あの日見上げた空に
「椎子ちゃん、こんにちは。今日も迷子?」
デパートのエレベーターに乗り込むと、その人はいつものように私に微笑みかけながら言った。同乗した他のお客さんが眉をひそめる。当然だ。四月から高校生になろうかという女の子が「迷子?」と声を掛けられたのだから。
……まあ、背伸びして高校生というような身長しか持ち合わせていないのも確かだけれど。
それにしても――と、私はため息をつく。
いつものことだけど、人前でそんな挨拶ないと思う。だから私はこの人を好きになれない。
「上へまいりまぁす」
知り合いのエレベーターガールはお決まりの営業スマイルを浮かべた。
§
「どうしたの? 迷子かしら」
泣きじゃくる私に声を掛けたのは、その頃まだ新人だった夏美さんだった。
今と同じようにエレベーターガールをしていた夏美さんは、しゃくりあげながらエレベーターに乗ってきた私を見て一瞬戸惑ってしまったのだという。だからだろうか、私は夏美さんの見せたぎこちない笑みを見て、更に激しく泣き出してしまったようだ。
それはもう十年も昔のことで、私が幼稚園に通っていた頃の話だ。記憶だってほとんど残っていないし、数少ない思い出せることすらも、そのほとんどが夏美さんから聞かされた話から生まれたイメージで形作られている。
だけど、そんなおぼろげな記憶でも鮮明に残っていることはある。声を掛けた夏美さんの声と、見上げたらそこにあった夏美さんの引き攣ったような笑みだ。私はそれを、確かに覚えていた。
§
「今日は何のお買い物?」
「高校生活に必要なものを、まあ、色々と」
私は小さめのチョコレートパフェを一口運んでから答えた。新しい生活が始まるとなると、何かと物入りなのだ。制服や鞄こそ学校指定だけど、小物や外行きの服くらいはお洒落したい。薄い懐具合という制限こそあるものの、物入りなのは確かなのだ。
「あらためまして。受験、合格おめでとう」
「ありがとうございます。偏差値もそこそこの高校ですから、余裕でしたよ」
「椎子ちゃんならもっと上の高校行くかと思ったわ」
「――まあ、去年の暮れから色々ありましたから。兄が頑張って学費を出してくれると言うので、都立の高校を選んだだけです。近いですし、知り合いの先輩も通っていますし」
「……お父さんのことは、残念だったわね。お店のほうは大丈夫?」
「――はい。お父さんがしっかりしていてくれたおかげで、お店のほうは順調です。兄も頑張ってますし。常連さんもみんなよくしてくれますから……」
「そう……」
会話が途切れる。
夏美さんがカップを手に取り、紅茶を口に含んだ。
私も溶けてしまわないうちにパフェを食べてしまおうと手を進める。
かちゃり、と、夏美さんのカップがソーサーに触れて音を奏でる。
スプーンがパフェの器に当たり、高い音を小さく鳴らした。
店内に流れるクラシックがどこか遠い。手元の音だけが過敏に耳に響く。
この不自然な沈黙、話題を探すように深く黙考し、間がもたなくなる瞬間も、私は苦手だった。
「夏美さん、今日はまだ時間、大丈夫なんですか?」
夏美さんはいつも、仕事中にお客さんとデパート最上階のレストラン街にあるカフェでお茶しているのだ。上司の目を盗んで、というわけではなく、決まった休憩時間を使って私に声を掛けて、お茶に誘っているのだという。
「大丈夫よ。今日は三時くらいまで非番なんだから」
夏美さんは答えながらウインクをしてみせた。
「夏美さん、今年で三十ですよね」
そう訊ねると、夏美さんは「まだ二十八!」と、怒ったように唇を尖らせた。
「そういえば今日は、お友達とか、お兄さんと一緒じゃないの?」
スプーンを動かす手を、思わず止めてしまっていた。
その瞬間私は思わず険しい表情を見せてしまったらしく、夏美さんは「ひょっとして喧嘩中?」と訊いてきた。ずばりだった。兄とはまさに喧嘩の最中だったのだ。
きっかけは些細なことだった。
私には、フランス人の友人がいる。二月の頭には一度フランスに帰り、春までには日本に戻ってくると言っていたのに、待っても待っても、ちっとも音沙汰がなかったのだ。
