朝雨
「私はね、祐介君。雨上がりのあとの、澄んだ空気と高い空が好きなんだ」
およそ二年ぶりに会った藤原は、窓の向こうで霧雨のように舞っている雨を眺めながら言った。
窓の外は雨のせいもあるが、朝方ということもあって薄暗い。そんな景色を細い目で眺める藤原は、聞こえない雨音に耳を澄ましているようにも見えた。
「止まない雨はない。いつか必ず晴れる日が来る。だから私は、雨が好きなんだと思う」
どこか悟りを開いているような柔らかい目。それが不意に俺に向けられ、俺は思わず目をそらした。
「永遠なんて、ない。雨はいつか上がる。晴れた空もいつかは曇る。それは楽しいことも、悲しいことも、全部ひっくるめて、永遠じゃあないんだよ」
一句一句、問いかけるように言葉を紡ぐ藤原に、俺は目だけ向けて鼻を鳴らす。そんな分かりきったことを、子どもに諭すような口調で言う藤原に苛立ちを覚えた。
「こういうの、無常っていうんだよね。変わっていくこと。いつか終わってしまうこと。川の流れのように、それか、雨のように、流れて、消えていっちゃう」
そんな無常観を語る藤原の顔に影はなかった。俺が毒気を抜かれるくらい穏やかな微笑が、ただそこにあった。
「だから、ね? 祐介くん。私は世界のすべてが好きだったんだ」
§
―――香織と別れよう。ようやくのように決心がついたのは年末の話だ。
「―――別れよう」
電話の向こうで、香織が唖然と息を飲むのが雰囲気で分かった。電話の向こうで彼女は、「どうして?」と、思ったよりも冷静な声で言った。だから俺も変にテンパらず、あらかじめ用意していた免罪符にならない程度の言い訳を、まるで原稿でも読み上げるように淡々と口にできた。
ちょっとしたことで喧嘩が絶えず忙しなかった俺達の関係は、拍子抜けするほど呆気なく、静かに終わった。
§
「それじゃあ本当に別れちゃったんだ」
高校以来会うことのなかった幼馴染は、まるで見てきたかのような口調で、あららと顎に手を当てながら特に困った素振りもなく言った。
……俺の勝手だろう。
突き放すように言い捨てると、藤原は「うん、勝手だよね」と言葉を添える。「もったいないとか思ってる?」という問いに、俺は無言でもって答えた。
もったいないとか、そんな問題ではない。
俺の自己中心的な身勝手で、一方的に別れ話を突きつけたのだ。
俺には後悔する資格などない。
「その付き合っていた女の子って、どんな子だったの?」
……なんで、そんなことを聞くんだ。お前には関係ないだろう。
「なんで? ……うーん、なんでだろうね」
藤原は小首を傾げながら真剣に考えて、
「きっと、祐介君のことを知りたいからだと思う」
俺をまっすぐ見据えて、言った。
「私がいない間に、祐介君はどんな人と出会ったのかなあ、って。どんな経験をしたのかなあ、何を考えて、何を思ったのか。何で――別れることになったのか。私はただ、知りたいだけなの」
§
思いがけなくも雨の降った、夏のある日のことだ。
「―――幽霊って、いると思うか?」
「幽霊?」
バスの停留所の屋根を叩く雨音のリズムに自分の鼻歌を合わせていた香織は、しばし思案してから「もしいたら素敵ね」とはにかんだ。流石は童話作家志望、放っておいたら幽霊を見つけたら捕まえるだとか、友達になるだとか平気で言い出しかねない。
「けど、祐介くん。どうしてそんなこと訊くの?」
香織はしばらく「祐介くんらしくないよ」とか、「お化けの出てくる夢でも見た?」と、好き勝手言いながらからからと笑っていた。俺らしさって何だ。そんな、ガキでもあるまいし。投げやりに答えながら、俺は自分でもどうしてそんなことを呟いたのか分からなかった。
ただの雨宿りの合間に思い浮かんだちょっとした話題だったのか、それとも俺自身自覚のないまま彼女に何かを示唆したかったのか。その時はあまり気にも留めず、年上だというのに俺にまで敬語を使っていた香織が、苦労の甲斐あってようやく敬語を使わなくなったことにある種の満足感を覚えていた。
