春雨
進学も就職も決めずフラフラしていた俺は、今は亡き幼馴染の勧めもあって大学に進学することに決めた。さして有名でもない私立の文系大学だが、心配性で泣き虫だったアイツが化けて出ない程度にやっていくつもりだった。
春が来て、そして過ぎようとしていた。
息を呑んでいる内に俺は大学生になり、遅く咲いた今年の桜もその殆どが花を散らし、若芽が芽吹きはじめている。
四月ももう終わりだ。アイツが交通事故で死んでから、もうすぐ一年が経とうとしていた。そういえばアイツは雨が好きだったな。そんなことを俺は生協の売店の前で考えながらぼんやりと空を見上げていた。
「狐の嫁入り、か」
呟きながら、売店で傘を買おうかどうか葛藤を続けた。お天気雨はただの通り雨のはずだ。しばらくここで雨宿りをしていればそのうち晴れるだろう。葛藤はもろくも十秒も経たずに終わった。
「……退屈だ」
目に映るものといったら、鞄を頭の上に乗せて駆けていく学生か、それか一号棟のほうへ続いていく桜並木だけだ。その桜にしても、花は殆ど散ったあとで、その亡骸が無残にも道の脇に積もっているだけだ。ぱらぱらと降りしきる小雨を眺めていても気晴らしにもならない。かといって、今さっき見て回ったばかりの生協をもう一度回るのも躊躇われた。
静かに、細かい雨が降り続ける。止む兆しはない。というより、止みそうで止まないというあまりにも遠慮がちな雨の勢いでそんな兆しが分かるわけがないのだ。
すぐにでも止みそうで、だが永遠に降り続けそうな雨。
このまま俺はこの場所で銅像になるまで立ち続けなければならないのだろうか。そんなあるはずのない空想を繰り広げているうちに、俺は退屈を紛らわせそうなものを発見した。
女子学生だった。小走りに駆けながら、真っ直ぐこちらに向かってきている。彼女も雨宿りのようだった。
しかし俺は訝しがった。彼女の手には、開きかけの折り畳み傘があったのだ。傘があるにもかかわらずそれを差さないで走る女―――なんのつもりだろうか?
「―――ふぅっ」
その女性は俺の考えたとおり、売店入り口の屋根の下で雨宿りをするために走っていたようだ。俺の真横に立って、ゆっくりと上下する肩を深呼吸でなだめた彼女は小雨で濡れたロングヘアを指で梳きはじめた。幼さの少し残る、少女と呼べるような女だった。俺と同じ新入生だろう。しかし髪にかかった雨水を払うその仕草はどこか艶やかだった。俺は思わず喉を鳴らしかけた。
「……? どうしました?」
まじまじと見ていた俺と目が合った。気まずさのあまり咄嗟に目を逸らす。「別に」と答えた俺に、彼女は子どものように笑った。
「困りましたよ。突然降ってくるんですもん」
「……あんた」
俺は初対面だというのに旧知の仲のように話しかけてくる彼女に眉を顰めながら、しかし同じように声をかけ返してしまっていた。自分のことながら俺は驚いた。
「何ですか?」
呼んでしまった以上何か訊ねなければならない。俺は声を絞り出すようにして話題を探しながら、彼女の手にある折り畳み傘に目を留めた。
「傘があるのに、雨宿りか?」
「ああ、これですか」
言いながら、半開きの傘を俺の目の前に持ってきて、「壊れちゃってるのかこれ以上開かないんですよー」と、特に困った様子もなく言った。
「……見せてみろよ」
俺の声に、彼女は一瞬きょとんとしたあと俺に傘を手渡した。手にとって傘の裏側を覗き込んでみる。中棒に何か詰まっているのだろうか、途中で固まっていて傘がスライドしない。これ以上開くことも閉じることもできなくなっていた。
「知り合いに貸したんですけどね。もっと大事に使ってくださいって感じです」
まったくだ。俺は頷くと、傘の手元をしっかり握った。
「開いてみるんですか?」
「……まあ、やるだけはやってみるさ」
女の力で開かなくても、男の力なら開くかもしれない。俺は力いっぱい傘を押した。
「あ」
二人の声が重なる。……折れた。
