あの日聴いたJe te veux
一人で、東京を訪ねた。
私の母はフランス人。父は日本人だ。
去年までずっと、家族三人、パリ郊外の小さな町で静かに暮らしていた。
パパは優しいけどものぐさで、困るとすぐ私の知らない言葉で唸る。
私も真似て、「くーそー」や、「てやーんでー」と呟くと、パパは困った顔ではにかんで顔を赤らめた。
ママは美しく、そして歌が上手かった。
休日の昼はピアノに合わせてよく歌っていた。
けどママは怒ると怖い。幼い私は、怒られるたび泣いてばかりいた。
泣いて謝ると、ママはいつも、そっと抱きしめてくれた。ママの頬は、とても温かかった。
今はもう、二人ともいない。
パパの親戚に引き取られて、日本で暮らすようになったのが今年の春のこと。
もともと、家族一緒にこの国で暮らすことになっていた。
その下準備として正月をパパの実家で過ごす予定だった私たちは、去年の十二月のはじめにこの街を訪れて――事故に遭った。
避けられない事故だった。
私は泣いた、と思う。思い出せないくらい泣いた。
預けられた施設を抜け出して事故の現場に行っては、失われたものを思って泣いた。
わんわん、わんわん泣き続けたはずだ。
気が付けばノエルも過ぎていた。そんなある日。
いつの間にか、私の隣に、その人がいた。
「ごめん……。僕、この場所にいたんだ。けど何もできなかった。助けること、できなかった。本当に、ごめん」
それはとても、酷い言葉だと思った。
パパのおかげで、その人が謝っているのだということが分かった。
私に謝っているのだ、この人は。自分の無力を嘆くように、私の横で、涙を流したのだ。
人間一人の力でどうにかできるような事故じゃなかった。
助かった人も、死んだ人も。平等に無力だったあの場所で、一体彼に、どんな非があると言うのだろう。
この人ががんばっていれば、パパもママも救われたとでも言うのだろうか。
そうだとしたら、酷い侮辱だ。私への、パパとママへの、そして、彼自身への。
私は怒鳴った。なじった。罵倒した。
思いの丈を、思いつくまま、支離滅裂に、何度も何度も、彼の知らない私の言葉で、叫んだ。ぶつけた。吐き出した。
そうしたあとで、私は泣いた。その人の腕の中で、泣きじゃくった。
その人はもう一度、ゴメンと謝った。
すぐに謝るそんなクセが、パパに似ていると思った。
抱きしめるその温もりが、ママに似ていると思った。
私はその日から泣くのを止めた。
泣いても時間は戻らないし、大声で叫んだら、それ以上吐き出す言葉や思いが無くなってしまっていた。
そして何より、どうしようもなく好きになってしまった人の前で、あまりみっともない姿を見せたくなかったのだ。
* * *
シブヤの駅は、人ごみでできていた。
休日のせいだろうか。それとも近くで、祭りがあるのだろうか。
ともかく、私は人ごみが苦手だった。暑いし、それに臭い。
大きな街に来るときは、いつも伯父――今は義父となった人と一緒だった。
人ごみを掻き分けてくれる大きな背中を見上げながら、楽々歩いていたのだ。それが今日は一人だ。
一人で出かけるのは、泣くのを止めたあの日以来だった。
気付くと、私の固く握られた手のひらは、汗で蒸れていた。
人の波にもまれながら、よたよたと歩き続ける。
改札を抜けても、私は床ばかり見ていた。足元に気を配らなければ、すぐに転んでしまいそうだった。
立ち止まって辺りを見渡す。けど、後ろから人がぶつかってくるので思うように見渡せない。
ようやく看板を見つけて、出口を探す。日本の看板案内はあまり当てにならない。
矢印の通りに進んでも、いつも迷うのだ、私は。
お日様をようやく拝めたのは、駅に着いてからずいぶん過ぎてからだった。
冬の澄んだ空気が少し肌寒い。
さわさわと音を立てる街路樹は、私の住む町と比べると、葉の落ち具合が遅かった。
肌寒いけど、温かい街なんだなと思った。
そんな駅前は、やはり人が多い。雑踏と喧騒も、その分だけ溢れていた。
これでは、誰かが私を呼んだとしても喧騒に紛れてしまう。
困った。今日は迎えを頼んでいるのに、人が多いと気付けないかもしれない。
それに、待ち合わせはハチコウの前だ。犬の銅像らしいけど、その場所も分からない。
案内板に書いてあるだろうか。目の届くようなところに、それらしいものはない。
ここから動くことも迂闊にできない。動いたら最後、この場所に戻って来られなくなる自信が、私にはある。
仕方ないので、人に訊くことにした。
男の人は、イヤ。何となく怖いから。女の人にすることにした。
「あの」
三人組の女の人たちだ。
私に声をかけられたことに驚いて、顔を見合わせている。
「ど、どうしましたー?」
