月に吼えよ青春の剣
あ、負ける。
そう思った次の瞬間には、相手の竹刀が橋本の面を捉えていた。
ぱあん、と、甲高い音が響き渡る。誰もが息を飲んだ瞬間だった。
「あ……赤一本っ」
遅れて、審判が手を突き出すように掲げた。
選手たちに温かい拍手が送られる中、僕は試合に負けた友人の背中を、じっと見つめていた。
§
「現代に甦った宮本武蔵、絶不調だね」
「……そんなこともある」
僕の先を歩く橋本は、無愛想に答えながら歩調を速めた。ずんずんと、僕を置いて突き進んでいく。僕は慌てて追うようなことはせず、そんな橋本の背中を見ていた。
夕暮れの商店街だった。
特に活気に満ちているわけでもなく、廃れているわけでもないこの街は、今日も値切りに精を出すおばさんたちで賑わっている。橋本の背中は、八百屋と肉屋に挟まれたおばさんフィールドを、その長身に似合わずするりと潜り抜けて人ごみに消えていく。僕がその場を切り抜けると、橋本は足を止め、電柱を見上げていた。
「……なぁ、仲村」
「ん?」
「その、だな……。……名瀬とは、正直どうなんだ」
「え? 美雪と?」
落ち着きのないそぶりでしどろもどろになっている橋本。
「付き合って、いるんだろう」
「ああ、そういうこと」
ようやく僕は、橋本の質問の意図が分かった。
「珍しいね。橋本がそんな話題を振るなんて」
「……むぅ」
少しばかりからかうと、橋本はしかめっ面を作りながら、ふいとそっぽを向いてしまった。
橋本は色恋沙汰に興味がないのでは? と、よく周囲の人間から言われる。
橋本は小さな頃から剣道一筋で、県大会優勝はお手の物、全国大会でも好成績を残している。長身で、無駄な肉なんてない錬成された体躯。歳に合わず精悍な、渋さの漂う顔立ちからか、大学内外問わず結構女の子のファンがいたりする。けど、橋本はそんな黄色い声援に興味を傾けず、いつも精進に打ち込んでいたのだ。
「ひょっとして橋本……」
「い、いいから答えろっ」
「はいはい。……まあ、どうと言われても答えに困るけど。普通の、男と女の付き合いしてると思うけど?」
「―――そうか」
橋本は、表情こそ平然を装っているけど、やはりどうにも落ち着きがないように見える。深読みをすれば、焦燥に駆られているような横顔だ。同じゼミの仲間内で「レポートやってきた?」「確か提出今日だったよな」という会話が交わされているその横で、しまった、どうしようと焦っている時の雰囲気に似ている。
「それで、相手は誰?」
「な、何を藪から棒に……」
虚を突かれたように慌てふためく橋本。普段から笑うことが少なく、独り孤高に立っているような橋本だけど、その実本当に分かりやすい人間だ。
「恋煩い、でしょ。最近調子が悪いのって」
「何を根拠に、そんなコトを」
「来週、また試合があるんだよね。今度は団体戦。すっきりさせておかないと、また負けるかもしれないよ」
「―――馬鹿馬鹿しい。恋煩いなんかしていないし、次の相手は弱小大学だ。負けるはずもない!」
再びずんずんと猛進していく橋本。僕はやはり慌てず、ゆっくりとその後を追った。
橋本は女の子や恋に興味がないわけではない。
人が考える以上に、初心なだけなのだ。
「……これから、時間いいか」
橋本は角を曲がった交差点で僕を待っていた。
「喫茶店行く? いいお店、知ってるんだけど」
「いいや、歩きながらでいい」
早い話が、一目惚れらしい。
相手は、先月の終わり頃、橋本のバイト先である洋菓子店に現れた作業服姿の女性。百七十ほどの長身。赤毛の髪とふたえまぶたのつり目が特徴だと言う。言動は橋本のようにぶっきらぼうだが、はるかに落ち着いた雰囲気を持っていたらしく、おそらく自分より年上だろうと橋本は話を締めくくった。
「で、その人とはそれっきり?」
「……いいや。次の日にまた会った」
「どこで」
橋本は僕の頭上を指差した。つられて、見上げる。そこには電柱があった。
「この上で修理か何かをしていてな」
電気工の仕事にでも就いているのだろうか。橋本は僕と目を合わせようとせず、気恥ずかしそうに言葉を続けた。
「……声を掛けられた」
それは、橋本にとって喜ばしいことではないだろうか。声を掛けられた、ということは、相手は橋本に好意を抱いているのかもしれない。希望も見えてくるというものだ。
「なんて?」
「『武蔵君、カステラ美味かったぞ』って」
「武蔵君?」
橋本の名前は裕範だ。
「人違い……にしては、おかしいな。カステラってことは、その人、お店でカステラを買っていったの?」
「ああ。中途半端に残りそうだったから、一つ余分に包んだんだ。おそらく、その礼だと思う」
「それで、橋本は何て答えた?」
