時雨
「あめって、どうやって生まれるのかなあ」
授業が終わると同時に、藤原は心底不思議そうな顔で小首を傾げながら言った。
「飴? 砂糖を固めて、じゃなかったか?」
お菓子作りでもはじめたのだろうか?
まあ、普段からソーイングセットを持ち歩いている藤原のことだ。別に不思議なことじゃない。
「違うよ。雨だよ、雨。ほら、空から降ってくる――」
「飴が空から? 痛そうだな、おい」
とりあえずお約束のボケを入れてみる。藤原は「祐介君は冗談が上手いね」と素で返してきた。
俺は不貞腐れながら視線をそらす。第一、そんなメルヘンがかった質問をされても返答に困るのだ。蒸発した水がはるか上空で冷えて液化して降ってくる……なんて答えを期待していないのは明らかだ。
「……次の授業、何だっけか?」
強引に話題を変えてみることにした。こいつとは小学校以来の付き合いだけど、今の藤原との会話に本気で付き合うと疲れるだけだと最近になって気付いたばかりだった。
「物理みたい」
俺好みでない、退屈な授業だ。
「じゃあ、俺寝るわ。昼休みになったら起こしてくれ」
「もう。授業、ちゃんと聞かなきゃだめだよ?」
藤原はふくれっ面になりながら、しばらく小さな手のひらでぺちぺちと俺の頭をはたいていたけれど、やがて諦めたのか居住まいを正して小さな身体を黒板に向けた。……真面目な奴だ。卒業も間近で、もう必死になって授業を受けなくてもいいっていうのに律儀に聞こうとしている。一体何が楽しいのやら。考えて、やめた。昨夜は夜遅くまでバイトだったのだ。眠くて仕方がない。
机にうつ伏せになる。すぐに意識がまどろんだ。
「……ねえ。祐介君。雨って、何だと思う?」
夢うつつに聞こえる声。
「私ね、神様の涙なんじゃないかなって、そう思うの。いろいろなところで起こってる悲しいこと全部見てるから、うん、きっと悲しいことがあると涙を流すんだよ。それが雨。いい線いってると思わない?」
いろいろなところで起こっている悲しいこと。
そんなものにいちいち涙を流してたんじゃ、世界は毎日雨続きだっつうの。
§
欠伸をすると昼休みだった。俺の居眠りを今更指摘する教師はいない。惰眠をむさぼれるだけむさぼった俺は、まず隣の席に目をやった。
「ひょっとしたら、神様じゃなくて人が流した涙かもしれないね」
藤原は依然として俺の隣の席で雨のことを考えていた。
「悲しみに暮れた人間が流した涙がカタチを変えたもの。たくさん降るってことは、それだけ、世界は悲しみで満ちているってことなのかも」
変なポエムは止めてくれ。
「……一体、何が言いたいんだ? お前は」
「えっとね、うーんと……分からない」
分からないと言いながらも、しかし、その仕草はどこか拗ねているようにも見えた。
「ただ、ね」
「ただ?」
「雨、降らないねって、そう思っただけ」
藤原の視線の先。つられるように、俺も目をやった。
窓の外。澄むように晴れた、初冬の空。雲は少なく空は高い。雨が降る気配なんて、微塵もなかった。
「どこ行くの?」
席を立った俺に訊ねる。それくらい分かるだろ。そう思ったけど、そいつは本当に分かっていないような顔できょとんとしていた。
「……購買。昼だし。何か食わにゃ、夜まで持たないんだ。お前と違ってな」
「私は小食だから。昼を抜いても平気だよ?」
はにかみながら、藤原は俺の後をついてきた。
購買でカレーパンと安いバターロールを2つ買う。コーヒー牛乳も忘れない。
購買のおばちゃんに500円玉を手渡し、おつりを受け取って、俺は列から離れた。俺の後ろに並んでいた藤原も俺に続くように列から離れる。パンを買わずに。
「嫌味だよな」
「何が?」
「買わないのに並ぶのって。教室で待ってろっての」
言ってはみたが、教室に戻るのは億劫だった。
中庭に足を向ける。こいつはこいつで昼を食べないというのに俺の後に続いて、結局中庭のベンチに二人並んで座ることになった。
パンを齧りながら、ふと考える。
こうして特に大事な用もないのに俺に付きまとうのも、一つの嫌味なのかもしれない。
十分も掛からずに昼食を終え、俺は一つ息を吐いた。
……昼はサボろう。気分が乗らない。
俺はパンのビニールと紙パックをそのままに、人目につく中庭を後にした。
§
「今日、お前んち寄るから」
放課後。俺は思い切ってそう話を切り出していた。
「珍しいね? ここ半年くらいぜんぜん来なかったのに」
「……何となく、な」
曖昧に答える。正直、自分でもよく分からない。
けれど、これだけは言える気がした。……いつまでもこのままでいるわけにはいかない、と。
「わ、祐介君がおうち来るんだ。どきどきする」
小さい身体を縮こまらせてもじもじしている藤原。心なしか頬が赤い。こいつは何を期待しているのだろう。藤原の家に近づくたびに動悸が激しくなり、息が詰まるような苦しさと緊張感を覚えるのは俺だけでいいっていうのに。