「ちょっとちょっと、英語じゃないと分かんないんじゃないの?」
私の肌の色、髪の色。
彼女たちと違う私のそれに困惑しているのが、顔色から見て取れた。
「イヌの像、どこにありますか」
三人とも、目をぱちくりさせて驚いている。
私が声をかけたとき以上の驚き具合だった。
「アラ、日本語上手じゃない」
「えーっと、ハチ公前ならほら、ソコ」
どんなに遠くにあるのかと思って、彼女の指差す方を爪先立ちで眺めてみる。
目と鼻の先に、それはあった。
「……メルシー。アリガトウございました」
頬の熱を誤魔化すために、ぺこり、と、お辞儀をしてみせ、私は颯爽と、カッコよく、見栄を張るように像に向かった。
「メルシーってことは、あれよ、えーと、イタリアだっけ?」
「違うって、フランスよ、フ・ラ・ン・ス! それより、ブロンドヘア? 綺麗ねー」
「雪みたいに白い肌だったよねー」
「でもでも、すぐ日に焼けそー」
後ろのほうで、三人、かしましく騒いでいた。
どっと疲れが押し寄せてくる。やはり私は、大きな街が苦手だ。
ハチコウの前に来ても、待ち合わせの人は来ていなかった。
時計を見ると、待ち合わせの時間を五十分も過ぎていた。完全な遅刻だ。
ひょっとしたら、愛想をつかして帰ってしまったのかもしれない。
はぁと吐き出した吐息が、ほんの少しだけ白く濁って消えた。
じいっと、ハチコウと睨めっこをしてみる。
この犬の話は詳しく知らないけど、飼い主の人を、ずっと、ずっと待っていた犬なのだと聞いた覚えがある。
少しだけ、飼い主が羨ましい。待ってくれている人がいたのだから。
疎遠だったのだ、私とあの人は。
突然現れて唐突に謝ったあの人とは、その後しばらく会っていた。
彼のおかげで友達もできたし、デートのようなものにも何度か出かけた。
私が強がろうと必死だったのと同じように、彼も私を励まそうと必死だった。
けど、それっきりだった。
両親を亡くした私は、親族のいないフランスではなく日本で暮らすことになった。
伯父と共に一度フランスに戻り、色々な手続きを済ませて再び日本を訪れた私は、そのまま新しい生活に埋没していった。
それ以来、彼からの連絡は無い。
当然だった。フランスに戻る時の私の台詞は、「生活が落ち着いたら電話します」だったのだ。
新しい生活の忙しさを隠れ蓑にして連絡をしないでいた私に、連絡がくるはずなかったのだ。
私は怖かった。好きだという想いを伝えたとき、ゴメンと言われるのが怖かった。
私と彼との歳の差は十近くもあったし、彼にはガールフレンドもいた。
それなのに彼が私によくしてくれた理由は、ひとえにそれが彼の、独り善がりな贖罪の延長のようなものだったからではないのだろうか。
そんなことを考えているうちに、三ヶ月経ち、半年が過ぎ、気が付けばまた冬が来ていた。
私は、今日がその人の誕生日だということを覚えていた。
たぶん、一生のうちで一番勇気を出したのが昨日だ。十ヶ月ぶりの電話。
彼に声が震えているのをさとられるのが怖くて、よけい声が震えた。
それでも私は声を振り絞って、「久しぶりだね」と電話口に微笑んだ彼に、「明日、遊び行っていいですか」と訊いた。
私は遊びに来た。遊びに来たはずなのに、両方の肩は恐ろしいほどに重かった。
「クリスちゃん?」
今日何度目かのため息を吐き出したとき、不意に背後から声がした。
女の子の声。あの人じゃない。けど、私は反射的に振り返っていた。
女の子が立っていた。私と同い年くらいの、癖っ毛の女の子だった。
見覚えがあった。
「シーコ」
「あー、やっぱりクリスちゃんだー。久しぶりー。背、伸びたんじゃない?」
見覚えは正しかった。あの人の妹だ。
「時間になっても来ないから、迷子になってると思って探しちゃった」
迎えの人はあの人じゃなかった。
電話越しにあの人は、「駅まで迎えに行くよ」と言っていたのに、これはあんまりだと思う。
けど、シーコに会えて私は嬉しく感じていた。
シーコは、あの人に紹介されて最初にトモダチになってくれた人だ。たったひと月だけの友人。
それなのに、目の前の彼女は、まるで旧友に再会したときのように喜んでくれていた。
「迷子なんて、失礼です」
私は緩みそうになる涙腺を堪えるのに必死だった。
シーコは両手を合わせて「ごめんごめん」と苦笑いを浮かべたあと、私の手を取って言った。
「行こっか。みんな待ってるよ」
「あ……」
シーコは声を上げそうになった私に構わず、あの人にとてもよく似た笑みを浮かべて、そのまま歩き出した。
「あの、あの人は?」
「んー、お兄ちゃん? お兄ちゃんなら、クリスちゃんが来るからって家でお料理してるよ。すっごく豪華」