俺はそのことで香織をからかいながらその長く綺麗な黒髪を弄り、疑問を心の奥底に沈めた。
§
「いい子そうな子だね。ちょっと、私と気が合いそう」
それは確かに。俺は心中頷く。香織の頭の中はどこかぽやぽやしていて、その構成の何割くらいはきっとメルヘンでできているはずだ。世界の綺麗なものを素直に綺麗だと感動できる感性を持っている。だからきっと、雨が好きだと臆面もなく言ってのける藤原とも話が合うに決まっている。
「喧嘩とか、多かったの?」
藤原の言葉に俺はほどほどにと曖昧に返した。喧嘩は確かに多いほうだとは思うが、付き合い自体が荒んでいたわけではない。楽しいこともたくさんあった。そばにいると落ち着く。安らげる。その優しさに甘えていた部分もあったけれど、それに応えるべく、俺は彼女に対してできることを探して、なんだかんだ交際は一年続いた。
「別れてみてスッキリした?」
藤原には喧嘩ばかりの毎日にうんざりして別れに踏み切ったように見えるのだろうか。ならば、それでもいいと思った。単なる、どこにでもある普通の喧嘩別れ。別れた理由にしてみれば至極分かりやすい。
……まあ、肩の荷は下りたな。
藤原の問いに、俺は嘘でもって答えた。そうでなければ別れた意味なんてない。自分すら騙し切れない嘘だが、目の前のぼんやりした女の子一人騙すくらいはできるだろう。
「そっか。祐介君がすっきりしたのなら、それでいいと思うよ」
険しい顔なんて一切見せずに藤原は笑った。
……お前、変わったか?
「どうして?」
お前はもっと、泣き虫で、おどおどしていて、そのくせお節介な奴だったはずだ。おまけに、考え方が古いというか、なんていうか……。中学の頃だって、クラスの男が女と付き合いだして三週間で別れたって話を小耳に挟んで、渋い顔してたじゃないか。
てっきりお小言の一つか二つ、ひょっとするとお節介を焼いて俺に説教を垂れるかと思った。
「祐介君が、別れてそれで納得がいっているのなら、別にいいんじゃないかな?」
俺の予想と裏腹に、事も無げに藤原は言い切った。
「逆に、お互いに負担になりながら付き合い続けるほうが不健康だよ? 祐介君もまだまだ若いし、あと腐れなくすっぱり別れて、次の恋愛見つけたほうがよほどか健全で建設的」
藤原からそんな客観的な言葉が出てくるとは思いもしなかった。しかも、人のことを若者呼ばわりまでしている。しばらく見ないうちに、頭の中がぽやぽやしていた幼馴染は壮大な人生経験を積んで老成し悟りを開いていたとでも言うのだろうか。
俺が怪訝な目で見ていると、藤原はへらりと笑いながら「祐介君もそう思っているんじゃないの?」と言った。
―――確かに、喧嘩も絶えなくて、正直俺と香織は相性が悪かったと思うところもある。だらだらと惰性に半端な付き合いを続けるよりか、よっぽどマシだ。
自分で自分を肯定して、なぜか虚しさばかりが込み上げてきた。藤原も俺の決断を肯定的に捉えてくれた分性質が悪い。
何だというのだ、俺は。藤原に説教をされたかったとでもいうのか。俺は責められることを望んでいたとでもいうのか。
「それで、別れを切り出したのは祐介君だよね? どんな理由で別れようと思ったの?」
ちょっとした世間話のように、藤原は問いかける。俺はまだ理由を口にしてはいない。できれば永遠に口を噤んでおきたかったが、まあいい。
……癪に障った。ただそれだけ。耐え切れなくなった。そりが合わないって言うのか? 相性が悪かったんだ。
藤原は柔らかい表情を崩さずに聞き入っていた。そんな藤原の態度が、何故か癪に障った。
俺は自分でも嫌になるほど自己中で独占欲が強かった。
