あの日歩いたorage
一人で義兄の大学を訪ねた。
台風が近づく、ある初夏の日だった。
卒業論文ゼミの定期発表に持っていく資料を忘れた義兄に、届け物を頼まれたのだ。
「ありがとう、これで留年しないですむよ」
落第の危機だったようで、義兄は心の底からほっとしたような安堵の息を吐いていた。……そんな大切なものを、オチャノマに忘れっぱなしにしないでもらいたい。義兄はしっかりしているようで、かなり間が抜けているのだ。
義兄の講義が終わるまでの間、せっかくだからと日本の大学を見て回っていたのだけれど、天気予報よりも早く空模様は荒れ、風は強くなり、やがて打ち付けるような雨が降り始めた。
私は慌てて、大学内で一番大きな本部棟のエントランスに駆け込み、雨宿りをすることにした。
「―――ふぅっ」
その隣には、いつの間にか、一人の女子学生が同じように雨宿りをしていた。
艶やかな長い黒髪。和服がとても似合いそうな、大和撫子――その言葉がとても相応しい、綺麗な女性だった。
「困りましたよ。天気予報より早く降ってくるなんて」
女性が、ふと独り言のようにこぼした。
私は彼女の手元を見て、少し不思議に思った。女性の手には、傘が握られている。傘があるのに雨宿りなんて、どうしてだろう。
「傘、壊れているんですか?」
尋ねると、彼女は一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「壊れていませんよ。ほらっ」
彼女は傘を少しだけ開いて見せてくれた。朝顔がぱっと花開いたような、綺麗なグラデーションの、可愛らしい長傘だった。
「お気に入りなんです。壊れちゃったら、泣いちゃいます」
では、なぜ雨宿りをしているのだろう。私が小首を傾げていると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「人を待っているんです。あなたは?」
「私も、同じようなものです。兄に頼まれ物を届けに来たのですが、この嵐で。傘も持っていないので、兄の講義が終わり救助に来るのを待っています」
「日本語、お上手ですね」
「よく言われます」
大きな事故があった。そこで両親を亡くし、今の家族に引き取られてから二年以上が経っている。
日本の生活にも慣れたし、日本語もとても上達した。
……それもこれも、日本語しか喋れないくせにウザがらみしてくる隣人が、毎日毎日、機関銃のように話しかけてきたからだ。
感謝するのと同時に、もっと加減してほしいとも思う。
心優しく穏やかな義兄は、なぜあんな台風のような女性と付き合っているのだろう。
そんなことを考えていると、隣に立つ女性が、記憶の糸を手繰るようにじっと私の顔を覗き込んできた。
「どこかで、お会いしませんでした?」
「いいえ、覚えはありませんけど」
「なら、気のせいですね。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」
くすりと笑う仕草までもが、とても大人びている。
そして気付いた。
その理由は彼女の佇まいにあった。
彼女は日本人で、背もあまり高くない。
それなのに凛として、堂々としていて、とても大きく美しく見えるその秘密は、背にあった。
ぴんと伸ばされた背筋。張られた胸は自信の表れであり、日本に来てからよく見るようになった曲がった背中、ネコゼというものとは対極にある、とても整った姿勢だった。
それなのに、その姿勢が堅苦しくない。
自然体で、まるで当たり前にそこにあるように――美しく高貴な一輪のアイリスのように咲き誇っている。
剣のように鋭利で、しかし草木のようにしなやかなその佇まい。
そんな華のような女性は、柔らかく微笑みかけてきた。
「私は橘香織といいます。あなたは?」
「――クリスティーヌ。みんなは、クリスって、呼んでくれます」
風と雨の音の中、エントランスの軒下で、私たちは静かに言葉を交わした。
カオリはここの学生で、今は就職活動と卒業論文で大忙しなのだという。
