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あの日掴んだPleine Lune






「うわー、思った以上にたくさんあるのねー」


 書庫のように使われている離れの一室。壁一面に並ぶ本棚と、ぎっしりと詰まっている本の山を見て、ミユキは感嘆の声を上げていた。

 秋も深まるある日のこと。ミユキが突然「吸血鬼になりたいから参考になりそうな本ない?」と、まあ、いつものように意味不明な戯言を口にしたのがはじまりだ。


「ミユキ。私の知る限り、この家に人を吸血鬼に変える手段を記したocculte(オカルト)な書物はありません」


「いやいやいや、そうじゃなくってさー」


 ミユキの話を要約すると、大学の文化祭というお祭りで行われる仮装大会に参加するために、吸血鬼の資料を探しているとのことだった。


「最近の漫画とかのコスプレでもいいんだけどさ、本場西洋のイメージで本気な吸血鬼になるのも乙かなーって思ってね」


 それならば、と、私はこの書庫にミユキを案内した。

 学術書や専門書、古い本が数多く眠るこの部屋に、ミユキは来たことがない。堅苦しい本を前にすると、ミユキは表紙を開く前に頭から煙を上げて「そんなことよりおうどんたべよう!」と、幼児退行を果たすのだ。本嫌いにもほどがある。


 なぜそんな場所にミユキを通したかというと。

 私がこの家に引き取られた際に、パパやママの遺品として、二人が好きだった本を義父の好意に甘える形でこの書庫に持ち込んだこと。そしてその中に、かなりの古典だけれど、ママが大好きだった短編集に美しい神父と美しい吸血鬼の恋を描いた耽美なロマン小説があったことを思い出して、それが参考にならないかと思い案内したのだ。

 けれどミユキは、私が渡したママの本をぱらぱらと捲ったあと、眉をひそめ、口先をとんがらせて、むむむむと唸りながら頭から煙を上げて、大げさにひっくり返った。


「おーるフランス語じゃん。読めないよう」


「Oh……,そうでした。ごめんなさい、本当に」


 嫌がらせで渡したわけでは決してない。本当に。日本語を読み書きし、日常的に話すようになった今、使う言葉を意識することがほとんどなくなっていた。だから記憶にあるママの本も、言語の差について特に意識することがなく、昔私が読んだものだからミユキも読めるだろうと思い込み、自然と薦めてしまっただけなのだ。


「せめて挿絵でも……なかったーっ! 無慈悲っ! なんのイメージもつかめないっ!」


「この作家の文章は、とても美しいのです。読むだけで色彩豊かな情景が、ドレスの質感から月の陰影まではっきりと頭に思い浮かぶのです。挿絵は無粋です」


 ぱらぱらとページを捲っていたミユキは大きく肩を落とした。

 その拍子に。

 ひらり、と。

 ページの間から、紙切れが舞い落ちた。


「なにこれ、イラストかな? ……って思ったら、メモ? 文字と数字ばっか。なにこれ?」


 私ははっとなり、ミユキからひったくるようにしてそのメモを奪い取る。

 目を通す。

 Farine(薄力粉)、Beurre(バター)、Sucre(砂糖)……。

 指が震えて、思わずメモを取り落としそうになる。

 それはフランス語で書かれた、レシピのメモだった。


「もー、くーちゃんびっくりするじゃない! どったのさ、一体」


「これは、レシピです」


「レシピ? 吸血鬼の?」


 そんなミユキのボケに反応することすら忘れて、私はその思いがけない贈り物に、歓喜していた。


『Pleine Lune』


 満月。

 その意味を授けられた、私にとっても特別な、お菓子のレシピ。


「これは、パパの作った、満月サブレのレシピです」


   §


「えー、あー、てすてすっ。それではーみなみなさまー本日は~、くーちゃんのためにお集まりいただきぃ、ありがとーございまーっす!」


 翌日。

 キッチンにあったレシピ本を丸めてメガホンに見立てているミユキは、メールで呼び出した知人であろう人たちに、まるで映画監督か何かのように挨拶をした。

 どこから買ってきたのか、日本の幼児向けアニメーションのパン焼きおじさんがかぶるコック帽を身につけ、明らかにサイズ違いの大きなウェリントン型の真っ黒なサングラスをかけた、なんとも名状しがたいいでたちをしている。コックなのか監督なのかはっきりしてほしい。

