この日描いた軌跡の先に
――旅立ちの朝は、静謐に包まれていた。
住み慣れた自室。日本の和室に慣れなかったあの頃が懐かしい。廊下に出る瞬間、畳が小さく沈む音がする。義兄さんの言葉通りなら、築八十年を超える日本家屋。その歴史に、僅か五年ではあったけれど、私も何かを刻めたのだろうか。そんなことを、静かに思い耽っていた。
部屋を出て渡り廊下を進む。広い中庭を望むコの字型の廊下は、澄んだ空気に満ちていた。薄い霧と草木の朝露の匂いを、肺一杯に吸い込む。遠くに見えるのは義兄さんと義姉さんの寝室となっている離れ部屋だ。仲村家の朝は早い。早起きが苦手だった義姉さんも、もう慣れたもので、そろそろ起きだして家のことや仕事を手伝い始めるころだ。
そんな時間よりも早く身支度を整えた私は、静かに玄関に向かった。
別れも見送りも、昨日の夜にすべて済ませた。
大きな荷物もすべて国際便で送り出したあとで、私は手荷物のキャリーバッグ一つを引いて、物音を立てないように靴を履く。
「本当に、見送りは行かなくてよかったのかい?」
振り向くと、寝起きの作務衣姿のままの義父さんが、式台の間から居間へと続く廊下の入り口に立っていた。
「はい。義父さん。きっと泣いてしまうので。旅立ちは、笑顔で迎えたいのです」
「そうかい」
しばらくの、沈黙。
「今まで、お世話になりました」
「うん。いつでも戻ってきてもいいから。落ち着いたら連絡をちょうだい」
もう一度だけ頭を下げて、踵を返す。
清々しい朝だった。
今日も良く晴れそうだった。
§
最寄りの駅までは徒歩だ。
田舎は交通の便が悪い。バス停はあるけれど本数は少なく、朝方はそもそも通っていない。駅もローカルな単線電車。今の時間だと始発までもう少しかかりそうだった。
田畑沿いのあぜ道を、ゆっくりと歩いていく。
先週、ナツミの娘ユウコが、ナツミに手を引かれながらこの道でぐずっていたのを思い出す。
話を聞くと、お気に入りの人形を落としてしまったのだとか。私と義姉さんとで田んぼに足を踏み入れて探して、ようやく見つけた大切な宝物。ナツミは恐縮したように頭を下げていた。ユウコはとても嬉しそうだった。歳はそろそろ三つになる年頃だろうか。しっかりと言葉でお礼が言えて偉いね、と、褒めると、とても嬉しそうに笑った。
――ユウコと名付けたのはシイコだった。アツシとシイコの母親の名前。ナツミはとても嬉しそうだった。
§
無人駅のホームで電車を待つ。
ここから都心までは長い。乗り換えの数こそ少ないけれど、一人で電車に揺られる時間は退屈そのもので、私はもっぱら本を読んで時間を潰していた。
世間では、今、スマートフォンというものが話題を呼んでいるらしい。
これ一つで通話、通信、写真、動画、音楽、ゲームや読書や道案内まで、すべてが手のひらで完結する、未来の情報端末だとテレビのCMで華やかに謳っていた。
義姉さんは目を輝かせていた。義兄さんは「高いなあ」と苦笑い。小さな息子の世話で手いっぱいで、しばらくは未来の超技術ガジェットはお預けになり、義姉さんは肩を落とす。
私だったら、スマートフォンとやらを手に入れたら、どう使うだろうか。
やはり、電車の中での時間つぶしのために、読書に使うのだろうか。
それとも使いやすいメッセージ機能があれば、電車に揺られながら、多くの友人と繋がり、他愛のない話に花を咲かせるのだろうか。
想像がつかない。
けれど、遠くにいる人といつでも会話やメッセージをテレビ通話のような機能で顔を見ながらできるのなら、それはとても素敵なことだと思った。
山や田畑ばかりの風景から、住宅地、そして都市部へと車窓が流れていく。
義兄さんたちが通っていた大学へはこの駅で降りる。私も何度か忘れ物を届けに行ったり、学園祭に呼ばれて遊びに行ったりと、この駅で降りたことがあった。
今はもう、足を運ぶことはない。
義兄さんも義姉さんも、カオリもユウスケもヒロノリも、みんな卒業してそれぞれの道を歩んでいる。
セツキとヒロノリは、去年式を挙げた。背の高い二人のタキシードとドレスの姿はとても華があり、とても幸せそうだった。
カオリとユウスケの交際はまだ続いている。カオリが保育士の仕事と出版社からのオファーに追われて中々二人の時間が作れないと、喫茶「古時計」でユウスケがヒロノリに泣きついていたのを思い出す。