橋本は、すぐには答えなかった。俯いたり、かぶりを振ったりを繰り返している。
「―――橋本?」
もう一度声を掛けると、消え入りそうな声で、言った。
「今後とも、当店をご贔屓に……って」
……それは。まあ、なんともはや。
「もっと気の利いた台詞は浮かばなかったのかなぁ」
「………うがああああ」
頭を抱えて苦悩する橋本の気持ちも、分からなくはない。だけどこの調子では、恋の成就なんてまだまだ先だなと思わずにはいられなかった。
「だが、あれだ。一目見て、多少気に掛かっただけだ。煩うほど熱をあげているわけではない。試合に負けたのだって、あれは時の運だ。次は勝てる」
「そうか。……まあ、頑張ってよ。来週の試合も」
「頑張るほどの相手でもない。瞬殺だな。あっはっはっは」
明らかに空元気だった。
§
試合は、劣勢を極めていた。
橋本のスランプが、部員全体に響いているようだ。
確実に勝てると言われていた相手を前に苦戦の連続。まず電光石火のごとく先鋒と次鋒が二本取られて負けた。中堅が相手の先鋒を倒すも、次の次鋒に負ける始末。
今回の練習試合での方式である勝ち抜き戦が仇となって、結局大将である橋本は、中堅、副将、大将との三連戦に臨むことになった。
開始線に立つ橋本の背中は、とても小さく見えた。逆に、相手側の小柄な中堅が大きく見える。果たして、あの場所に立っている橋本の目には、どう映っているのだろうか。
これは負けるな……と。
僕は、「始め」がかかる前から諦めてしまっていた。
「―――負けているのか」
すぐ隣から声がして、僕は橋本の背中から視線を移した。そこには、一人の女性が立っていた。
歳は僕よりもいくらか上だろう。目を引く赤毛に、そして鷹のようなつり目。作業服は着ていなかったが、橋本の言っていた女性の特徴、そのものだった。
「あの、ぶしつけですみません。……彼のこと、知っているんですか?」
僕が尋ねた直後、炸裂音。慌てて振り向いたけれど、どうなった……? 一本取られたのかと思ったけれど、審判は動かない。竹刀で弾いたようだ。
「ああ。今試合中の彼なら知っている。カステラを一つおまけしてもらったことがあってな」
喋りながらも、橋本から視線は外さなかった。食い入るように、橋本の試合に集中している。
「……しかし、同じ大学だったとは思わなかった」
「そうなんですか?」
「ああ。と言っても、私は大学院だ。考古学を専攻している。まあ、最近は研究室にも行かず、バイトに明け暮れているが」
なるほど、同じ大学の院生だったのか。
それなら、色々と腑に落ちる。
先輩も、心のどこかで橋本を気に掛けていたのだ。そうでもなければ、一度や二度会っただけの人間を、面の上から判断できるはずがない。
彼女は橋本がここの学生であり、有名な剣道部の主将、『現代に甦った宮本武蔵』であり、今日ここで試合が行われることを知っていて見に来たのだという確信が、僕の内にあった。
「ファンなんですね」
「そんなミーハーなものではないさ。武道が好きでね。それに打ち込む者も好きだ」
「それじゃあ、彼の名前も当然知らない?」
「うむ。知らんな。教えてはくれないか?」
「橋本。橋本武蔵です」
「裕範、だろう? 年上をからかうものじゃない」
苦笑いを浮かべたあと、先輩はどこか嬉しそうに微笑みながら、橋本の戦いを見守っていた。
橋本が聞いたら、どんな顔をするだろう。
今すぐにでも、声を大にして言いたい。
この人が、試合を見ているよ、と。
試合に視点を移すと、橋本は防戦一方だった。けど、見ていると相手はチャンスとばかりに執拗な攻めにでている。冷静に対処すれば、決定打にはならずに打ち返すことができるはず――。
橋本はそれに気付いたのか、相手が面打ちのために上段に構えたその刹那を狙って、
「胴有り! 白、一本!」
とてつもない瞬発力をもって、胴を射抜いた。
館内が大きな拍手に包まれた。ここは仮にもうちの大学の武道館だ。互いの健闘を称える拍手であっても、相手にしてみれば完全なアウェイ。会場の空気は橋本の味方だ。橋本の動きから焦りは消えはじめていた。
「―――まずいのではないか?」
「え?」
僕は咄嗟に振り向いた。すると彼女は思案げに、顎に手を添えて唸っていた。
「時間だ。大将戦の延長ルールというものがある。副将と大将戦は、引き分けがなく勝敗が決まるまで何度でも三分一セットの延長戦を繰り返すのだ。向こうも時間いっぱい使ってスタミナを削る戦法に移ったようだな。これ以上、無駄な体力は浪費できないぞ」
「詳しいんですね」
「そうでもない。昔かじったことがある程度だ」