――住宅街にある、ごく普通の一軒家だった。
主が不精なのか、外から覗いた庭はほとんど手入れされていなかった。雑草が我が物顔で占拠している。
「あーあ。もう、お母さんってば。ちゃんと手入れしといてって言っといたのに」
苦笑しながら藤原は不満を垂れている。俺は気にせず、門のインターホンを鳴らした。
しばらくして。
「はぁい」
半年ぶりに見る、藤原の母親が顔を見せた。
「あら、祐介君。久しぶり。……挨拶に来てくれたの?」
少しばかりの愁いを帯びた表情。以前見たときよりも、ずいぶんやつれていた。……何か、癪だ。
「ええ、まあ。……いつまでも、放っておくわけにはいかないっすから」
「そうね。きっと瑞希も喜ぶわ」
そうして、俺は居間に通された。藤原も続く。居間の襖を開くと―――真新しい仏壇が正面に構えていた。
俺は、藤原の母親に目をやった。汲み取ってくれたのか、部屋から出て行ってくれる。
こうして俺は、藤原と二人きりで、仏壇に向き合った。
「……こうして手を合わせに来るのって、初めてだったよな。確か」
藤原は、照れ臭そうにはにかんだ。
――そう。
仏壇に飾られている遺影、そのままの笑みで。
俺の幼馴染、藤原瑞希が事故で死んで、そして幽霊として俺の前に現れてから半年が過ぎていた。
§
「……で、お前は何で成仏しないんだ?」
報告することなんて特にない黙祷を終えてから、俺は藤原に訊ねた。
「雨が降らないからだよ」
俺は思わず溜息を吐く。
幽霊といっても、藤原は言ってみれば残留思念のようなものだ。日々日常を繰り返すだけの、壊れたテープレコーダーのような存在。藤原が生きていた時代の残滓。もしかすると、俺の妄想が生み出しただけの存在かもしれない。
「雨って、どうやって生まれるのかなあ」
同じようなことを繰り返し、繰り返し話し続けるだけ。何度訊いても同じ答え。そして、耳にタコが出来るほど聞き続けたフレーズ。藤原の残骸。あるいは、俺の曖昧な記憶がそれだけしか再現できなかったような不完全な存在。それが俺を苛立たせる。藤原はそれだけじゃない。もっともっと、多くのことを話していたはずだ。……なのに、その多くのことの具体的な内容が思い出せず、俺は胸が苦しくなる。居たたまれない。藤原をこんなにしてしまったのは俺のせいではないかという罪悪感が、俺の胸を締め付ける。
「雨が降らないから、だって? 何言ってんだよ。先々週降っただろ。それに、今年の夏だって。台風や、夕立でけっこう雨降ってたはずだ」
それを結局、俺は毒づくことでしか吐き出す方法を知らなかった。
藤原は困ったように唸った後、にへら、と笑った。
「えっとね。祐介君の雨が降らないから……」
それは。
今日、初めて聞く台詞だ。
この家を訪れて、藤原の仏壇に手を合わせた影響だろうか?
藤原の残滓に憑かれて半年。ようやく一歩前進したような気がした。
「俺の雨?」
「そう。祐介君の雨。祐介君が降らす雨。まだ、祐介君の分の雨が降ってないんだよ」
雨は。
悲しみに暮れた人間が流した涙がカタチを変えたもの。
幽霊になってからのこいつの口癖だった。
「祐介君は、私がいなくなっても、悲しくないの?」
そんなこと、本人に面と向かって言えることじゃない。
けど、もうウンザリしていた。……他人には見えない幽霊なんてものに付き纏われるのは。
「悲しむ前にお前が現れたんだ。泣く暇なんてねぇよ。本人の前で泣けるかってんだ。成仏したら泣いてやるよ」
「そうなんだ……」
俺の気も知らずに、藤原は嬉しそうにはにかんだ。
まあ、俺が泣いたところで、きっと降る雨はほんの僅かだろうけど。
「私ね。ひょっとしたら心配なのかもしれない」
「……何が?」
「祐介君が」
不意をつかれて、俺は思わず困惑した。
「えっとね。怒らないでね? 祐介君、私のほかに、友達、そんなにいないでしょ?」
そんなはずは、と、思いながら指折り数える。二本で事は足りた。こいつと、行きつけの喫茶店で働く後輩の女子。そいつの兄貴の喫茶店のマスターは、歳がかなり離れているので、友達とは言いづらいので除外した。
――二人しか、いなかった。
そのうち一人は今こんな感じで、もう一人は、藤原が死んでからは店から足が遠のき、学校でも一年生と受験を控える三年生。顔を合わせる機会はなかった。
「ほんとに、居なかったんだ……」
「……殴られたいのか? お前」
怒らないでって言ったのに……と、頭を押さえて縮こまる藤原。殴ってないし、殴ったこともない。ちょっと強い言葉を使ったり、そっけない態度を取るだけで、こいつはすぐに泣きそうになる。まるで俺がいじめているみたいじゃないか。そのくせこの臆病者の泣き虫は、そんな性格なくせにいつも俺にずけずけとものを言うのだ。
「それに、進学も就職も考えてないし。もう、卒業でしょ」
「知るか。んなもん、俺の勝手だ」