セツキもフィールドワークで今は海外だ。日本は働く女性が増えた。けれどバカンスは相変わらず短い。もっともっと、大切な人との時間を持てるようになればいいのに、と、思わず願ってしまう。
通学してもいないのに、義兄さんの繋がりでこの大学には多くの縁があった。
不思議な場所だ。
ふと、車窓を水が叩いた。
雨だった。
空はあんなにも晴れ渡っているのに。
狐の嫁入り、と、カオリに聞いたことがある。お天気雨。とても優しい雨で、すぐに止んだ。
あなたの門出を邪魔させない。雨はすぐ上がるよ、と。誰かに応援されているような気がする、とても、とても柔らかい雨だった。
「――ありがとう」
口に出たのは、感謝の言葉だった。
§
やがて電車は東京の都心へと向かう。
いつものように新宿で乗り換える。
しかし、今日は渋谷では降りない。向かう先は品川だ。
途中、渋谷駅へ停車する。乗り降りで人の波が大きく動いた。
いつもなら座席を立ち、波に飲まれながら、シイコやアツシたちが待つ喫茶店へと向かうのに、今日は座席に座ったまま。それがとても不思議な感覚がして、思わず窓の外のホームへ目をやった。
本当に、偶然だった。
外を見たのも、そこに、見知った人影が立っていたのも。
「――アツシ。カスミ……」
駅のホームに並んで立つ、私の恩人たち。
カスミのおなかは、新しい命が、新しい縁が確かに息づいているという力強さを感じさせるほど大きく張っている。
空港までの見送りはいらないと言ったのに。
……いいや、駅までの見送りまでは断っていない。
まったくもう。これでは、泣いてしまうではないですか。
言葉が口から零れそうになり、私は手を振る二人に、小さく手を振り返した。
「行ってきます」
微笑みに形作られた私の表情は、精一杯の強がりだった。
旅立ちは笑顔で。
そう決めた。
だから、最後まで、私は私の意地を貫くのだ。
「やっぱり、同じ電車だった」
聞きなれた声に私ははっとなる。
……この可能性を、考えるべきだったのだ。
アツシとカスミが駅のホームまで来ている理由。
私のための見送り?
違う。
それは本当に、ただの偶然だった。
二人は彼女の見送りに来た。ただ、それだけだったのだ。
「まったく、見送りはいいって言ったのに。兄さんも義姉さんも、いつまでたっても過保護なんだから」
目の前に、私と同じように大きなキャリーを引いた親友が、立っていた。
§
フランスに帰る。
そう決めた理由は、たくさんあったけれど、特に大きなものが二つある。
一つは、祖国の土に、パパとママを一緒に埋めてあげるため。
義父さんと義兄さんは頑張ってくれたけれど、私のママは、結局古い価値観には受け入れてもらえなかった。
だからせめて、分骨として分けてもらった二人の灰を、祖国に還そう。
そう思ったのが一つ。
もう一つは、義兄さんと義姉さんの負担。
蒸し返さなくてもいいことを蒸し返してしまったせいで、今、一族からの二人への風当たりは強い。それは、私という異物が未だに仲村家で家族として暮らしていることにも関係していた。
ホンケ、と呼ばれる一番強い力を持つ家の、もっとも新しい長男に対してこの仕打ち。本当によくわからない。義父さんに言わせてみれば、一番新しい世代が自分たちの決めた世界を変えてしまうのが怖いのだという。なんて臆病な人たちなのだろう。
けれど、私が異物だという自覚は、私自身にも確かにあった。
義兄さんと義姉さんの生活の邪魔をしている。二人はそうは言っていない。むしろ、私が色々と手伝ってくれるから助かっているとすら言ってくれる。けれど同時に、義兄さんたちの心苦しさも、私は感じ取っていた。
私も成人し、どこへでも自由に行ける歳になった。新しい恋をして、そして大切な人たちと同じようにその人と一緒になり、幸せな家庭を築く。そんな選択肢もあったはずだ。
けれど私はそうしなかった。恩返し、というわけではない。私が好きであの家に残り、大切な家族を支えたいと思ったのだ。
二人はそれに罪悪感を覚えたようだった。一族からの風当たりが強くなってからは、特に。
こんな家に縛られて、幸せになる機会を逃してしまうのではないか、と。
二人の気持ちはよくわかる。そして二人も、私が好きで二人を支えたいのだとも理解してくれている。それでもやはり、家族というものは、父や兄や姉というものは、末っ子の、同じ家族の将来を心配してしまうものなのだ。
