On that day/Ce jour-la
――いくつもの輝かしいあの日々を越えて。
その日。新しい門出を、私たちは見送った――。
* * *
「お兄ちゃん、おめでとう」
きっちりとしたタキシードに身を包み、髪の毛もきっちりセットされた兄の姿に、私は祝いの言葉とともに思わず笑いが零れてしまいそうになった。
「ありがとう、って、素直に喜んでいいのか? 椎子、お前、笑い堪えてるだろ」
「だっ、だって! タキシード! 全然似合ってないんだもん!」
どこか頼りなかった兄の結婚。
長い交際の末の、ようやくのゴールインだった。
私は新郎側の唯一の家族として、少し早めに会場へ入り、着付けとヘアメイクを済ませた。
鏡越しに見る自分の晴れ姿に、少しだけ気恥ずかしさを覚えながらも、胸の奥には申し訳なさと深い感謝がないまぜになって渦巻いていた。
兄の結婚がここまで遅くなったのは、きっと私に原因の一端がある。
幼い頃に母を亡くし、そして事故で父を失った。父の遺した喫茶店を切り盛りしながら、兄は私が独り立ちできる歳になるまで――高校を卒業するまで、自分の青春を犠牲にして私を育て上げてくれたのだ。
だから今日は、笑顔で見送ろう。祝福の言葉で、その門出を祝おう。
そう思っていたのに、親族の控室で顔を合わせた途端、私の申し訳なさも感謝も何もかもが吹き飛んでしまった。
だって、あまりにも似合っていなかったのだから。
時間が来て、相手方の親族――橘家の人たちとの顔合わせとなった。
幼い頃に母を亡くし、父も三年前事故で亡くした私たちは二人だけだった。
けれど、緊張はなかった。向こうも、よく知っている人たちばかりだ。不安もない。
控室で、私は新婦である香澄さんと、そのご両親、そして妹の香織さんに深く頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いします」
親族紹介の場。新郎側は私一人しかいないため、少し緊張しつつも、プランナーの進行どおりに兄の横に並んで自己紹介をする。
「厚志くん。君もその若さで、一人で妹さんを育て上げて……本当によく頑張ったね。これからも香澄をよろしく頼むよ」
香澄さんのお父さんが、兄の肩を叩きながら優しく労いの言葉をかけてくれた。
私のために頑張ってくれていた兄が報われているようで、私は自分のことのように胸が熱くなる。
親族紹介が終わり、写真撮影までの間、私は香澄さんと少しだけ言葉を交わした。
「おめでとうございます、香澄さん。ドレス、とっても素敵です」
「ありがとう、椎子ちゃん。椎子ちゃんも素敵よ」
そんな挨拶から、「お兄ちゃんはタキシード全然似合っていないのに」という他愛のない話。「香澄さんの同僚の方は、本当に呼ばなくてよかったんですか?」「ええ。あのお店の空気が好きなの。私は、私の好きな人たちに小さく祝ってもらえるだけで幸せよ」という、今日の結婚式の規模の話。そして、時間を割いて参列してくれたゲスト――気の知れた親しい人たちへの話へと移っていく。
「クリスちゃんを、招待してくれてありがとう」
「そんな。もともと兄も招待するつもりだったみたいだし、私は絶対来てねって、誘っただけですから」
「それでも、ありがとう」
クリスはあまり香澄さんと会う機会がない。兄と会う機会も減っていた。
私と遊ぶ時も、お店ではなくいつも街か、それかクリスの住む町のどちらかだった。
クリスが二人を避けているとは思えない。けれど、彼女の想いを考えると、そう見えるのも仕方のないことだった。
「あとで、クリスちゃんとお話ししてあげてください。きっと切っ掛けが、掴めていなかっただけですから」
私がそう言うと、香澄さんは優しく微笑んで頷いた。
「ええ、そうね。そうするわ」
その後、両家で集合写真を撮影する。
両親を亡くした私たちにとって、付き合いの長い橘家とは、すでにもう一つの家族のような温かい関係を築けていた。
