空鳴
嗄れ声のようなアブラゼミの独奏を聴いていると、何の前触れもなく、ああ、空が鳴いている――と思った。
入道雲が薄い灰色の雲に覆われて、夕立が来そうな昼下がりのことだ。
かんかん照りだった寺院の境内も急に薄暗くなって、吸い込む息が重くなった気がした。
その上、なんだか酷く蒸す。
汗を吸ったシャツが肌にまとわりつく不快感に眉をしかめながら、僕は空になった桶と柄杓を手に取った。
寺の敷地内にあるこの小さな墓地はいつにも増して閑散としていた。
夏とはいえ盆を過ぎた今となっては無理もない。
もっとも普段から人が訪れることも少ない静かな山奥の寺だ。閑散もなにも、いつも人の気配はない。静かだなんて、本当に今更な話だ。
けれどもこの空模様と重苦しい空気のせいで、それがいつもよりも酷く寂れていて、外の世界と切り離された異空間のように思えた。
どこからか聴こえてくるたった一匹のセミの声も、より異質な黄泉の声のように聞こえてならない。
そんな異様な静けさに耳が痛くなった気がした時、僕は何となく真横に立つ少女の顔を横目に見ていた。
「――――」
胸の前で手を握り、こんな東洋のざっくばらんな宗教文化圏の只中で西洋の祈りを捧げているのは、今年の春から義妹になったフランス人の少女だ。
合わせた手を解いて顔を上げた少女―――クリスは、黙祷中すっかり辺りの静けさと同化して存在感が希薄になっていた。
感情の読み取りにくい瞳で『仲村家之墓』と彫られた墓石をじっと見つめている。
長いブロンドの髪が嫌でも目立つはずなのに、クリスの物静かな性格からか、それともこの墓地の持つ独特の空気のせいか、妙に存在が薄い。
クリスは僕の叔父の娘、要するに僕の従妹だった。
家柄から従兄弟は多いほうなのだけれど、僕がこの子を知ったのは、叔父―――クリスの父親の、葬式の席のことだ。
僕の家は江戸時代辺りから古く続いている家で、山裾の小さな集落で農業を営んでいる。
その集落のほとんどが僕の親戚にあたる人達で構成されていて、冠婚葬祭の時なんかは一族総出で執り行うという、身内意識の強い面を持っている。集落一つが大きな家族といっても過言ではないくらいだ。
叔父は、そんな家に生まれながらそれに馴染むことができなかった。
職人気質が強く、自分という個がそんな分厚い身内の集団意識に飲み込まれるのが耐えられなかったらしい。
叔父は大学を卒業してすぐフランスに渡り、そこでパンを焼きながら暮らすことになった。
勝手に家を飛び出した叔父はほとんど絶縁状態だったのだといつだったか聞いたことがある。
叔父はフランスでごく普通の恋をし、そして当然の成り行きでクリスを授かった。
パリ郊外の片田舎で、家族三人、平穏に暮らしていた。
去年の十二月。家族揃って日本を訪れ、そして大きな事故に巻き込まれるその時までは。
「もう、いいかい?」
墓石をじっと見据え続けるクリスに声を掛けると、彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、次はお母さんのお墓に行こうか」
足元に置いておいた空の桶と柄杓を手に取り、僕は踵を返した。しかし、一向に動く気配を見せないクリスに気付き足を止める。
「どうしたの? 急がないと、この天気だ。雨になるよ」
クリスは答えず、墓石を見つめ続けている。
「……クリス?」
「―――て、思っただけ」
小さな、掠れるほど小さな、クリスの声。
「パパが寂しそうって、そう思っただけ、です」
「寂しい―――」
「なぜ、パパはママと同じtombe――オハカ入れないの、ですか?」
勉強中の日本語で、たどたどしくもしっかりと言葉を伝えてくるクリス。
叔父は絶縁状態にあったが、亡くなってようやく一族の縁に戻った。
だから、叔父は代々続くこの墓地に骨を埋めた。一族の総意で。
けれどクリスの母親はそうもいかなかった。まったく面識もなく、叔父が向こうで勝手に一緒になった得体の知れない外国人の女性を家の一員として先祖代々続く墓に入れることはできないと、殆どの親族が声を揃えて反対したのだ。
そして何より、クリスの母親はクリスチャンだった。クリスの母だけ、隣の市に立つ教会の管理している霊園で眠っているのだ。
そんな理屈、クリスにも分かっているはずだ。それでも、声にして訴えたくなるほど、この墓地は寂しい。
それが痛いほど分かった。せめて、こんな島国で亡くなってさえいなければ。
遠い祖国の土の中、二人は静かに、穏やかに眠れただろうに。
「クリス―――」
お墓はたとえ違えども。
きっと二人は、天国で一緒になっているはずだ。
そんな気休めの言葉が口をつくその寸前、
「コーキにーさん。オハカと同じように、天国も、人の勝手な尺度で区分されているのですか?」
クリスは、淡々と呟いた。
僕は思わず息を呑む。天国。極楽浄土に高天原。神の御国、ジャンナに、ヴァルハラ――は多少意味合いが違うかもしれない。
けれど、宗教ごとに異なった天国があるのは確かだ。たとえそれが人の作り出した概念だとしても、それにすがるのもまた人なのだ。
「私が死んだら――私はどこへいく、のですか?」
僕は答えない。答えの代わりに、僕はクリスの手を取った。
うだるような夏の熱気のせいか、僕たちの汗ばんだ手のひらの感触だけが強く残る。
「駄目だよ」
僕は小さく呟く。
「それだけは、駄目だ」
「分かっています」
と、クリスは強い意志を込めて繋いだ手を握り返してきた。
「ママが言っていました。自分から死を選んだ人は咎人。永遠に、天国への扉は開かれないと。神様は、いつも見ていますから」
西洋の神とは縁遠い線香混じりの風が僕たちをうちつけた。わずかな沈黙の後。僕たちはどちらからとなく歩き出す。
「……そう。もし見ておられるのなら―――」
小さな呟きが、消えるように風に掠れる。
自分の信じる神にではなく、線香の立ち込めるこの場所から、この土地の言葉で、この国の空にいるかもしれないその存在に向かって。
「神様、どうかお願いです。……天国を、別けないで」
天も神も、人が創り出した幻想だったとしても。
もし、本当に神様がいるのならば。
眠る場所は違えども、せめて、どうか―――。
どこかで独り鳴き続けていたセミの声は、じいぃとフィードアウトしていって、そして消えた。
その直後、空が鳴いた。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
寂しそうに思えた父の墓は自身の投影。私はどこへ行くのか。居場所を得たはずなのに、それを見失っている孤独な少女。彼女が勇気を振り絞る、三か月前のお話。
そんな少女の小さな手を握り続けた青年の優しさが、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼らの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「空鳴」
熊谷雑文工房『点景』 2006 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