パパとママのための帰国。よい機会だと思った。日本とフランス、幼くして二つの国籍を持っていた私が、どちらを選ぶかの期限が迫っていた、というのも後押しをした。
私は旅立ちを決意した。
フランスへ帰り、私はそこで、生きていこう、と。
それを話した時、義父さんは私を強く抱きしめたあと、少し待っていなさいと言って書斎へと向かって行った。
持ってきたのは、様々な書類。そして、フランス語で書かれた権利書だった。
「クリス。君がどんな未来を選んでもいいように、ご両親の遺産は――君に託されたすべては、そのままにされている」
私は言葉を失った。
パパとママが遺したもの。そこには、私が生まれ育った、あのフランスの郊外にある、パパとママが経営していた小さなパン屋、その家も含まれていたのだ。
「人を雇って、定期的に維持管理はさせているから、すぐにでも暮らせるはずだ」
私は感極まって義父さんに抱きついた。
ありがとう、ありがとう、と。何度も何度も感謝の言葉が涙と一緒に零れ続けた。
私の旅立ちは、多くの人に驚かれた。
けれど、誰一人反対しなかった。
みんな祝福して、送り出してくれた。
そしてこの時。
私の親友も、一つの大きな決断をしていた。
§
「シイコ。空港で待ち合わせのはずでは?」
「仕方ないじゃない。同じ電車に乗り合わせる。そういうこともあるよ、うん」
確かに、待ち合わせ時間に間に合う電車を選んでいるのだから、そういう偶然もあるかもしれない。
けれど同じ車両に乗り合わせるだなんて、運命めいたものを感じてしまう。
「クリス、山手線に乗り換えるとき、いつも同じホームの同じ場所から乗るでしょ。分かりやすくて助かっちゃった」
「それはもう、偶然ではないのでは?」
舌を出すシイコ。
これではいつかのように待ち合わせをした意味がないではないか。
「じゅまぺーる、しーこ。じゅ ぶぃあーん でゅ じゃぽーん。あんしゃんてっ」
簡単なフランス語ハンドブックを手に、今更な予習をしだすシイコ。
その語学力は、会った時からあまり進歩がなかった。
「変わりませんね、シイコは。観光地でもあるパリ近郊では英語も通じますから、困ったら英語を使うほうがよいでしょう」
「うへぇ。私、英語も苦手……」
「実に日本人ですね、シイコは」
「基本的な挨拶は完璧なのになぁ。Bonjour, Au revoir, Merci beaucoup, S'il vous plaît, Excusez-moiに、C'est très bon !」
「私のモノマネだけは、うまくなりましたね」
「ずーっと、聞いてたからね」
シイコもまた、生まれた街を離れて旅立つことを決めた。
行先は私と同じ。
私について行くと言い出した時は、驚きよりも先に喜びがきてしまった。
だから、私に反対する資格なんてないかもしれない。
けれど、会うたびに確認せずにはいられなかった。
「……本当に、よかったのですか?」
「うん。いいの。私がそうしたいから」
「頑固ですね、シイコは」
「クリスには負けるけどね」
「言いますね」
くすり、と。二人同時に笑みがこぼれる。
「古時計は大変ですね。看板娘が退職してしまっては」
「新しい看板娘がめきめき実力をつけていますので、ご安心を~。お局様は若い子のために潔く身を引くのです」
「殊勝なオツボネサマですね。私の見たドラマだと、だいたい意地悪な役回りでしたが」
「クリス、そんなねちねちしたドラマばかり見てるの? もっと楽しいの見ようよ」
「見ていますよ。最近、夜更かしが止まりません。いいものです、日本のアニメというものは」
「深夜アニメ? 美容の敵だよ! ちゃんと寝なきゃ!」
「そうですね。向こうでは、気をつけます。シイコを夜更かしには巻き込まないので安心してください」
「なら安心!」
やはり私は、シイコと一緒にいる時間が、とても落ち着く。
「Merci d'être là pour moi.(そばにいてくれて、ありがとう)」
かけがえのない親友が隣にいてくれることへの感謝は、いつだって、フランス語で零れる。
「De rien, ma chérie !(どういたしまして。大好きな親友!)」
歯を見せて笑うシイコ。
