あの日探したsouvenir
「Est-ce que vous êtes Christine?(君がクリスティーヌですか?)」
大きな事故で両親を亡くした私が措置的に預けられていた施設で過ごしていたある日のことだ。
流暢なフランス語で私に話しかけてきた初老の知らない男の人は、パパの兄……私の伯父を名乗る人だった。
「Le japonais?(日本語は?)」
「……少しだけ」
私は伯父と施設の職員に手を引かれ、テラスのテーブルに着く。遅れて、他の職員が紅茶を淹れてきた。今日はじめて見る伯父と向き合いながら飲む紅茶は、何の味も香りもなく、味気ないものだった。
紅茶を口に含みながら、私は対面に座る私の伯父を名乗る男性に目をやった。紅茶の香りを堪能した後に一口含み、「うむ、淹れ方に工夫がある。ポットやティーカップを温めていたのかな?」と、ご機嫌に私に微笑みかけてくる。
精悍からかけ離れた温和そうな顔に無精髭を無造作に伸ばしているこの男性は、一見すると頼りない、どこにでもいる普通の中年のオジサンに見えなくもない。けれど、スーツの着こなしやちょっとした身振りや仕草にはどこか気品があって、どことなく私の父に似ていた。
「さて、と」
伯父はカップを置いて一息ついた。
「率直に言うよ。……私の家に来ないかね」
そして何の前振りもなく。伯父は唐突に、いきなり話の核心を口にした。
「ここや大使館の職員さんから話は聞いていると思うけれど、クリスティーヌ。キミにはフランスに親族がいない。戻ったところでキミの身柄は向こうの児童社会援助に引き継がれて、今と同じ施設暮らしを経て、里親に引き取られる日を待つだけだろう。あるいはキミの歳だ、すぐに就職に向かうかもしれない。……どうだろう? 一つの選択肢として、日本で暮らしてみる気はないかね?」
その提案はどこも魅力的ではなく、ああ、そうなんですかと聞き流す程度のものだった。
ただ、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、日本で暮らすという言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が脳裏を過ぎった。
あの日、あの事故現場で泣いていた私に話しかけ、そして謝った人。彼は今でも時々この施設に足を運んでは仏和辞書を片手に私の話し相手になってくれている。
彼のおかげで私も少しは日本語を理解できるようにはなったし、それに今度、彼が私と同い年の妹を連れてくると言っていた。この施設で友達のできない私への気遣いは素直に嬉しかったし、知人のいないこの国に、少しでも私を知ってくれる人ができるのならそれはとても嬉しいことだとも思った。
私は頭を振った。
それがとても嬉しいことだとしても、私は頷かない。頷けるわけがない。
この小さな島国には何もない。
パパとママとの思い出も、二人が生きていたという証も、これから生きていくための糧となりうるものも。
あるのは大きな事故の残滓と、パパとママを失ったという深い悲しみの記憶だけだ。
私は自分の生まれた国に帰りたい。
あの街、あの風、あの景色―――二人が生きていた、すべての軌跡が残るあの家へ。パリの郊外にある小さな田舎町の中の、パパが経営していた小さなパン屋へ。
私は、幸せだった頃の思い出だけで生きていける。幸せな記憶だけを抱いて、静かに暮らしたい。
「そうか」
私のその言葉を聞くと、伯父を名乗るその男性は特に落胆した様子もなく笑顔で頷いた。
「それがクリスティーヌの選んだ道なら、私は何も言えないよ。しかし。しかしだ、一度だけ――そう、一度だけ私の家に遊びに来ないかね?」
「……どんな歓迎を用意しても、私の考え、変わりませんから」
「うん。構わないよ。ただ、私には息子がいてね。君より年上で歳も離れているけれど、一応従兄という間柄だ。一度会って挨拶してから向こうに戻っても遅くはないだろう?」
私は答えなかった。それが応えでもある。好きなようにすればいい。私の考えは、変わりはしないのだから。
§
伯父は手際がよく、すでに外出許可を施設のほうから取っていたようで、私はその日の午前中には伯父の家に向かうことになった。けれど、その家に着いたのはとっくに正午を過ぎた午後三時くらいだった。日本の交通は不便だ。距離そのものはたいしたことないはずなのに、なぜこうも時間が掛かるのだろう?