雨は好きだけれど、こんなふうに横殴りに降る台風は困ってしまうと、彼女はコロコロと表情を変えながら話してくれた。
お喋りが好きなのだろうか。彼女は初対面の私を相手に、一方的に自分のことを話し続けた。
けれど、私はそれが少しも嫌ではなかった。むしろ、心地よささえあった。
施設で塞ぎ込んでいたあの頃、同じように声を掛け、話し続け、私の孤独を消し去ってくれた大切な親友と、彼女に連れられて代わる代わる顔を見せて話をしてくれた、今はもう顔も思い出せない恩人たちのことを思い出すから。
やがて講義が終わる時間になったのか、大きくチャイムが鳴り響いた。
それまで閑散としていたエントランスに、多くの学生がなだれ込んできた。
みんなそれぞれ早すぎる嵐に舌打ちをしたり、頭を抱えたりしながら外へ飛び出していく。
やれ購買へ向かえ、やれ電車が止まる前に帰らないと。
私やカオリのように雨宿りをする学生は少ない。
稀にカオリの知り合いなのか、早足に外へ去っていく途中、カオリと挨拶を交わすために一時立ち止まる女学生がいるくらいだ。
カオリはそんな級友を、「気を付けてくださいね」と手を振りながら見送っていた。
微笑みながら小さく手を振る姿すら様になっている。その様子に思わず見惚れてしまった。
やがて義兄が「待たせてごめん!」と駆け寄ってきた。
「君は――」
「ご無沙汰してます、仲村さん」
旧知の仲のように挨拶を交わす二人の姿を見て、私は思わず目を瞬かせた。
「知り合いだったのですか?」
「うん。美雪の親友だよ。僕は何度か顔を合わせるくらいかな。学部も違うし」
義兄の言葉に、私は驚きに思わず声を上げてしまった。
親友……?
あの、ミユキと……?
なんて、かわいそうな……。
「Oh là là là là……,ミユキの友人だなんて……。とても、とても苦労しているでしょう。むちゃくちゃで、お調子者で、人をからかうのが好きで、悪魔のようなあのミユキの友達なんて……。強く生きてください……! Oh mon Dieu !(おお神よ!)」
憐みのあまり、思わず慰めの言葉と神への祈りがこぼれてしまっていた。
「……仲村さん。美雪さんはクリスちゃんに普段どんなひどいことを……?」
「……うん。悪気はないんだよ、悪気は。可愛がり過ぎてしまうというか、弄り過ぎてしまうというか……。あとできつく言っておくよ」
カオリと義兄が顔を見合わせて苦笑いしていると、ゆっくりと階段を降りてくる男性の姿が見えた。
足にはギプスが巻かれている。怪我をしているのに大学に来ていたのだろうか。日本人は勤勉で働き者と聞いていたけれど、それにも限度というものがあるだろう。
カオリは彼に気づくや否や、「祐介くん」と声を上げて駆け寄った。
――ユウスケ、と呼ばれたあの男性は、カオリの知り合いだったようだ。
人が大勢行きかい、雨水と泥で濡れたエントランスや階段は非常に滑りやすくなっている。
ただでさえギプスで歩きづらい中この足場は危険だ。それに私が気付いた時には、カオリは既に階段半ばまで降りてきた男性の元まで駆け寄っていて、彼の腕を支え、サポートに回っていた。
「自分で歩ける」
「駄目。ただでさえ滑りやすいんだから」
恥ずかしそうに抵抗するユウスケと呼ばれた男性に、カオリは一切引かずに世話を焼く。彼は「わかったよ……」と渋々といった様子で、彼女に身を預けていた。
そんな二人の姿を見て、恋人なのだろうかと考える。
しかし、恋人と呼ぶには二人はあまりにも自然体で、かといって家族と呼ぶのも少し違う、そんな不思議な間柄に見えた。
「超大型の台風が接近しているから、午後の講義はすべて休講になったんだ。クリス、今日はこんな中ありがとう。風が強くなる前に帰ろう」
「Oui,義兄さん。けど、あの二人はこの雨で大丈夫ですか?」
ゆっくりと並び歩いてくるカオリ。腕を組まれている男性は、その行為自体に羞恥や負い目を覚えているようには見えない。ただ、それを見られていることに対して、とても居心地の悪さを感じているようだった。
「何か手伝えることありますか?」
義兄が二人に尋ねると、カオリは微笑みながら答えた。