面と向かって言うのが恥ずかしくてフランス語を使っていたのに、いつの間にか、正しく伝わるようになっていた。
なんでこういう返事だけ、流暢なフランス語で返すのだろう。
それだけシイコは私のことを見て、私の言葉を聞いていてくれたのだという証明でもある。
そのことを嫌でも自覚させられて、私はまた恥ずかしくなり、顔を背けてしまうのだった。
§
品川で乗り換えた私たちは、羽田空港まで辿り着いた。
長旅だと思っていたけれど、過ぎてみればあっという間だった。
これから飛行機で海を越えて、パリへと向かう。
「ここからが長いんだっけ?」
「ええ。半日以上かかります」
シイコが辟易したように呻いた。無理もない。聞けば、シイコにとって初めての海外なのだという。十五時間も飛行機に閉じ込められることが想像できずにいて当然だ。
「よう、お二人さん。奇遇だな!」
聞きなれた声がして、私とシイコは思わず振り返った。
「楓佳さん!?」
「フウカ、なぜここに!?」
そこには、ラフなシャツとハーフパンツという軽装に、派手なサングラス。そして登山用か何かのような大きなリュックを背負ったフウカが立っていた。
見送りはいらないと伝えていたはずだ、なんて考えは浮かばなかった。
フウカの風貌は、明らかに見送りに来た人のそれとは違う。
「まさか、フウカも一緒にフランスへ行くなんて言いませんよね」
「ああ? そんな洒落たとこ行かねえよ。オレが行くのはアメリカだ!」
「旅行ですか?」
「いいや? 日本にゃ戻らねえ。アパートも引き払ったし、この身一つでアメリカンドリーム、掴んでくるぜ!」
またこの人は突然何を言い出しているのだろう。
頭が追い付かない。突拍子もないことをしでかすのは義姉さんだけにしてほしい。
と、そこまで考えて思い出す。
そうだった。この人は義姉さんの憧れの人。
つまり、めちゃくちゃをしでかす側の人間だった、ということを。
「急に、何を言ってるんですか? 楓佳さん。初耳ですよ」
「おう。誰にも言ってねえからな。厚志や瀬月にも」
「どうして突然……?」
「まあ、きっかけはお前たちだけどよ」
……なんとなく、察した。
新しい門出を迎える私たちに触発されて、自分も旅に出たくなったのだろう。
「まあ、そんなところだ。ちょいと世界ってのを見てこようと思ってな!」
にかっと、少年のように笑うフウカ。
もう三十近いはずなのに、そのバイタリティは見習うべきものがあるのかもしれない。
「もう、楓佳さん、そんな少年漫画のライバルキャラみたいなこと言って……。兄さんや瀬月さんに教えなきゃ……」
大きくため息をつくシイコ。
私はそんなシイコの肩を叩き、フウカを見た。
「また会えますか?」
「ああ。同じ地球に住んでんだ。縁があれば、いつか必ず、な」
「それなら、安心です。行ってらっしゃい、フウカ。良き人生を」
「ああ。お前たちもな。元気でやれよ」
踵を返し、去っていくフウカの背中を、私たちは見送った。
遠く離れていても、きっと大丈夫だ。
そう信じられるからこそ、私もなんの不安もなく、旅立つことができるのだから。
§
長い、長い旅が終わる。
――あの日故郷を離れた日から。
いくつもの夜を越えて。
――その日繋いだ絆たちを胸に。
果てしない旅を終えて、私は帰郷を果たした。
そしてそれは。
新しい旅の始まりでもある。
§
「着いたあ~!」
シイコがうんと背を伸ばす。
飛行機で缶詰になること十五時間。そしてパリのシャルル・ド・ゴール空港から電車で揺られること五十分。
パリ南西に位置する、小さな田舎町。
私が生まれ育った町。
案内板や自動改札が近代化していたり、バリアフリー化が進んだりしていて、駅の内側はずいぶんと変わってしまっていたけれど。
駅を出た先の駅前広場や、振り返り見上げるレンガ造りの趣のある駅舎はそのままで。
私を待ってくれていたように、記憶に残るその景色は、変わらずにいてくれていた。
「ちょっと肌寒いかな……? けど、空気も澄んでていい感じ!」
「日本と違って湿度が低いので、からっと晴れた日でも過ごしやすいですよ。……こっちです。荷物、忘れないようにしてください」
「うん」
大きいキャリーバッグを引いて私のあとをついてくるシイコ。
「ここから歩くの?」
「三十分ほど」
「そんなに!?」
「大丈夫です。遊歩道は整備されていますし、今日はよく晴れています。ちょっとした散策気分で歩けばすぐです」