 そしてそんなミユキの前に並ばされている哀れな被害者が二人。


「……名瀬よ。毎回のことだが、今日は何故呼ばれたんだ……?」


 精悍な顔立ちの青年。昔パパと見た、日本のブシドー、サムライの生き様を体現した暗殺者の映画を思い出した。

 中折れ帽子とトレンチコートのコーディネートがとても似合いそうだった。


「ぼやくな、裕範(ひろのり)。級友が困却の果てにこのような奇行に走るまでに至っているのだ。力になってやろうではないか」


「いや、名瀬の場合、この奇行が平常運転だ」


「ああ、知っているとも」


 美しい赤毛の女性は、精悍な青年と気の知れたやりとりをしながらくつくつと笑っていた。

 二人とも長身で、言葉少なくとも通じ合っているようなやりとりがとても絵になっている。

 当然、二人とも私の知らない人たちだった。


「はいはーい。私語は慎んでー。本日は~、ここにいるくーちゃんのためにぃ~、思い出のレシピを再現して、美味しいクッキーをみんなで作っちゃおう! ってことで集まってもらいました~! ハイッ、拍手~!」


「サブレです」


 私の訂正する声の横で、仏頂面のままの青年と、おー、と、抑揚のない声で拍手だけをする女性。

 その女性と、ふと目が合った。


「これを企画したのはキミかね?」


 ぶんぶんぶんぶんっ!

 私は全力で首を振った。


「そうか」


 赤毛の女性はふと笑うと、「キミも大変だな」と、優しい目を送ってくれた。

 ――名前も知らない人だけれど。

 悪いひとではなさそうだ。


 男性はヒロノリ、女性はセツキという名前だとあらためて自己紹介をして知った。

 ヒロノリは義兄の友人で、セツキはミユキの先輩だという。

 そしてこの二人は交際しているのだとミユキが面白そうに「うっしっし」と笑いながら説明してくれた。

 ヒロノリはとても狼狽えていたけれど、セツキは「うむ。そうだ。ラブラブだぞ」と、特に気にする様子もなくすました顔で言った。

 ミユキのおちょくりにも動じないなんて、このひと、とても強いひとだ。

 私はすぐにかっとなって頭に血が上ってしまうので、とても憧れる。私にはとてもできない。


「それで、ミユキ。Pleine Luneを作るって、本当ですか?」


「うん。そだよ。そのために集まってもらったんだし」


「頼まれた材料は、この通り。すべて調達済みだ」


「調理器具なら任せろ。バイト先がカステラ専門店だからな。……まあ、カステラといえど材料は洋菓子と変わらん。問題はないだろう」


「あれ? もっさん、カステラって和菓子だっけ? 洋菓子だっけ?」


「もっさんはやめてくれ……」


「もっさ……ッ! ……ぷっ、ふはっ、橋本だから、もっさん……! くくッ」


「あ~っ、珍しっ! お姉様ツボってる!」


 放っておくと途端にかしましくなって脱線してしまうけれど、仲の良さだけなら見ているだけで分かる。そして、ミユキが声を掛けるだけで、パパとの思い出の味を再現するために集まってくれる、とても素敵な人たちだということも。


「ま、あたしがそのクッキー食べてみたいってのもあるんだけれど」


「サブレです」


 ミユキは普段のいい加減な顔から一転して、とても優し気な顔で私に言った。


「くーちゃん、とても懐かしそうな顔してさ。あと、寂しそうな顔も。だから、作ってあげたくなった」


 ミユキはずるい。

 いつもは騒々しくて、いい加減で、私をからかうばかりで、好きになれないけれど。


「メルシー。ありがとう、ミユキ」


 時折見せるこの優しいミユキは、私の好きなミユキだった。


§


 しかし、いざサブレ作りが始まると、早くも暗礁に乗り上げそうになった。

 頼もしく宣言していたヒロノリは、実は剣道一筋でバイトも品出しやレジ打ちのみ。お菓子作りどころか料理自体がほぼ未経験だということが判明した。

 そして、余裕の表情を崩さなかったセツキも、作れる料理は卵焼きとちょっとしたおかずくらいだという。二人揃って、お菓子作りに関しては早々に戦力外通告を受けてしまったのだ。