きっと出来上がった写真を見ても、両家の集合写真ではなく、一つの家族にしか見えないだろう。そのことが、とても嬉しかった。
進行の打ち合わせと準備を進める新郎新婦とご両親の姿を、私は少し離れた場所から見守る。私の隣には、香織さんが並んでいた。
「……少しだけ、もしもを考える時があるの」
「もしも、ですか?」
ふとこぼした香織さんの言葉に、私は首を傾げた。
「もしも、私とお姉ちゃんの年齢が近ければ。もしも、同じように厚志さんとの年齢も近くて、高校とかの学生生活を、一緒に過ごせていたら。今とはもっと違った未来があったのかなぁ、って」
「……落合先輩が聞いたら、泣きますよ?」
「祐介くんには、ナイショね」
香織さんは悪戯っぽく微笑んで、唇に人差し指を当てた。今日、落合先輩も式に参列してくれているというのに。
そういえば、と私は思い出す。親友のクリスも昔、同じような「もしも」を口にしていたことがあった。
「……今でも、お兄ちゃんに未練、あります?」
私のぶしつけな問いに、香織さんは静かに首を振った。
「今はただ、お姉ちゃんと厚志さんの幸せを、願うだけだよ、椎子ちゃん」
目を細めて二人を見つめる香織さんの表情は、慈愛に満ちていた。
凛とした佇まい。それが嘘偽りのない、心からの願いだと私にはわかった。
* * *
私は義兄、そしてその妻となったミユキと共に、少し早めに会場へと到着していた。
受付でご祝儀を渡し、席次表を受け取ろうとしたところで、「よう」と気さくに声を掛けられた。
「あらま、楓佳お姉様! ご無沙汰っす!」
「お前、まだそんな呼び方してんのか……。ま、ともかくだ。遅くなったけどよ。結婚おめでとさん、美雪。光輝と末永く幸せにな」
「ありがとー! って、それ、今日の主役にあたしたちが言う台詞!」
「違いねえ」
快活に笑う受付係は、フウカだった。どうやら頼まれて受付を引き受けたらしい。
彼女の友人のセツキが、先週会ったとき「あいつは今荒れている。問題を起こさなければいいが……」と心配していたけれど、見たところいつものフウカだった。
どこが荒れているのだろう? セツキは案外、心配性なところがあるのかもしれない。
「大雑把なフウカに務まるのですか?」
「おうおう、タンデムに乗っかってぴーぴー泣いてたやつが言うじゃねえか」
「そ、それ秘密ですっ! 過ぎた話ですっ!」
受付を済ませて待合室へ向かうと、そこには見知った顔ぶれが並んでいた。
「クリス、久しいな。と、いっても先週会ったばかりか」
「健勝でなによりだ。共に、マスターたちを祝おう」
セツキとヒロノリだった。義兄やミユキの知り合いであるこの恋人たちは、シイコの導きでより親密になったらしい。場所は、シイコたち兄妹が経営している喫茶店。ヒロノリは最初時計屋さんと勘違いして入店したのだとか。シイコは冗談がうまい。喫茶店の佇まいと時計店、間違える人なんでいるはずがないのに。
「わ、瀬月お姉様、もう来てる! 一番乗りかと思ったのにぃ!」
「遅刻すれすれだ、名瀬――では、もうないんだったな」
「ういっす! 仲村美雪! 仲村美雪でございます!」
「ごめん橋本。準備に時間がかかってね」
「ミユキがドレスのコーデに迷っているからです。事前に決めたものでいいのに、なぜ直前になってアレンジなんて……」
「光輝もくーちゃんも細かいこと言わないの! 今日はめでたい日なんだから!」
「いいさ、仲村――いいや、光輝。これからは名前で呼んでも?」
「あはは。付き合い長いのに、改まると変な感じだね――裕範」
最後かと思われていた私たちのあとに、遅れてやってきた二組があった。
「時間、セーフよね? 良かったわ。移動始まってたらどうしようかと」
腕の中で小さく寝息を立てる赤ん坊を抱いた女性、ナツミ。
そして。
「見事に知らない顔ばかりだな……。まあ、知ってるのも、中にはいるか」
少しぶっきらぼうな口調の、スーツを着慣れない様子の青年、ユウスケだった。
「あら、仲村さんとこの」