「そっか。じゃあ、あと少しだけがんばる」
二人肩を並べて歩く。
駅前の街並みを少し外れると、すぐに目の前が大きく開けて、森林部と草原地帯が待ち構えていた。
「うわあ、すごい! いきなり広い! おしゃれな古い町並みも素敵だったけど、こっちもいい!」
「のどか、でしょう?」
「うん! クリスの住んでた村と、雰囲気ちょっと似てるね」
「ええ。そうですね」
仲村の家。古いしきたりは好きになれないけれど、義父――いいえ。父さんと兄さん、そして姉さん。それと豊かな自然は、今でも大好きだ。
「少し離れていますけれど、古いお城もありますよ」
「えっ! うそっ! 見たい!」
「落ち着いたら、行きましょう。今は届いているはずの荷物の荷ほどきをしなければ」
「楽しみ!」
手を繋ぎ、同じ大きさのキャリーを引きながら、長い遊歩道を歩いていく。
自然と、鼻歌が零れた。
ママが好きだった歌。
そして、今でも大好きなその歌を口ずさんでいく。
「クリス、その歌好きだよね」
「ええ。とても」
「歌と言えば、私も負けていられないかな」
シイコは、うーんとしばらく思案したあと。
―――あの日聴いた、唄をたよりに―――
「poèmeですか?」
「うん。そう、ポエム。詩。何か、新しいことを始めようと思って」
「いいんじゃないですか? 思いついた、素敵な言葉を口ずさみ、書き留める。シイコに合っています」
「クリスもやってみてよ」
「……センス、ないですよ?」
「いいのいいの! 笑ったりしないから」
「それでは……」
―――あの日見上げた、空を想う―――
「あ、いい感じ! 素敵! いい感じに繋がりそうだし!」
「このくらいなら、誰でもできます。詩は、韻やリズムが大切で――」
「じゃあ、次は私!」
―――あの日流した、想いの吐露を―――
「シイコ? あの日って、なんですか。頭の言葉を縛っているのですか? 韻って、そういうことではありませんよ?」
「えー? クリスが続けたんじゃん」
「待ってください、連作とは聞いていません」
「はい、クリス! ちょっと切ない感じに、どうぞ!」
「え、あ、う……ん」
―――あの日忘れた、夢に託す―――
「いい感じいい感じ!」
「いい感じ、ですか? いい感じに迷走を始めたような気がします」
「他にもさ、記念品とか思い出を思い起こすものとかいいかも! 嵐とか、満月とか、そういう自然を題材にして――」
「とっ散らかってますね。嵐なら、雨。満月なら、月でいいじゃないですか。色々な雨や月の形があります、表現の幅も広がりますよ」
「やばいよクリス! そう言われると、どんどん浮かんできちゃう! 朝雨、春雨、時雨に五月雨……」
「日本の雨は、表情が多彩ですね」
「月だってそうだよ。朧月夜! ぼんやりしている人の顔を思い浮かべる情緒あふれる夜! 月に吠えろー! とか、アクションもできそう! 冴えた月なんて、神秘的で明るい月の光に照らされて、すごくロマンチックだし……!」
「恋愛ものなのですか? バトルものなのですか? ジャンルが迷子です」
「あとさ、クリス! こんなのどうかなあ!」
「急ぎますよ、シイコ。日が暮れてしまいます」
「あーん、手を引っ張らないでー。零れちゃう、アイディア零れちゃうからーっ!」
§
長い、長い、路を征く。
――あの日故郷を離れた日から。
いくつもの朝を迎えて。
――その日紡いだ縁たちを胸に。
二つの手と影を重ねて。
どこまでも、遠く、高く、声を響かせて。
――この日描いた軌跡の先に。
幸せな日々があらんことを。
END
全20話とエピローグ、最後までクリスや椎子たちの歩みを見届けてくださり、本当にありがとうございました。
フランスの空の下で新たな一歩を踏み出した二人は、これからもきっと笑い合い、時にとっ散らかりながら、瑞々しい物語を紡いでいくのだと思います。
読者の皆様にとっても、雨の日の夕暮れや、澄んだ満月を見上げた時に、ふと彼らのことを思い出していただけるような物語になっていれば幸いです。
作品へのレビューや評価(★)、お好きなエピソードへの応援コメントなどを残していただけますと、明日からの大きな励みになります。
またいつか、次の物語でお会いしましょう。
【初出】
「この日描いた軌跡の先に」 2026 描きおろし