「お気遣いありがとうございます。けれど、私たちは大丈夫です」
それは助力の申し出を遠慮したわけでも、男性の心情を慮って断ったわけでもなく、自分と相手の状況、そして嵐の様子を加味したうえで、本当に大丈夫だと判断して出した答えのようだった。
そうでもなければ、ここまで自信をもって答えられるはずがない。
「――だって。クリス、安心したかい?」
義兄も大丈夫だろうと最初から思っていたようで、私はいらない心配と気遣いをしてしまったように思えて、恥ずかしくなった。
「それでは、私たちは台風が強くなる前に失礼します」
「うん。気を付けて。あと、美雪が卒論ヤバいって暴れてるんだ。助けてあげてくれないかな?」
「はい。いいですよ。美雪さんにはお世話になりっぱなしですからっ」
義兄と別れの言葉を交わしたカオリは、やがて静かに私と目線を合わせた。
「心配してくれてありがとう、クリスちゃん。また会えるといいね」
「――はい。カオリもお元気で。そちらの方も、お大事にしてください」
カオリの気遣いに、思わず嬉しくなる。
そんなカオリがとても大人の女性に見えて、私の理想とする、憧れる姿そのものに思えて、そんな彼女と知り合えたことが嬉しくて、思わず頬が綻んでしまったのだ。
私はぺこりと頭を下げて、二人を見送る。
そんな別れ際。カオリに支えられていた男性が私の顔をじっと見て、何か思い当たることがあるように「あぁ」と声を零した。
彼は最後に振り返ると、私に向かってぽつりと。
「――笑えるようになったんだな。……よかった」
小さく、けれど確かにどこか嬉しそうに呟いたあと、また歩き出していった。
――なんのことだろう。
私は首を傾げながら、言葉の意図を辿った。
彼といい、カオリといい、昔、どこかで会ったことがあるのだろうか。
その瞬間、フラッシュバックする記憶があった。
カオリの顔、そしてカオリによく似た綺麗な女性。
あの男性――ユウスケの顔。一緒にいた、引っ込み思案そうな少女の顔。
そうだ。
カオリともあの青年とも、私は会ったことがある。
心を閉ざし、泣いてばかりいた私を解きほぐそうとしてくれた人たち。
恩知らずな私は、彼ら、彼女らの顔をろくに見ようともせず、声も顔も記憶の彼方に置き去りにしてしまっていた――私の恩人たち。
「待って……!」
咄嗟に追いかけようとした私を、義兄の大きな手が優しく制止した。
「走ると危ないよ」
「でも……っ」
「大丈夫。いつでも会えるよ」
私は踏み出しかけた足を止め、遠くなっていく二人の背中を見送った。
一つの傘を差し、互いに支え合うようにして嵐の中をゆっくりと、けれど確かな足取りで歩いていく二人の背中。
きっと、この嵐の道を歩いてきたような、険しい道を辿ってきたのだろう。
そしてこれからも、嵐の道を歩いていくのだろう。
けれど不思議と、心配する気持ちは湧いてこなかった。
カオリの綺麗に伸ばされた背中。まっすぐ前を見る目線。その凛とした佇まいに頼もしさを覚えた私は、きっとこの先、何があっても二人は歩いて行けるだろうと思った。
私も、そうありたい。
シーコに手を引かれて歩いたあの日。
義兄に置いていかれないよう、肩を並べて歩く日々。
そして、これからの日々。
あの大和撫子を体現したような、カッコいい女性のように、歩いていきたい。
私は背を伸ばし、歩幅を義兄に合わせるように大きく、踏みしめるように、雨の中、歩を進めた。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
嵐の中でも共に歩いて行ける強さを――。クリスはそんな強さを持つ背中に憧れ、彼女のようになりたいと強く思う。次に会うときは、必ず伝えよう。感謝の言葉を。
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引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「あの日歩いたorage」 描きおろし