東京の末端、県境に位置する小さな町だった。私の住んでいた町と同じように、静かで、自然に溢れたいい場所だった。
「何もない場所だろう?」
「……都会のごみごみした空気よりいい」
「そうか。君がフランスに住んでいた時の町はどんな感じだい?」
「田舎。静かで、空気が良かった」
「なるほどね。アイツ、窮屈なのは苦手だったから」
伯父の「アイツ」という言葉に、私は思わず過剰に反応してしまった。伯父のいう「アイツ」……私のパパのことなんだと直感的に分かった。
「どうしたんだい?」
勢いよく振り向いてしまった私に小首を傾げる伯父に「なんでもない」と伝え、私は伯父の近所紹介を聞き流しながら黙ってそのあとについていった。
そして着いたのは、いかにも雑誌や映画に出てきそうな、日本の古く大きな家だった。ニンジャやサムライやゲイシャが出てきてもおかしくない、そんな佇まいの大きな門をくぐると、池の付いた大きな中庭が現れた。日本の家屋の庭は基本的に狭いって学校で聞いたことがあったけど、あれは嘘だ。だって、近所で一番のお金持ちで、大きな犬を飼っているシンディのおうちの庭よりも大きいではないか。
私はそんな驚きを悟られないように平静を装ってその庭に足を踏み入れた。けれど、伯父がふと零した微笑が癇に障った。私のことなど何でもお見通しといった感じで私のことを見ている。
私は思わず顔を背けた。不貞腐れたのかもしれない。そんな顔をしていいのはパパだけだ。同じように笑うな。
――私の思い出の中にあるパパの笑顔を塗りつぶすように……笑わないでください。
リビングと呼べる居間という部屋に通されて、私は座布団の上に腰を下ろした。
しばらくして、ふすまが開き、お茶とお茶菓子を持った若い男性が現れた。
彼が、伯父の息子――私の従兄にあたる男性だった。
「はじめまして、クリス。遠いところからよく来てくれたね」
自己紹介を受ける。名前はコーキ。穏やかに微笑むコーキのその佇まいを見て、私は思わず息を呑んだ。
優しげな目元、ゆったりとした口調、そして何よりその空気が、パパにあまりにもよく似ていたのだ。
胸の奥がきゅっと締め付けられる。パパの代わりなんて、どこにもいない。そう思っていたのに、遠く離れた日本のこの家に、パパの面影が色濃く残っていることに私はひどく困惑した。
これ以上ここにいたら、決心が揺らいでしまう。
私は出されたお茶に手もつけず、立ち上がった。
「……私、フランスに帰ります。日本には、住みません」
あまりにもパパを思い起こさせるその場所にいるのがいたたまれず、私は意固地になって提案を却下した。
そしてそのまま、逃げるように施設へと戻ってしまったのだ。
§
日本の児童福祉施設からフランスの児童社会援助へと引継ぎが進められ、大使館で緊急渡航書の発行が行われた。
帰国のスケジュールが一週間後に迫った、ある日のことだ。
面会室で待っていた私の前に、一人の少女が現れた。
「あ、あんしゃんて! じゅまぺーる、しーこ、ないすとぅーみーちゅーよろしくね!」
みょうちくりんな挨拶をしてきた彼女は、いつも顔を見せて話し相手になってくれる「あの人」の妹で、シーコと名乗った。
兄に「友達になってくれ」と言われてやってきたというシーコ。けれど、肝心のあの人は今日は来ていなかった。とんだ肩透かしだ。
私はつまらなそうにため息をつき、わざと彼女をないがしろにするような態度をとった。早く帰国したい私に、今更日本の友達なんて必要ない。
しかし、シーコは私のそっけない態度を気にする風でもなく、根気よく日本語で話しかけてくる。そして面会時間が終わり、別れ際になると明るく言った。
「また明日も来るね!」
あんな塩対応をしたのだ。もう来ないだろう。そう思っていた。
だが翌日、シーコは宣言通りやってきた。しかも、見知らぬ知り合いを連れて。
「よお、邪魔するぜー」
「ふむ、君が椎子の友人か。よろしく頼む」
ちょっと怖い大人の女性が二人。
さらに翌日、また違う知り合いを連れてきた。今度は小柄で少し騒がしい女性と、昔映画で見た侍みたいな男性だ。
「……名瀬。なぜ俺はここに? この二人の少女は誰なんだ……?」
