったとおり、光は掴めなかった。
「気は済んだか」
というフウカの声に頷くようにして私は手を引いた。
しばらくの間、手に打ち付けていた風の冷たさの余韻に浸っていた。
顔を上げると、いつの間にか東の空が白んでいた。
朝焼けが、訪れようとしていたのだ。
不意に、目頭が熱くなった。
この時初めて、私は今更のように気付いたのだった。
私の初恋は、終わってしまったのだということに。
揺れて、滲んで、歪む光たちを私は見送った。
この光景も、やがて朝焼けに消えていくだろう。
「もう少し……スピードを出してください……」
私はフウカの腰に回した手に力を込めた。
「―――了解」
フウカは答えた。
スピードを上げて、私たちは駆ける。
頬を打ち付ける風は、すべてを洗い、流してくれた。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
失恋した少女が朝焼けにこぼした想いの吐露と一筋の涙が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。
引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
※作中の2004年と現在とでは、日本、フランスの法律が一部異なります。
2022年以降、日本の婚姻開始年齢は男女ともに満18歳以上となっています。
2009年以降、フランスの公式な法定飲酒・購入年齢は18歳に引き上げられています。
が、日本では2004年でも20歳未満の飲酒喫煙は、法律で禁止されています。
未成年飲酒、ダメ、ゼッタイ
【初出】
「あの日聴いたepancher」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2005 星霜号 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