 キッチンには、ミユキの元気があり余った騒がしい声と、私の小さなため息が響いた。

 けれど、このまま終わるわけにはいかない。私たちは役割を分担し、なんとか作業を進めることにした。


 意外にも活躍したのは、戦力外と思われた二人だった。


「縦に切るべし、切るべし! 面ッ、面ッ、ンメエエエエンン!」


 ヒロノリは、ボウルの中のバターと砂糖を混ぜ合わせる作業で、剣道で鍛え上げた正確無比な泡立て器さばきを披露した。生地はあっという間に滑らかになっていく。


「美雪。このオーブン、実際には設定温度より低いようだが?」


「まいったな~、オーブン温度計なんてあったっけ?」


「大丈夫だ。なんとなくだが把握できる」


 一方のセツキは、オーブンの温度と焼き時間の管理で並外れた感覚を発揮した。川底の砂利の中から一粒の砂金を探し出すような張り詰めた集中力で、焼き上がりのベストタイミングをじっと見極めている。

 そんな頼りないのか頼もしいのかよくわからないドタバタ劇の末、オーブンから甘く香ばしい匂いが漂ってきた。

 パパのレシピ、『Pleine Lune』――満月サブレの完成だった。


   §


 粗熱が取れたサブレを囲んで、さっそく試食の時間がやってきた。

 サクッとした歯ごたえと、口の中でほろほろと崩れる優しい甘さ。


「美味しい」


「やった! 大成功! やったねくーちゃん! 念願のパパさんのサブレ完成よ!」


「サブレで――いいえ、そうですね、ミユキ。ありがとう。本当に」


「あれ? それにしちゃあリアクション普通っぽい? もっと号泣したりあたしに抱きついて求婚してきたりするかと思ったのに」


 最後のは絶対にあり得ないから安心してほしい。

 私は小さく首を振った。


「美味しいけれど、これはパパのサブレとは違いました」


 それを聞いて、ミユキが目に見えて肩を落とした。


「まあ、設備も違うし、小麦やバターも現地のものとは違う市販品だ。完全再現は難しいだろう。気を落とすな」


 セツキも私を慰めようと、優しい声色で言ってくれた。

 私は、もう一度首を振った。


「私は、これがいいんです」


 首を傾げる面々に向かって、私は微笑んだ。


「私の欲しかった『Pleine Lune』は、この、みなさんと作った『Pleine Lune』です」


 ぺこり、と、静かにお辞儀をして、私は心からのお礼を告げた。


「Merci pour tout !」


「うむ。力になれたのなら何よりだ」


 セツキが静かに頷く。


「俺はあまり力になれなかったが……。また何かあったら、声を掛けてくれ」


 ヒロノリが照れくさそうに頭を掻いた。


「えっ? うそっ、今くーちゃんすっごい満面の笑み浮かべてなかった? うわー、貴重な瞬間撮り逃したー! 時間巻き戻して写真撮って額縁に飾りたいッ!」


 ウザがらみをしてくるミユキに辟易しながら、改めて協力してくれた二人に礼を言い、私は門まで二人を見送ることにした。



「またいつでも遊びに来てください」


 そう声をかけた私に、セツキは優しく微笑み返した。


「もちろんだ。新たな友人との出会いに感謝を。裕範と共に、また、必ず」


 離れていくセツキは、少しだけ歩みを進めたあと、一度だけ振り返って言った。


「キミの笑顔は、他人の心を温かくしてくれる。そのように笑えるようになって、私は心の底から嬉しいよ」


 去り際のその台詞に、私は息を飲んだ。

 まただ。カオリの時と同じだ。気付いた時には、お礼を言うタイミングを逃している。

 彼女もまた、私が心を閉ざしていたあの頃に、私を励まそうと代わる代わる会いに来てくれた恩人の一人だったのだ。

 私は、夕暮れの空の下で遠ざかっていく二人の背中に向かって、心の中で深く、深く感謝の祈りを捧げた。


   §


 夜。私はミユキたちと作ったサブレを、帰ってきた義父と義兄に振る舞った。

 ひと口食べた二人は「うまい!」「優しい味だね」と大絶賛してくれた。ミユキが「実は今日ね……」と昼間の大騒動を暴露し、義父たちも声を上げて笑った。


「ありがとう、クリス。こんなお祝い、とても嬉しいよ」


 義兄の言葉に、私は首を傾げた。