言葉は続かない。僕と名前も知らない先輩は、固唾を飲んで試合の行方を見ていた。
そして、三分を区切りとした、勝敗が着くまで続く延長戦にもつれ込んだ。
中央の開始線に戻り、主審の声を待つ二人。遠くからでは分かりづらいけど、確かに橋本の息は上がっていた。
「―――応援はしないんですか?」
「声を出しての応援はご法度だぞ? 彼の友人なら、そのくらい知っているだろう」
「拍手で称えるのは大丈夫ですよね?」
「それは、うむ、その通りだが……。しかし、私なんかの応援で彼は勝てるものなのか?」
「先輩でないと、駄目なんです」
「―――そうか」
先輩は、小さく表情を綻ばせた。
「嫌な気はしないものだな。そう言われると」
まんざらではない様子だった。
「――やめッ!」
主審の掛け声。
三分の延長戦はあっという間に終わり、両選手が開始線に戻ってくる。
両者構えたところで、間髪入れず主審の「初め!」の宣言が響き渡る。
再三の仕切り直しと、再開の宣言。橋本の足取りは重い。脚に鉛でもつけているようだった。
「チャンスは次、か……」
「チャンスとは?」
「私が彼の、勝利の女神になるチャンスだよ」
不敵に笑う先輩。
何か悪いことを考えているような、悪戯を決行する前の少年めいた笑みを携えたまま試合を見守っている。
チャンス……何かを待っている?
それはおそらく、次のタイムアップの宣言だ。
それまで守りを固めていた相手の副将が攻めに転じている。
足取りは重く、辛うじて凌ぐので手いっぱいの橋本。いつ有効打が刺さるかわからない。
しかし先輩はそんな心配はまったくしていないようで、まるでこの延長戦も時間いっぱい使って終わると確信しているようだった。
「やめッ! 時間!」
そして主審は宣言する。
「休憩!」
選手が選手席に戻り、わずか三分の休憩が許される。
面を外した橋本は汗だくで俯いていた。
スポーツドリンクを手渡されて、浴びるように飲む。
言葉での激励や助言はない。静かに主将の健闘を称えて、次の戦場に送り出すのみだ。
観客席からの選手の健闘を称える拍手もまばらになる。
勝敗が決まった時のために取っておく、というわけでもないだろうけれど、これだけの延長を重ねると毎回盛大な拍手、というわけにもいかなくなるものだ。
―――彼女は。
休憩時間で橋本が選手席に戻り、拍手がまばらになるこの瞬間を、待っていた。
ぱん、ぱん、ぱん――と。
静かに。しかしはっきりとした拍手の音が、武道館に響く。
選手は誰もが顔を上げる。
審判も確認のために視線を向ける。
そして、すべての観客も、同時に。
鷹目の先輩は、この場すべての衆目に晒されながらも、堂々と、なんら羞恥を覚えるようなそぶりを見せずに応援席の一番下までの階段を、拍手をしながらゆっくりと歩いて降りた。
橋本の目が見開かれた。
目と目が、確かに通じた。
――――勝て。橋本裕範。
先輩の目がそう激励する。
静かな拍手が、橋本の鼓動を加速させる――!
橋本の瞳に、かつてないほどの、閃光のような輝きが灯った!
―――ぱあん、と。
館内を、快音が切り裂いた。
「面有り、一本! 勝負有り! 勝者、赤――」
――橋本は負けた。
先輩の声援を受け取った橋本の動きは、凄かった。
打ち込みの発声はほぼ雄たけび。勢いと若き情動だけを込めたような荒い太刀筋は、はたから見ても剣道というよりは子供のチャンバラじみた動きでしかなく。
こう、少年漫画でよくある、必殺技を叫びながら刀を振り回す剣士のような出鱈目さ、大雑把さだけが際立っていた。
当然、そんな隙だらけな橋本の動きを、敵は見逃さなかった。
静まり返った、館内。
先輩は、ゆっくりと振り返って、言った。
「……これはひょっとすると、私のせいなのだろうか」
今の僕にできることといえば、乾いた笑みを浮かべることだけだった。
§
その晩。
傷心しているだろう橋本を誘って飲みに行く。
橋本は「俺の馬鹿野郎……! 俺の、未熟者めがぁ……!」と、自分を責めながら散々飲んだ挙句、月に向かって叫び続けていた。
終わり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
不器用な青年が七転八倒しながら歩む姿が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼らの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「吠えよ剣」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2005新入生歓迎号
(※Web掲載にあたり加筆修正)