音も立てずにステンレスだかアルミだか分からないような傘の受骨はぐにゃりと折れ曲がり、俺と彼女は絶句した。
「……悪かった」
「い、いいえっ、大丈夫ですよ。安物の、しかも古い傘ですからっ」
大慌てでフォローしてくれているが、それが余計に申し訳なさを掻き立てていく。俺はきびすを返して売店に向かった。
「新しい傘を買ってくる」
「いいですよ、そんなっ。雨だってすぐに止むんだし」
手首をぐいっと掴まれて俺は止められた。止めないでくれ。傘なんか買わないからこのままどこかに行かせてくれ。申し訳なさと気まずさで死にそうだ。
彼女は手を離した。チャンスだ。雨に濡れても構わないからこのままどこかに駆け出そう。
しかしそんな俺の目論見は再び彼女に止められてしまう。
「買わなくって大丈夫ですからっ!」
だから買うんじゃない。あんたの前からさっさと去りたいだけだ。
しかしそんなことを正面きって言えるはずもなく。
俺は傍から見れば不貞腐れるようにそっぽを向きながら、その女と並んで雨宿りを続ける羽目になった。
気を抜くとすぐにため息がこぼれてしまいそうだ。それどころか突然頭を掻きむしって奇声を上げだすかもしれない。彼女の手には壊れた傘。自分で招いた結果とはいえ、今の状況は自分で自分を生殺しにしているようなものだ。俺は耐え切れずに一つ嘆息した。
ちらりと横目で彼女に目をやる。先ほどから何かが聞こえてくると思ったら、機嫌がいいのか彼女は鼻歌を歌っていた。聞き覚えのあるメロディだ。それも、よりにもよって童謡、確か、あめふり。幼稚園で歌って以来かもしれない。
「……好きなのか?」
「何かですか?」
ハミングが止んだ。彼女が、俺を見ていた。
何が? 何が好きなのか? あめふりくまのこ? 違う、俺は何を尋ねようとしている?
「雨」
俺は、自分でも嫌気がさすくらいの細い声で、
「雨が、好きなのか?」
静かに、訊ねていた。
「――はいっ。結構好きですよ」
彼女は笑った。
「私、雨の日のお散歩とか結構好きです。水溜りを飛び越えて歩いたりとか。それに、雨が降らなきゃお気に入りの可愛い傘が使えないじゃないですか」
それはまるで、去年まで俺の隣にいた、一人の少女のはにかんだ笑顔を思い起こすような顔だった。
「子どもっぽいですか?」
と彼女ははにかむ。俺は首を振った。
――縦に。
「めっちゃガキっぽい」
彼女はむくれた。
「もうっ。なら、この先のお話はしませんっ」
どうやら怒らせてしまったようだ。別に何だって構わない。雨さえ上がってしまえば、俺はどこにだって行ける。名前も聞かずに彼女と別れて、この広いキャンパスだ。偶然が続かない限り会うこともないだろう。
しかし、気付いたら俺は話の続きをせがんでいた。子どもっぽくなんかない。俺の友人にも似たようなのがいた。だから、続きを聞かせてくれ。
なぜそんなに食らいついたのだろうか。自分でも信じられなかった。
彼女は続けた。まるで、童話を子どもに語って聞かせるような優しい瞳で。
「あのですね。雨って、神様の流した涙なんですよ」
どこかで聞いた話だった。だがそれがかえって俺の心の琴線に触れる。
俺は言葉もなく。その幻想世界を聞いていた。
「この世界で起こった悲しい出来事を見て、神様が泣いてる。その神様の涙が空の上から降ってくる。それが、雨」
「……神様も難儀だな。それに、そんなものにいちいち涙を流してたんじゃ、世界は毎日雨続きだろ……?」
俺は思わず口をついていた。
「ええ」
彼女は笑顔で肯定した。
「世界のどこかしらで、雨はいつも降ってますよ」
それが彼女の答えだった。
「それって、素敵なことだと思いません?」
俺は小首を傾げていた。世界に満ちる悲しい出来事と、それに涙する神様。どうしてその話が素敵なのだろう。ただもの悲しさとやるせなさが込み上げてくるだけだ。
「だってその涙は、神様の慈しみの心なんですよ?」
「……あんた、クリスチャンか?」
「いいえ、違いますよ?」