 普段のお礼として焼いたサブレを振る舞おうと思いついただけだ。お祝い、というのはどういうことか。何かめでたいことでもあったのだろうか。


「あれ? 美雪。まさか、まだ伝えていない?」


「あーメンゴ! やっぱこういうのって、家族の口から直接伝えられたほうが嬉しいかなーって思ってたら、言うの忘れてたわー」


 苦笑いを浮かべる義兄。ミユキは私に向かって、悪戯っぽく笑った。


「今日ね、籍、入れてきたの! 今日からあたしは名瀬美雪ちゃんあらため、仲村美雪ちゃんです! よろしく、義妹(いもうと)よ!」


 私は思わずティーカップを取り落としかけた。

 卒業を間近に控えたこの時期に、学生結婚。元々卒業後すぐに結婚する気でいたらしいけれど、どうやらおめでた、だったらしい。


「それは、まあ。おめでとう、ございます」


 あのミユキが……義姉(あね)?

 思わず複雑な顔で私は呟く。

 けれど口の端だけは、自分でも自覚できるくらいに、綻んでいた。


   §


 就寝前。

 私は自室の窓の外に浮かぶ満月を見上げた。

 およそ三年前。

 フランスに帰ることを拒み、日本で暮らすことを決めたあの日から、それだけの月日が流れた。

 あの時は、手のひらには、何もなかった。

 私はおもむろに、満月に向かって手を伸ばした。

 手のひらを広げ、掴む。握りこぶしの先の月は見えなくなった。

 何もなかったこの手には、今は沢山の温かさが詰まっていた。

 あの日手からこぼれ落ちたものが、掴めなかった幸福が、今、ここ日本で、温かい家族や仲間たちと共に掴んでいることを実感する。


 手を下ろす。

 月は確かにそこにある。

 取り零してしまったものも、確かにあった。


 私は、机の上に置いてある一枚の葉書を手に取った。


鴇田(ときた)厚志(あつし)

  香澄(かすみ)(旧姓 橘)


 連名の差出人の片方は、よく知る名前だった。

 シイコの兄の名前。かつて私が好きになり、振られてしまったあの人の名前だ。

 彼が結婚するという、報告の手紙。

 私ではない誰かと彼が、これから新しい人生を歩み始めるという報せ。

 彼が選んだ人なら、きっと素敵な女性なのだろう。彼の幼馴染であるフウカも、昔「とても美人」「お淑やかで器量良し」と彼女を褒めていた。

 そして最近知り合い、仲良くなったカオリの姉だというのなら、それは、もう、とてもとても、私では足元にも及ばないくらい、素敵な夫婦になるのだろう。


 胸の奥がちくりと痛むけれど、不思議と冷たい涙は流れない。

 ただ、かつて彼に励まされた時間が。惹かれ、焦がれ続けた時間が、月明かりのように優しく胸に広がっていく。

 それはきっと、今の私が、確かな幸せに満ちているからなんだと思う。


 私は便箋をそっと胸に抱き寄せ、遥か高くに輝く満月を見上げた。

 届くはずのない夜空へ、そして彼のいる場所へ。

 あなたのおかげで掴んだものは、愛おしい日々は、とてもとても甘く温かいものだったよと、万感の感謝を込めて。


 祈るように静かに呟く。


「Félicitations pour ton mariage... Sois heureux.」(ご結婚おめでとう……どうか、幸せになってね)


 新たに増えた騒がしい家族と。

 親愛なる人へ。


 美しく浮かぶ月の光に照らされながら、私は小さく、懐かしい曲を唄った。





Fin




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。


取り零した幸せ。他人の幸せも、満ち足りた今なら祝福できる。掴んだ幸せ、空にあるままの幸せ。どちらも同じ、満月のように欠けてはならない「自分を形作っている幸せ」である。


もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。


引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。


【初出】

「あの日掴んだPleine Lune」 描きおろし

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