「あんたは今日来れない光輝の代役! さっ、ピエロのごとくこの子たちを楽しませてー!」
「まるで意味が分からんぞ!」
その翌日も、また違う人を連れてくる。
「こんにちは。話は聞いているわ。椎子ちゃんのお友達ですってね? 仲良くしましょう」
「はじめまして。まだ日本語慣れてないのかな? そう思って、ペネロペの絵本持ってきたんだけど……」
大人の魅力が詰まった女性と、黒く長い髪が美しい、絵に描いた日本人そのものみたいな女性。二人は姉妹らしい。
さらに翌日は、学校の先輩だという二人組。
「……うっす。なんか連れてこられた。俺はどうすりゃいいんだ?」
「祐介君、そんな顔じゃ怖がっちゃうよ。……外は雨だし、トランプでもする?」
ぶっきらぼうで無理やり連れてこられたのを不満そうにしている男の子と、おどおどしながら男の子の手を引いてくる女の子。
そしてその翌日は、仕事ができそうな大人の女性と二人でやってきた。
「椎子ちゃんのお友達ね。あたしなんかに何ができるか分からないけど、遠慮なくなんでも言ってね。あ、梨を持ってきたのよ。剥いてもらって、みんなで食べましょう」
代わる代わるシーコに連れられてやってくる人たち。正直、名前も顔もよく覚えていない。
ただただ毎日飽きもせず私の前に人を連れてきて、この子は何がしたいのだろうという疑念だけが募っていき――ついにそれは、ある日爆発した。
「いい加減にして。一体何が目的ですか」
自分でも驚くほど冷たい、彼女の知らない私の言葉で、私はシーコを突き放した。
怒らせてしまっただろうか。これでやっと、静かになる。そう思ったのに。
シーコは一瞬だけ目を丸くしたあと、「よかったぁ」と安堵の息を吐いたのだ。
「やっと、おしゃべりしてくれた」
そしてシーコは、たどたどしい、けれど一生懸命なフランス語で、私にこう言った。
「じゅ、ぶっ、えーとぅる、とん、なみっ!(Je veux être ton amie!)」
――お友達になりたいの!、と。
今度は私が目を丸くする番だった。
何を、一方的に。そんなの頼んでない。
そう言い返そうとしたはずなのに、出てきたのは言葉ではなく、涙だった。
せき止めていたものが決壊したように、とめどなく涙が溢れ出てくる。
おかしい。止まらない。
もう悲しんで泣くのはやめようと思ったのに。
全部全部、吐き出したはずなのに。
私自身、何が何だか分からなくなって困惑して、止めようとすればするほど更に涙は止まらなくなって、ついには声を上げて泣き出してしまった。
職員の人が何事かと駆け寄ってくるまでの間、シーコはずっと私の肩を抱いて、慰めてくれていた。
その体温がとても暖かくて、安心できて、私はその夜、事故以来はじめて、深い眠りにつくことができた。
§
翌日、私の帰国が延びた旨が伝えられた。
原因は私の精神状態が不安定だから。
……余計なお世話だ。けれど、フランスから来てくれてずっと親切にしてくれていたソーシャルワーカーの人が、「ゆっくりでいい、焦らず、あなたの気持ちが落ち着いてから帰りましょう」と言ってくれたから、それに従うことにした。
そのあいだもシーコは遊びに来てくれていた。職員の人に追い返されそうになっていたのを、私が声を荒げて彼女を無理やり私の部屋に通した。
シーコはびっくりしていたけれど、「またおしゃべりできるね」と、昨日の私の醜態には触れず、自然と接してくれた。それがとても嬉しかった。
シーコとの交流は続いた。あの人も二日に一度はシーコと一緒に様子を見に来てくれて、私に優しくしてくれる。
ついでにミユキという小柄な女性。どうやら従兄であるコーキのガールフレンドらしく、ことあるごとに私を妹扱いして猫かわいがる。もしかしたら私をからかって玩具にしているのかもしれない。正直苦手だ。だけど、こまめに会いに来てくれる私の貴重な知り合いになった。
そうこうしているうちに、私の帰国の日程が迫っていた。
賑やかで騒々しい日々だったけれど、嫌ではなかった。
ごはんもおいしく感じるようになったし、夜ちゃんと眠れるようにもなった。
少し名残惜しいけれど、それももう終わりだ。
私は祖国に帰り、父と母の思い出の詰まった町で、静かに、静かに、二人の面影の中で暮らすのだ。