「日下部さん。ご無沙汰しています」
「ご結婚、おめでとう」
「ありがとうございます。僕たちも、式は後日になりますが、その折にはよろしくお願いします」
義兄とナツミは互いに挨拶を交わす。二人は狭い町のご近所さんだ。その繋がりで、私はナツミとシイコを再会させることができた。
無事に生まれた新しい命はすくすくと育ち、シイコもたまにナツミの家へ遊びに来るようになった。
「そちらの少年は?」
「あ、はい。はじめ、まして。落合です。今日は新郎新婦、二人の妹さんから誘われて……。あ、鴇田――椎子さんは、俺の後輩で。古時計には、昔、瑞希――幼馴染と通ってたくらい、好きな場所で、その繋がりでマスターにもお世話になってたので……」
セツキに尋ねられ、見知らぬ人だらけで緊張しているのか、ユウスケは言葉に詰まりながら早口にまくしたてるように自己紹介をしていく。
「ユウスケ。落ち着いてください。カオリが見たら笑いますよ」
「うぐっ」
「なんだ、香織の彼氏君か。話は聞いているよ」
「あー。かおりんのコレね。最近喧嘩は減ったかな~?」
「橘の恋人か……。俺が言うのもなんだが、もう少し女心というヤツを学んだほうがいいぞ?」
「初対面なのになんでそんな詳しいんスかねえ!?」
タジタジになるユウスケを見て、私は小さく微笑んだ。カオリの人徳だと思う。彼女は人を惹きつける。自然と力を貸したくなる、まっすぐな女性だった。
「みんな、揃ったなー。係の人来たら移動するから、準備しとけー」
受付を終えたフウカが合流する。
参加者は身内や気の知れた友人、常連だけ。アットホームな雰囲気にしては少し砕けすぎていると思うけれど、それが彼ららしいと言えば、らしかった。
初対面の多いユウスケとナツミが自己紹介を交わし、新郎新婦との繋がりや思い出を語り合っていく。
縁、と。
いつか誰かが言っていた。
いわゆる一つの、不思議な偶然。
そんな不思議なもので、確かにみんな、繋がっている。
今、ここで、初対面の人たちですら、それはあったのだ。
「――みなさん」
私は、この場に集まった全員に、声を上げた。
何事かと、視線が集まる。
「私はみなさんに、伝えたいことがあります」
思い浮かべるのは、二人の顔。
両親を亡くした私に声を掛け、塞ぎ込んでいた私に手を差し伸べてくれた人。
私と友達になりたいと、声高らかに不器用なフランス語で叫んだ親友。
その二人が紡いでくれたこの縁に。
「私を救ってくれて、ありがとう、ございました……!」
私は、深く深く、頭を下げる。
私と同じように、忘れてしまっている人もいるかもしれない。なんのことだか分からず、困惑しているかもしれない。
それでも、伝えたかった。ただ一言。感謝を――。
ぽん、と、頭に温かい手のひらを添えられた。
「気にするな」
セツキだった。隣には、ユウスケもいる。
「言っただろ? 笑えるようになって、よかったなって。それだけで十分だ」
気が付けば、私はみんなに囲まれていた。
「今更っしょ、くーちゃん。お礼言ってほしくて遊びに行ったわけじゃないよ」
「――だな。あの兄妹に、どうしても笑ってほしい子がいるって、そう頼まれただけだぜ」
「私もそう。優しい子よね、椎子ちゃんって。私も、あなたに救われたわ。……また椎子ちゃんと会えて、本当に嬉しかったんだから」
「みんな……覚え、て……」
込み上げてくる。感情が。とめどなく。
「あったり前じゃない! こんな綺麗な金色の髪! 青い瞳! 忘れるわけないっしょ!」
涙が溢れる前に、目の前にハンカチが差し出された。
「クリス。メイクが落ちるよ。我慢だ」
義兄に差し出されたハンカチを受け取り、静かに目元を拭う。
鼻をすすり、私はもう一度だけ、深く、深く感謝の言葉を口にした。
* * *
ゲストより一足先にチャペル内へ通された私は、新郎側の最前列にポツンと一人で座ることになった。
父や母がここに居たらどんなことを言うだろうと思うけれど、寂しいとは思わなかった。