聞いていれば神様とか慈しみとか、まるで教会の神父みたいなことを言う。思わず俺は訊ねていた。しかし、「どうしてですか?」と真顔で返答が返ってくるだけだった。俺は深く突っ込まずに続きを促した。
「誰かを想って泣いてるんですもん。雨の音を静かな場所でゆっくりと聴いていると、優しい気持ちになったりしません? 優しい雨の音に包まれているというのは、優しさに包まれているんですよ」
言いながら。
彼女は、今日一番の笑みを浮かべた。
瞬間、雨が上がった。
風が降り積もった花びらを舞い上げていく。そんな一陣の風が、その春の雨をどこかに連れ去ってしまったようだった。
舞い落ちる桜を背に、彼女は風に棚引く黒髪を押さえている。俺は思わず見惚れていた。そして、はじめて見た時に感じた艶やかさのわけを知った。
「雨、上がりましたね」
「……ああ」
俺は生返事を返していた。頭なんてとうの昔に正常な機能を失っている。
「お話聞いていただいてありがとうございました。どうでしたか? 今度描こうと思ってる絵本のお話なんですけど」
絵本。そして童謡。なるほど、彼女は児童文化学科か。別名、童話作家養成学科。どうりで。
いいや。そんなこと今はどうでもいい。
「――落合祐介」
「はい?」
「俺の名前」
彼女はぽんと手を打って「あぁ」と声を上げた。
「私は、橘香織です。児童文化の三年生ですよ」
まいった。二つも年上じゃあないか。
――いいや、それすらも関係ない。
「じゃあ、私はこれで失礼します。傘は気にしないでください。家に新しいお気に入りの傘がありますから」
「また会えるといいですね」と彼女は微笑み、きびすを返した。俺は無意識の内にその手を取っていた。
「何です?」
今の俺はきっと、これまでの人生の中で一番真摯な目をしているだろう。彼女の目にそんな俺の姿が映っている。
彼女が戸惑いを覚えるよりも早く。
「あんたに惚れた」
俺は、告げた。
え?
と。彼女は絶句するように固まったあと、まるでロケット花火が打ちあがるような勢いで顔を真っ赤に染め上げた。
「付き合ってくれ」
彼女の頭は混乱の真っ只中にあっただろう。「私に、ですか?」とか「私なんて、そんな……」とか、でもとかだってとかだけどとか、ひたすらに、しどろもどろになっている。突然、会って間もないヤツに告られたのだ。しかも彼女は雰囲気からして恋愛に疎いというか、縁の無さそうな人生を送っていそうな人なのだ。そんな彼女の思考回路がまともに働いていたかさえ怪しい。
「付き合ってほしい」
押し切ると、彼女――橘香織はこくんと、つられるように、俺の勢いに押し流されるように頷いた。
§
春が過ぎて五月になり、雨が好きだった幼馴染が死んでちょうど一年が経った。
俺はソイツの遺影の前に立って、とりあえず進んでみた大学は、まあそれなりに楽しくなりそうだという報告をする。
お前と同じで雨の好きな変なヤツに出会ったんだ。そして、ソイツと付き合うことになったんだ。遺影は相変わらずの微笑を浮かべている。
外は、この日を計ったように小雨が降っていた。
思わず、頬が綻ぶ。
俺は何となしに優しさに包まれたくなった。
俺は携帯を手に取り、最近手に入れたばかりのアドレスを開いた。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
なくしたものを思わせる少女との出会いに胸を高鳴らせる祐介の、少し強引な一歩。
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引き続き、彼らの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「春雨」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2006 新歓号 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