――ふと、言い知れない恐怖を感じた。
怖い。怖い、怖い、怖い。
なにがこんなに不安なのか、何がこんなに怖いのか、分からなかった。
布団にくるまって、がたがたと震えて、そこではじめてあの温もりが、シーコやミユキがいないことに気が付いて、私は泣いた。
小さな子供のように。
一人は嫌だ。
寂しいのは嫌だ。
故郷に一人。もうすでにいないパパとママの面影だけを手に、ずっと寂しく過ごすのかと考えるだけで、頭がどうにかなりそうだった。
深夜、施設の人と相談師の人が声を掛けながらずっと寄り添ってくれた。
どうしたの。ゆっくりでいいから、教えて。根気よく話しかけてくれた彼らに、私は嗚咽交じりに、絞り出すように懇願した。
「二ホンで、くらしたい」
「みんなと一緒にいたい」
「ひとりはいやだ。さみしいのは嫌だ」
翌日。伯父と従兄はすぐに来てくれた。
顔を合わせ辛かった。最初一緒に暮らすことをあんなに意固地に断ったくせに、今更日本で暮らしたいだなんて、ずうずうしいにもほどがある。
けれど伯父はそのことには何も言わず、「よく決心したね」と微笑み、私の頭に手を乗せて優しく撫でながら言うのだった。
「あとは全部、任せなさい」
§
そして私は明日、帰国の日を迎える。
フランスで暮らすために帰るのではない。
伯父と――いいや、これから義父となる人と一時的に帰国し、遺品整理と様々な手続きを経たうえで、私はまたこの地に帰ってくる。
これは、そのための旅路だ。
「よろしく、お願いし、ます」
ぺこりと、今日の外出に同行してくれる福祉司の人に頭を下げる。
「そうかしこまらなくて大丈夫よ。今日の目的はお買い物だったわね」
福祉司さんの日本語を一緒に同行する相談員さんが通訳してくれたけれど、私には日本の福祉司さんの言葉がしっかりと聞き取れていた。
パパがたまに使っていた言葉。そして、シーコがたくさん話しかけてくれた言葉。私がこれからたくさん覚えて、使っていくであろう言葉。
「お世話、なったひとたちに、オミヤゲ買うのです」
「そうなの。きっと喜ぶわ」
笑顔で頷いてくれる福祉司さん。けれどその隣で、相談員さんが「Souvenir?」と首を傾げた。
「Un "Omiyagé" ? …Tu veux dire un souvenir ? Comme une carte postale ?(お土産? それって、絵葉書のような記念品でいいの?)」
「Non! C'est différent. C'est un cadeau plein de cœur(違うの! それは、たくさんの心がこもった『プレゼント』なの)」
「ああ。それはですね、日本のお土産には、お世話になった相手に普段のお礼を込めて渡すという意味も込められているんですよ。きっと、そちらの意味で使っているのでしょう」
「なるほど、納得しました。そうですね。J'espère que tu vas trouver un joli"Omiyagé" , Christine.(素敵な"プレゼント"が見つかるといいわね)」
「Oui, Omiyagé!」
せっかくだから、とびきりかわいいオミヤゲを探そう。
キレイでかわいい缶につまったサブレ、ガレットなんてどうだろう。
近くのお店に売ってるだろうか。
シイコは喜んでくれるだろうか。
意気揚々と、私は新しい私への一歩を踏み出した。
§
時が経ち。
あの時私が一生懸命探して見つけた、ガレットのつまっていた可愛い星柄の缶は。
私たちが出合い、今日まで歩いてこれた、あの日々の始まりをいつでも思い出せるように。
シイコ達が営む喫茶店のカウンター内に、記念品のように今でも綺麗に飾られているのだ。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
縁の始まりの日。差し伸べられた数多の手に少女が気付くのは、もう少し先の話。
もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。
引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「あの日探したsouvenir」 描きおろし