「椎子ちゃん。私、そっちに行こうか?」
通路を挟んで隣の席に座る香織さんの申し出に、私は小さく首を振る。
「ありがとう。大丈夫です、香織さん。お父さんとお母さんの分まで、私が鴇田家代表として、お兄ちゃんを祝福しなきゃですから」
やがて挙式が開始され、ゲストが入場してくる。
後ろを振り返ると、クリスが。楓佳さんが。夏美さんが。
お世話になった多くの人たちが座っており、兄のためにこれだけの人が集まってくれたことに胸が熱くなる。
クリスの目元が赤かった。けれど、その顔は晴れやかだった。だから、心配はしない。
私は前を向く。そして式が始まった。
チャペルの最前列に座る私の目の前には、緊張で少し肩が強張った兄が立っている。幼い頃からの思い出や、喫茶店を継いで一生懸命生きてきた兄の姿が頭をよぎり、この時点で胸がいっぱいになった。
やがてチャペルの扉が開き、香澄さんがご両親に付き添われて姿を現す。
ステンドグラスの光を浴びて輝く、純白のウェディングドレス。いつも綺麗で優しい香澄さんが、今日はまるでおとぎ話のお姫様のように見えた。喫茶店のエプロン姿しか知らない兄の隣に並ぶ、最高に美しい花嫁さん。
二人が並ぶと、兄の似合わないと思っていたタキシード姿も様になっているように思えた。
自慢のお兄ちゃんと、自慢のお姉ちゃんだ。
香澄さんのお母さんが優しくベールダウンを行い、お父さんと一歩一歩バージンロードを歩む姿を、私は静かに見守った。
新婦側の最前列を見ると、そこには同じように胸がいっぱいになっている香織さんの姿があった。
目が合う。同時にはにかむ。
本当によかった、と。安堵、そしてわずかな寂寥感。通じ合うような、温かい視線を交わし合った。
新婦のお父さんから兄へと、香澄さんの手が渡される瞬間。兄が「必ず幸せにします」と深く一礼する姿を見て、「今日から新しい家族ができるんだな」と、わずかにあった緊張が解け、純粋な祝いの涙が溢れた。まだ、泣くには早いのに。こんな私の姿をお母さんが見たら、きっと笑うだろうな、なんて、そんなことを思い浮かべて、私はハンカチが手放せなくなった。
指輪の交換。毎日サイフォンを握り、コーヒーを淹れ続けてきた兄の、少し無骨で節張った手が、香澄さんの細く白い指に、きらりと光る永遠の誓いをそっとはめる。不器用なお兄ちゃんの手がわずかに震えているのがわかって、私は思わずふふっと笑ってしまった。二人で積み重ねてきた時間が、あの小さな輪の中に詰まっているのだ。
そして、誓いのキス。
普段の家でのだらしないお兄ちゃんを知っているから、見ているこっちが赤面してしまいそうになるけれど……。でも、ヴェールをたくし上げ、そっと口付けを交わす二人の姿は、一枚の絵画のように神聖で、綺麗だった。
ふと、後ろの席に座るクリスの顔が気になった。
私と同じ顔をしているのだろうか。けれど、振り返るのは無粋だ。
今はただ、祝福の中で兄と新しい姉を見守ろう。
フラワーシャワーの祝福を浴びて、二人は満面の笑みで新しい人生へと歩み出していく。
――ああ、本当によかった。お兄ちゃん、おめでとう。
* * *
披露宴は身内だけの式のため、堅苦しい挨拶を抜いた無礼講の立食ビュッフェ形式だった。
途中の演出として、新郎であるアツシがスタイリッシュなカフェコートとエプロンにお色直しして登場し、ゲストに自らコーヒーを淹れて振る舞う場面があった。
昔は苦手だったブラックコーヒーも、いつの間にか飲めるようになったことに時の流れを感じて、ほぅと息をつく。
コーヒーを飲んでいるところに、カスミが現れた。
「こんにちは、クリスちゃん。今日は来てくれてありがとう」
アツシと同じくオイロナオシというものでドレスを変えたカスミは、純白のウェディングドレスとはまた違った、色鮮やかで温かみのあるカラードレスを纏っていた。
「ご結婚、おめでとうございます。ドレス、素敵です。とっても」