まったくもう、と、藤原は首を振った。
「覚えてる? 私達が出会った時の話」
「……忘れたよ、んなもん。十年以上昔の話だろ」
「雨の日、私、傘を忘れて昇降口で途方に暮れてた。そんな時、祐介君はこう言ったんだよ。……雨は、自分が今まで流してきた涙だって。泣き虫だったんだよね、祐介君は。祐介君も傘を忘れてた。そして、言ったんだ。……どうせ自分の涙なんだ。傘なんてささないで、思い切り走って、自分の涙で濡れて、おかしく思って、濡れた分だけ笑おうって。濡れた分の損だけ、笑おうって」
「……小2のガキが、んなこと言うか。捏造すんなよ」
「ほんとのことだもん……」
そんな昔のこと、荒れた庭にでも埋めたままにしておいてほしい。
「だから、私が言いたいのはね」
藤原は向き直って、
「祐介君は今、笑えてる?」
そんなもの、考えるまでもないのに。
「悲しいこと、その損した分だけ、笑えている?」
だから、泣きそうな顔でそんなことを言うんじゃない。
まるで、俺が泣かしてるみたいじゃないか。
事実は全くの逆だというのに。
お前のせいで、俺が、どれだけ……。
怠慢に。惰性のように過ごしていた。
お前が死んだ、あの日から。
無気力に、時間だけを浪費し続けていた。
お前が死んだことを信じたくなくて――。
葬式にも顔を出さないでいた。
そんな薄情者だ、俺は。
笑えているはずがない。
ただ、かつては「笑おう」なんて馬鹿を言っていた俺が、今では笑うことなんて何一つなくて。
それを指摘したのが、よりにもよって幽霊として化けて出たこいつで……。
泣き虫なくせに、自分のことよりも俺のことを気にするようなお人よしの藤原が、そんな俺を放って置くはずがなくて。
ずっとずっと、そばに居てくれて。
とても嬉しいことのはずなのに、素直に受け入れられず、悪態をついていた自分自身が。
涙を流していないのにずぶ濡れになっている今の俺が、ひどく滑稽で。
昔以上に、馬鹿のように思えて。
「――はは」
思わず、自嘲していた。
嘲笑いは次第に熱を帯びて。
――ああ、そうだ。
認めるよ、藤原。
お前の言うとおり、俺は泣いてない。
泣きたくなかった。
泣いたら雨が降る。
雨が降ったら空は晴れる。
そうしたらまた走り出さなきゃいけなくなる。
笑って、前を向いて。
――お前を置いて、俺一人だけで。
それが、無性に、とても、腹立たしくて、とてつもなく、嫌だったんだ。
認めたくなかったんだ。
お前が死んで、もう俺の隣にいないだなんて――。
「ははっ、あはは……っ」
それに気づいた瞬間、俺は笑っていた。
息が苦しくなるまで、俺は笑っていた。
何事かと、藤原の母親が居間に顔を出した。
俺は咳払いを一つして何でもない事を告げると、藤原に目をやった。
「――瑞希?」
そこに、藤原瑞希の姿は無かった。
§
ふと、思うことがある。
あの藤原は、本当に幽霊だったのだろうか?
通夜にも葬儀にも顔を出さず、幼馴染の前に一度も顔を見せなかった俺の自責の念や後ろめたさが見せた幻覚か妄想だったのではないだろうか?
どちらにしろ、どうでもいいことだ。
ただ、あいつに「友達いないでしょう」と言われたことだけはこたえた。コンチクショウ、幽霊だか幻覚だか知らないが好き勝手言いやがって。
癪だった俺は、とりあえず大学にだけは進学しておこうと心に決めた。候補は近所の私立大学だ。偏差値も高くなく低くなくのレベル。今から必死こけば俺でも行けるだろう。そこでなら新しい出会いなり何なりがあるはずだ。友達百人なんて馬鹿なことは言わないが、せいぜい、藤原が向こうで羨むくらいには学生生活をエンジョイしてやろう。
「祐介君。今日は、ありがとう」
藤原の母親に玄関まで見送られる。
「また、あの子に挨拶に来て下さいね」
頭を下げられて、俺はつられるように礼をした。
「あら、雨?」
晴れていた空はいつの間にか灰色。ぱらぱらと、小雨が降ってきた。
「傘、貸しましょうか?」
「いえ、いいっす」
俺は知っていた。
「この雨、きっとすぐに止みますから」
一つの時雨だ。
そして、一つの気紛れだ。
雨の中を、走って帰ろうなんて思ったのも。
俺は何も考えず、無心で雨の中を駆けた。
――初恋の少女の幽霊は、それから姿を見せない。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
大切なものを失った少年の一歩が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼らの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「時雨」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2004 初夏号 掲載
(※Web掲載にあたり大幅に加筆修正)