彼が、私が来るからといって準備をする。これでは、誰の誕生日か分からない。
けれど、私が惹かれたワケがあるとするならば、きっと、彼のそんなところにあるのだろう。
「やっぱし気になる? お兄ちゃんのこと」
私は、かろうじて頷くことができた。会いたい。気持ちははやるばかりだった。
けど、心の片隅に、確かに躊躇いもあったのだ。
「……お兄ちゃんね、昨日、クリスちゃんから電話あったあと、すごく嬉しそうだった。お兄ちゃん、普段何も言わないけど心配してたんだよ、クリスちゃんのこと」
「心配……」
「連絡、全然無かったから。元気かどうか、私も心配だったんだよ」
「……ゴメンなさい」
二人への申し訳なさでいっぱいだった。
何で私はもっと早く電話をしなかったのだろう。
……いいや、それも分かっている。二人に申し訳なくて、電話をかけ難かった。申し訳なさが怖かったのだ。
「――少し、急ごっか」
俯き気味だった私の顔を見ながらシーコが言った。
「え?」
声を上げるよりも早く、シーコは私の手をぐいと引っ張り、駆け出していた。
息が弾んだ。
足は何度ももつれそうになったけど、その分景色はどんどん流れていく。
ドーゲンザカを越えて、横道を抜けて、人を避けて、看板をかわし、コンビニを横切れば、すぐにその場所は見えてくるはずだ。
――古時計――
彼が経営する、シブヤの街の片隅に、ぽつんと忘れられたように佇む小さな喫茶店。
今日はお店を閉めて、知り合いだけの、小さなパーティーが開かれる。
「ねー、クリスちゃん」
先を行くシーコが、振り返って私を見た。
「クリスちゃん、私に教えてくれたよね。お兄ちゃんのことが好きだって。それって、今も同じ?」
足はゆるめない。
シーコが何を考えているのか、その表情からは見て取れない。
ただ、ほんの少しだけ憂いの色が見えた。
私は小さく、しかしはっきりと頷いた。
もう一度、あの人のこと好き? と、自問してみる。
そうだ、私は彼が好きだ。どうして好きになったのか、今もよく分からない。
ただパパやママに似ていたからなのか、それとも、傷心の私の隣にたまたまいたのが彼だったからなのか。
どちらにしろ関係無いと思う。
重要なのは、今、私が彼を好きでいる、ということなのだ。
シーコは一言、「よかった」と返した。向けられた私も嬉しくなるような笑顔だった。
そして私は思い出した。彼と私との間には、いつもシーコがいた。
いつも私を見ていたのは、あの人よりもシーコのほうだった。
迷っていたり戸惑っていたりしたとき、後押ししてくれたのはいつだってシーコだったのだ。
「Merci d'être là pour moi.」
私は感謝した。私の国の言葉に、私の想いすべてを乗せて。繋いだ手に、ぎゅっと力がこもった。
きっとシーコには伝わらない。
メルシー程度なら分かるかもしれないけれど、詳しい意味までは知られないはずだ。
それでいい。今はまだ、恥ずかしいから。
伝わっていないと思う。けれどシーコは、それに答えるように、手を握り返してくれた。シーコの手のひらは、彼女の笑顔と同じように温かかった。
* * *
もう、私は止まらない。止まる気にもなれない。
わだかまりのようなものは、走っているうちに消え去っていた。シーコが綺麗に吹き飛ばしてくれた。
あの人と会わなくなってから、私の背はずいぶん伸びた。ずっとずっと、女らしくもなった。
日本語も上手になったし、泣き虫も直ったはずだ。
驚くあの人と、しばらく会わなかった分だけ、いっぱいお話をしよう。
今はまだ振り向いてくれないあの人を、必ず振り返らせてやるのだ。
そして唄を歌おう。
ママが好きだった、サティの歌。生まれ育った祖国の田舎町。
うららかな、お日様の気持ちいい午後のひととき、ピアノから流れてきたママの歌。
あの日聴いたその歌を、「あなたがほしい」とたからかに歌おう。
フランス語を知らない彼は、歌詞の意味を聞いてくるだろう。
そうしたら、私はこう言うのだ。
私は貴方が大好きです。
この先ずっと、一緒にいましょう。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
一握りの勇気を振り絞った少女の一歩が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「あの日聴いたJe te veux」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2004 星降り号 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