心配だ。どうしたんだろう。電話番号忘れちゃったのかな、と、お店の手伝いをしながらぼやいていたら、兄は特に心配した様子もなく、「あの子が連絡するって言ったんだ。大人しく待っていなさい」と言ってのけた。
いや、まあ。兄の言い分は正しい。
私がどんなにやきもきして、連絡を待ち遠しく思っても、こればかりはどうにもならない。
そんなことは分かっている。あの子を信じて待つのも、友人の務めだとも。
けれど「そんなことより手止まってるぞ。掃除終わらないと、店開けないだろう」と、「そんなこと」呼ばわりしたのだ。
私はカチンときて、そのまま口喧嘩に発展。今に至る。
確かに、お店の手伝いが手につかなかった私にも非はある。
けれど、あの言いようはないだろう。
こればかりは譲れない。兄のほうが悪い。本当ならお土産の一つや二つ買って帰るところだろうけどそんな気にすらなれない。
「相変わらず仲がいいのねぇ」
夏美さんは私の愚痴を聞きながらそんなことを言った。一体何を聞いていたのだろう。すこぶる心外だ。
夏美さんが口に含んだアールグレイの香りが私の鼻腔をくすぐる。私が吐き出すものといえば呆れ気味のため息ばかりで、いたずらっぽく笑う夏美さんを見ていると、兄とのあいだにあったいざこざなんかどうでもよくなってくる気がした。
私はカップの底にわずかに残ったフレークを口に運んだ。フレークは溶けたチョコレートにまみれていてとても甘かった。どうせ夏美さんの奢りなのだ。食後の紅茶に同じものを頼んでおけばよかったと、今更に思った。
§
泣き続ける私が連れて行かれたのは、もちろんカフェなんかではなくインフォメーションセンターだった。
私は泣き止む兆しをまったく見せず、名前や家を聞かれても答えられなかった。「お母さんは?」と訊ねた夏美さんに、いなくなっちゃった、と、私はかろうじて答えることができたらしい。その後店内に私の特徴と迷子になっている旨を伝えるアナウンスが流された。だけど、迎えは一向に現れなかった。
お母さんはいなくなってしまった。それは確かに事実だったけど、このデパートでの出来事ではなかった。
私の母は、病院のベッドの上で、静かにいなくなってしまったのだ。いなくなってしまった母はいつも一緒に買い物に行っていたデパートにいるのではないだろうか。そう考えた私が母の葬式を抜け出してこのデパートにやってきたのは、幼心に死というものを理解しきれていなかったからだろう。
―――いいや、違う。理解なんてしたくない。だからこそ、すがるような気持ちで母を捜そうとしたのだ。
あるいは、私は迷子の名人だった。
一緒に買い物に来た時だって、高確率でおもちゃ売り場にふらふらと向かい、家の狭い部屋には置けないほど大きなぬいぐるみと戯れているうちに母とはぐれるのだった。気が済むまで遊んだあとふと我に返るとそこに母の姿はなくて、焦りと不安からしゃくりあげながらあたりを捜し歩き、結局見つからず途方に暮れて泣き出す。そんな時に母は鬼のような形相で私に駆け寄ってきて、私を抱きしめながら叱るのだった。
私が迷子の名人ならば、母は迷子になった私を探し出す名人だった。だから、私が迷子になれば、必ずいなくなった母はどこからともなく現れて、私を見付けて叱ってくれる。そう信じていたのかもしれない。そんな理由でデパートまで一人で歩いてきたのだ。今思うと、相当無茶をしたものだ。
ひとしきり泣いた私はようやく落ち着いたのか、自分の名前を口にすることができた。
「椎子ちゃん、ね。安心してね、椎子ちゃん。すぐに、お母さんが来てくれるから」
私の頭を撫でながら夏美さんが言った。その時すでに最初の放送を流してから一時間が過ぎていたらしい。これで母親は来てくれるだろう。そう安心して新たに放送を流したけど、アナウンスを聞いてやってきたのは、私の母でも父でもなく、近所のおばさんだった。
彼女から私の母はすでに亡く、今日がその葬式だと知った係員は、すぐに会場に電話をして私の父と連絡をとった。向こうでも突然いなくなった私を探して大騒ぎだったようで、父は電話越しで興奮気味に喋っていた。私の無事を知るや否や、魂が抜け落ちたかと思うほどの安堵の息を吐いたらしい。