思い入れのある一番素敵なウェディングドレスを着続けることが普通だと思っていた私は、その文化に驚くと同時に、こんな美しいドレスを何着も着られるなんて素晴らしいことなのだろうと思った。いつか私も結婚するときは、オイロナオシのある日本の結婚式を挙げたいな、なんて、ぼんやりと思う。
「ありがとう、クリスちゃん。それと、ごめんなさい。あなたとは、もっといっぱいお話ししたかったのに、時間が取れなくて」
「いいえ。私も、もっと会いに行けばよかったと、思います」
アツシの淹れたコーヒーを、一口含む。優しい苦みが、背中を押してくれたような気がした。
「ごめんなさい。うそ、です。勇気がなかったんだと思います。会うのが、怖かった。カスミとも、アツシとも」
一人で、東京を訪ねたあの日。
アツシの誕生日。そのパーティーの最中に告白して、そして振られたあの日。
フウカのアパートでやけ酒をして、朝方フウカのバイクで家まで送ってもらいながら思いの吐露を吐き出したその日から、私はまた、彼から、そしてその伴侶となるカスミから、足が遠のいていた。
「あの日を境に、私の世界は広がりました。縁、というものらしいです。知り合いもたくさんできました。大切な恩人であったことも、思い出せました。私は幸せでした。けれど、だから、怖かったんです。会ったときに、私はちゃんと、アツシの前で笑えるのか。あなたのことを、祝福できるのかと。できなかったら、どうしようって、そればかりが、頭にありました」
私の胸の奥にしまい込んでいた言葉を、カスミはただ静かに、優しく微笑みながら聞いてくれていた。それが、とても嬉しい。吐き出す私を待っていてくれる。そして私の答えを、待っていてくれる。指摘も、疑問も、何も挟まず、見守ってくれている。それがとても心強い。
「杞憂でした」
「ええ、そうみたいね」
小さく頷くカスミ。
「だってクリスちゃん、とても素敵な顔、しているもの」
私は力強く頷く。
後悔も、後ろめたさも、私の悪いところ、なにもかもを飲み込むくらい、この気持ちは、この想いは、大きく、本物だった。
「おめでとうございます。幸せになってください」
私はちゃんと、笑って祝福できていた。
「厚志くんにも、会ってあげてくれないかしら」
カスミの視線の先。義兄やフウカ、ヒロノリと談笑しているアツシを見る。
「ええ。分かっています。また、心配させてしまっているでしょうから」
「ふふっ。そうね。安心させてあげて」
私は頷くと、アツシのもとへ足を向ける。
――そして。
「そうです」
最後に一度、カスミに向き直って、深く、感謝を口にする。
「ありがとう、ございました。カオリと一緒に、私を励ましてくれて」
カスミは目を丸くする。
「覚えていて、くれたのね」
温かいものが、私を包み込んだ。カスミの腕だった。ふわりとドレスのなめらかな生地が、心地よく頬を撫でる。
「すべて失くして、闇の中にいた私に、手を差し伸べてくれた、たくさんの温かな光。眩しすぎて、見えなかっただけ。今は、はっきりと見えます。ありがとう。心からの、感謝を」
「あの人にも、伝えてあげて。きっと、ずっとずっと、待っているわ」
「Oui。行ってきます」
一度だけ、包容力のある温かな胸元に顔を埋めてから、私は頷いた。
ママと同じ、温もりがあった。
アツシのもとへ向かう途中、シイコの姿が目に入った。
少し離れた場所で、ユウスケと二人で話している。近くにカオリはいない、何を話しているのだろう、と気になった。けれど聞き耳を立てるのも悪い。邪魔をしないようにアツシのところへ向かおうとすると、私の耳に、二人の会話が入ってきた。
「今日は、来てくれてありがとうございます。先輩」
「香織の姉さんの結婚式なんだ。出ないわけにはいかないだろ」
「……藤原先輩にも、見てほしかったな」
「……見てるさ。きっと、な。あいつ、マスターのコーヒー、好きだったから」
「雨の日になると、必ず来てましたからね」
そういえば、と記憶の糸を辿る。
かつてユウスケと一緒に、施設にいる私を励ましに来てくれた子がいた。てっきり一緒にいたのはカオリだとばかり思っていたけれど、カオリはカスミと一緒に訪れていた。
ユウスケと一緒にいたあの子は今日、来てくれなかったのだろうか。いつか、会うことはあるだろうか。会ったら、改めてお礼が言いたい。
私はそう思いながら、代わる代わる声を掛けられている今日の主役のもとへ、歩み寄った。
「――――アツシ」
「クリス。今日は来てくれてありがとう」
「当然です。シイコの招待です。そして、あなたの門出です。祝わなければ、私はここに集ったすべての友人に、顔向けできません」
「そこまで深刻に考えなくていいよ」
「考えます。私は、とてもとても感謝しているのですから。あなたに、シイコに、みんなに救われた、あの日から、ずっと。ずっと」
§
かつて、大きな事故があった。
両親を失った、フランス人の少女。
父親を失った、日本人の青年。
その事故の場所に、二人はあった。
青年は父親を失った。
逃げなければ。
自分まで死んだら、妹は独り残されてしまう。
そのさなか、青年は男性を見つける。
頭から血を流し、全身血まみれの美しい金髪の女性を胸に抱きながら、足を挟まれ動けなくなっていた、日本人の男性。
助けなければ。
青年は駆け寄ろうとしたが、男性はそれを制した。
自分はもう、助からない。
腕の中の女性は、もう息をしていなかった。
だから、頼む、と。
男性の視線。大きな旅行鞄に埋もれるように、一人の少女が気を失って倒れていた。
奇跡だった。怪我も火傷もない。
――クリスティーヌだけは、救ってくれ。
男性の最期の願いを、青年は聞き届ける。
男性を助けることは叶わない。
無力な自分に悔し涙を流しながら。
青年は、少女を抱えて、命からがら事故の中心地から脱出した。
青年は後悔した。
もっとうまくやれれば、助けられたのではないか。
男性を置いて逃げた無力感。
孤児となった少女への罪悪感。
向けられた優しさは、心を閉ざした少女への、贖罪でもあった。
§
そうか、と、青年――アツシは肺の空気をすべて吐き切るように深く息を吐いた。
僕は君を、救えたのか――。
呟きは聞き取れない。彼の細めた瞳に、何が映ったのかは分からない。
だけど。
だからこそ、私は伝えなければならない。
「だから、今度はあなたの番です」
自分の無力を嘆くように、私の横で、涙を流して謝った、あの日の彼の顔を思い浮かべる。
私と会う彼の目は、いつも負い目を感じているような、どこか寂しげなものだった。
「どうか、お願いです。――――幸せに、なってください」
私が幸せにしてあげたかった。
自分を許せない彼を。誰もが等しく無力だったあの事故に、感じなくてもいい責任を感じてしまっている彼の頬を掴んで、前を向かせて、もう自分を責めないで、泣かないでいいんだよと、言ってあげたかった。
それは、私では叶えられなかった。
叶えてくれた、別の人がいた。
彼の隣に並び、歩調を合わせて、立ち止まっても俯いてしまっても、また前を向けるよう支えてくれる人が、もう彼にはいたのだ。
ならば、その人に託そう。
「ありがとう、クリス」
アツシは朗らかに笑った。
優しい笑みだった。これが、あの日私が欲しかった、彼の本当の笑顔だった。
彼はもう謝らなかった。パパと同じように、すぐに謝る癖のある彼が、しっかりと前を向いている。
そのことをとても嬉しく思うのと同時に、ああ、と、今更ながらに実感する。
やはり私は、この人のことが、とてもとても、好きだったのだ――と。
披露宴もつつがなく終わり、私はアツシやシイコ、カオリたちに見送られ、会場をあとにする。
「夏美さん、今日は来てくれてありがとうございました」
はきはきと一人ずつ見送るシイコ。ナツミは「ごめんなさいね、この子、途中でぐずっちゃって」と苦笑いを浮かべていたが、「身内だけの、無礼講みたいな式ですから。気にしないでください」とアツシに言われて恐縮していた。