父がデパートまで迎えに来るまでの間、少しだけ時間があった。弾力に乏しい安物のソファに腰掛けてそれを待っていた私は、何を思いついたのか、唐突に言った。
屋上に行きたい、と。
通夜の席で、お母さんはどこに行っちゃったの? と私は兄に訊ねた。母は今棺の中で静かに眠っている。だけど私には、そこに母がいるとはどうしても思えなかったのだ。
兄は少しどもったあと、「母さんは空に行ったんだ」と答えた。年の離れた兄の赤い目は泳いでいた。すぐにそれが嘘だと分かった。けど私は漠然と、母は空と同じくらい遠く高い場所に行ってしまい、もうここにはいないのだと知ったのだった。
母さんは空に行ったんだ。
兄の言葉を思い出した私は、無性に空が見たくなった。そこには天使のような翼を生やした母がいて、私が布団に入る時と同じように静かに微笑んでいてくれているのだと思った。
周りの人がおとなしく待っていましょうねと言う中、夏美さんだけが私の意見に賛同してくれて、全責任を持って私を屋上まで連れていく運びになった。
「上へまいりまぁす」
インフォメーションセンターのある二階から、貸し切りで動き出す従業員用エレベーター。
「四階、婦人服売り場でございます。まだちょっと早いかしら? 五階、紳士服、紳士雑貨。お父さんにお土産でも買っておく? ネクタイなんかがお勧めよ」
私の手を繋ぎながら私専用のアナウンスを続ける夏美さんの微笑を、私はただ見上げ続けていた。幼心に思ったことといえば、夏美さんは笑うのが苦手なのだろうか、ということくらいだった。私に向けられる笑みはどこかぎこちなかった。笑うのが苦手な彼女が必死に笑みを作りながら私に語り掛けてくれたのは、少しでも私の悲しみや不安が紛れるように、そして安心できるように努めてくれていたのだと気付いたのは、ずっとあとになってからの話だ。
「七階。こども服、スポーツウェア、おもちゃ売り場でございます。……よくここで迷子になってたわね、確か」
驚いたようにはっとなった私に、夏美さんはいたずらっぽく笑った。この笑みだけは得意なようで、私は意固地になって迷子になんかなっていないと反抗し続けた。
「いつもあなたが迷子になっているところを見付けるんだけど、私が声をかける前にお母さんがやって来るの。本当、素敵なお母さんね。羨ましいくらいに……」
エレベーターは、最上階のレストラン街に到着した。ここから先へはエレベーターは通じていない。通路沿いに歩いていって、階段から屋上に向かう必要がある。ここでの屋上は、連休に小さなイベントが行われている会場になっている。イベント用に使われるだけのその場所は平日のこの日、立ち入り禁止の張り紙と鍵が掛けられていた。
「見付けてくれるわ。きっと」
明かりが少ない階段を一段一段上っていく途中、呟くように言ったのは夏美さんだった。
「いつも、見付けてくれるものね。例え空の上からだって、きっと椎子ちゃんのこと見付けてくれるわ」
鍵をドアノブに通して、静かにそれを回した。
「屋上。お母さんのところでございます―――」
開く扉からこぼれる明かりに私は目を細めた。
§
その後どうなったかというと、当然のように死んだ人の笑顔が空に浮いているはずもなく、雲ひとつない青空がどこまでも続いていた――なんて美談とは程遠い、今にも小雨がぱらつきそうな曇り空が待っていただけだった。
何かがあるはずと素直に期待していた私は、しばらく空を見上げたあと肩を落とし、うそつき、と誰にともなく呟いたらしい。
果たして私に嘘をついたのは夏美さんか、兄か、それとも私自身だったのか。屋上までわざわざ迎えに来た父に叱られながら、私は静かに泣いた。父が職員の人たちに頭を下げているその時も、ずっと隣で泣いていた。覚えている限り、声を押し殺して泣いたのはこれが初めてのはずだ。
何年かして、私が兄と二人で買い物に来た時のことだった。
「こんにちは。迷子かしら?」
夏美さんは同じデパートで働いていて、エレベーターで顔を合わせるなりそう訊いてきたのだった。その時から私と夏美さんの不思議な付き合いが始まった。
§
「さあて。このあとどうするの?」
カフェを出たあと、私と一緒にあらかた店内を見て回った夏美さんは、二階のインフォメーションセンター近くまで来るなり訊ねてきた。このまま仕事に戻るのだろうか。尋ねると、このあとはデスクワークが待っているらしい。
私の両手には紙袋やビニール袋。さすがに今晩の夕飯の材料まで買ったのは張り切りすぎだと反省する。ランチタイムも終わってそろそろ兄の手が空く頃だ。迎えを頼もうと思い立ったけど、すぐに喧嘩中だったという事実を思い出して途方に暮れた。仕方がないのでバスで帰ろうと胸中で考えながら、私は帰る旨を伝える。
「そう」
答えた私に夏美さんは小さく微笑み返した。いつもの笑みだ。他のお客さんの前ではあんなにもあからさまな営業スマイルを振りまいているというのに、私の前ではそれとは程遠い、どこか気後れを思わせるぎこちない微笑を浮かべる。それが夏美さんの地の笑顔だとずっと思っていたけど、そんな不器用な笑顔を浮かべるのは私相手の時だけだと気付いたのはつい最近のことだ。
それに気付いた時、夏美さんは無理をして私に付き合っているのではないかと思った。しかし出し抜けで調子外れな台詞で声を掛けてくるのはいつも夏美さんの方だ。
私はそんな夏美さんを好きにはなれない。けど、嫌いというわけでもない。一緒にこのデパートで過ごす時間は楽しいし、私のことをよくからかうけど、普段はとても優しくしてくれる。私はそんな夏美さんを歳の離れた友達か姉のように思っているけど、夏美さんはどう思っているのだろう。なぜ夏美さんは、このデパートで顔を合わせるたびに執拗なまでに私に声を掛けて、私をお茶や買い物に誘うのだろう。
私には分からない。私達の関係は時々、まるで当てのない迷路を手探りで何かを模索しながら進んでいくようなもののように思える。夏美さんは一体何を見付けたいのだろう。そして私は何を見付けたいのだろう。今は分からなくても、いつかそれが何なのか分かる日が来るのだろうか。
「じゃあね。椎子ちゃん。またのご来店を、お待ちしておりまあす」
夏美さんとの時間は、こうして終わりを迎えた。
インフォメーションセンターのカウンターの奥に見える扉に消えて行く夏美さんを「さようなら、今日はありがとうございました」と月並みの台詞で見送った私は、言いようのない虚脱感に襲われた。
そして、気付く。
たぶん私は、夏美さんと居ることで自分に足りない何かを補っているのだ。それが何なのかは夏美さんだけが知っている。そして、夏美さんはまるで贖罪のようにそれを私に提供し続けている。もしかすると、夏美さんも私を相手に自分に足りない何かを補っているのかもしれない。
それが何なのか私が気付く時は、きっと私が夏美さんから離れる時なんだろうなと、漠然と思った。それまでの間、私は夏美さんのあの不器用な微笑と付き合っていくことになるのだろう。
ただ、夏美さんが時折見せるその表情は、写真の中で見た、駄々を捏ねる私に苦笑を浮かべながらも微笑み掛けていた母のものに似ていると、何となく思った。
ふと、帰る前にもう一度あの屋上から空を仰いでみようと思い立った。
今日は、晴れているだろうか。
あの日見上げた空の向こう、その先に見える何かがあるだろうか。
そこまで考えて、私は思わず自嘲する。この大荷物を抱えて今更屋上まで行こうとするその発想がおかしくてたまらなかったし、この歳になってまでそんなありもしない奇跡を期待している自分が滑稽でならない。
吐息を吐き出すと、苦笑と共にその期待が零れた気がした。もったいないと思った途端、私の口元に笑みが浮かんだ。それは、いつも夏美さんが浮かべているあの笑みと非常に似ている気がした。
私は一人、エレベーターに乗り込んだ。
終わり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
足りない何かを補い合う二人のぎこちない付き合いが、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「あの日見上げた空に」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2005梅雨号
(※Web掲載にあたり加筆修正)