「仲村さん――光輝さんも美雪さんも、今日はありがとうございました」
シイコと同じように、私たちを見送るのはカオリだった。
「いやあ、お祝い事ってのは、何度あってもいいもんだからね~」
「今度はお二人の式ですね! ぜひ呼んでください!」
「あはは、なるべく早く挙げられるようにするよ」
「その前にこの子が爆誕しちゃうかも」
慈しむように、まだ膨らんでいない下腹部を撫でるミユキ。
……あのミユキが母親だなんて、世も終わりだと思ったものだけれど。意外と、良いママになるのかもしれない。
「……クリスちゃん、今日はありがとうね」
カオリと並んで、シイコも私たちを見送る。
「はい。シイコも、お疲れさまでした」
私は気を張っていたのか、少し疲れの見えるシイコの手を取って言った。
「お兄ちゃん、肩の荷が下りたみたいにほっとしてたけど……。何かあったの?」
「ええ、少し。色々とお礼を伝えただけです。あと、幸せになってください、と」
「そっか」
「ええ」
笑い合う。それだけで十分。積もる話は、また明日すればいい。
「それじゃあ、クリスちゃん。また明日ね」
「はい。また明日。ゆっくり休んでください」
最後に私は、フウカやセツキと話しているアツシと、その伴侶となったカスミに、高らかに祝福を告げた。
「Soyez heureux ! お幸せに!」
笑顔で手を振る二人。
見送られるのは私だけれど。
今はただ、二人の門出を見送るための、めいっぱいの祝福を胸に。
「いや~、ドレス綺麗だったー。ねえねえ光輝~。あたしのときも、ああいうのがいい!」
「うん。頑張ってみるよ。まずはお爺様の説得からだね。あの人、本当に考えが古くて固いから。……白無垢になったら、ごめんね」
「だいじょぶ。それはそれで和装美女目指すからさ。それに、パパさんも力になってくれるよ。ね、くーちゃん? あ、そうだ! 折角だから、くーちゃんのママも認めさせちゃえ! 毎年お墓参り大変でしょ。ったく、ママだけ別の墓地とか村八分とか、考え方昭和かよ! 平成舐めんな!」
「美雪。……疲れているから、ね」
「……あ~。そだね。お疲れ、くーちゃん」
帰りのタクシーの中。
微睡む意識の中、騒がしいミユキの声と、優しい義兄の声が心地いい。
今日は、本当に疲れた。
悪い疲れではなかった。
心の奥から、湧き上がってくるあたたかい気持ちがずっと止まらなくて。
言葉にできないほど、とても強い幸福感。心が奥底から満たされ続けている。幸せ疲れ、とでも言うのだろうか。頭がそれでいっぱいになって、脳が疲れてしまったのだと思う。
euphorie――多幸感と呼ぶそれに、私は酔うように、沈むように、まぶたを閉じていた。
その日は、ふわふわとした喜びのまま。
静かに、静かに暮れていった。
* * *
――いくつもの輝かしいその日々をあとに。
いつの日か。新しい門出を、私たちも迎える――。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集、20話目となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
いくつものあの日々を越えて、ついにその日へと辿り着きました。
大きな縁に囲まれて、笑顔で恩人たちの門出を祝うことができたフランス人の少女、クリスの「その日」までの軌跡はここまでとなります。
そして月日は流れ。
門出は、彼女たちにも訪れます。
もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。
引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「On that day/Ce jour-la」 描きおろし
(熊谷雑文工房『KAZAK』 2007 星霜号 掲載予定作品から大幅に加筆修正し初公開)