だから、これはただの俺の我侭だ。香織の在るがままを受け入れられなかった。だから香織に非はない。ただの俺の自分勝手な身勝手なんだ―――。
独白にも似た俺の懺悔を聞いてなお、藤原の表情は崩れなかった。
藤原は、あくまで笑顔のまま、
「なんだか、必死だね」
まるで小さな子どもでも見るような、微笑ましげな顔で言うのだった。
「まるで、無理に自分の悪いところを並べているみたい」
―――と。
藤原は、目を細めてにっこりと笑った。
その表情が、俺に「何を――隠そうとしているの?」、「何に――怯えているの?」と問いかけているような気がした。
§
すぐ背後から、アスファルトを削り取るような勢いのブレーキ音が響く。間髪いれずに衝突音。俺の肩が跳ね上がるよりも早く、巨大な鉄塊がへしゃげる音と、ゴムを焼いたような異臭が俺達を襲った。
香織が悲鳴にも似た大声を上げた。
それは悲鳴にも似た、ではなく、正真正銘の悲鳴だった。
今さっき俺達が渡った交差点で事故が起きていた。無理矢理右折しようとしたバイクに対向車線を走る車が突っ込んでいた。
バイクに乗っていた男はぽんと身体を宙に投げ出され、地面を2,3転がりながらガードレールにまで飛ばされていた。男は動かない。昏倒して意識がないのか、それとも―――。
―――香織は。
普段はどこか少し抜けてて、頼りない印象ばかりが目立っていた香織は、事故車のドライバーが車を降りてバイクの男に駆け寄るよりも早く駆け出していた。
車のドライバーに救急車と警察を呼ぶように指示を出しつつ、ライダーに声を掛け続けている。頭を打ってるかも、と、らしくもなく声を張り上げ、あまり動かさないように声を掛ける。男がわずかな反応を見せると、香織はより一層声を掛け続けた。
俺は。
そんな香織の、今までに見たことのない、俺の知らない決断力と行動力に驚くより先に。事故現場が、俺達が今さっき通ったばかりの交差点で起きたという事実に囚われていた。
もし、俺達があとほんの数十秒あそこを通り過ぎるのが遅れていたら―――。
ひやりとした何かが首筋を撫でる。
やがてすぐに救急車が来て、男が担架で運ばれていく。そして香織が憔悴しきった足取りで俺の所に戻ってきた。
「……すごいな、お前」
ドラマの中でしか見ることのないその英断に俺は呟く。香織は照れながら「気が付いたら走ってたの」と答え、「無事助かるといいんだけど……」と影を落とした。俺はそんな香織のブラウスに残る赤黒い汚れに目がいき、思わず息が詰まった。
「大丈夫? 祐介くん汗すごいよ?」
「―――なんでもねぇ」
やがて遅れてやってきた警察に声を掛けられ、香織と車のドライバーは事故の様子の説明を求められた。
俺は思わず唇を噛んでいた。
突然目の前で起きた交通事故に、懸命になって駆け出した香織よりも。事故に遭った男のほうが、鮮烈に頭に残り続けている。
男の姿が、過去、或いは未来の誰かとかぶって見えた。
§
香織はいつだって馬鹿みたいに一生懸命だった。何故そこまでするのか分からないくらいに、「もっと手を抜けよ」、「そのくらい無視したって平気だって」と、思わず口を挟んでしまいたくなるほどに。
そしてその度に、あいつはこれまた一生懸命に頑張ることの大切さを説きはじめるのだ。
けど俺は、そこまで真剣に取り組めない。
いつだって、なんだって中途半端で。頑張るとか、努力とか、そんなことしたって報われることなんてないって知ってる。
世の中、上手く生きたもん勝ちなのだ。
あいつみたく懸命になれるはずがない。
考え方の根本的なところで住む世界が違うのだ、俺と香織では。
「価値観の違いが仲違いの根本的な原因なの?」
確かにそれもある。
互いに相手の考えが理解できない――いいや、理解はできるのだが、納得できない、
共感できない部分は確かにあった。
それなのにあいつは自分の頑張りを知って欲しくて必死で、けど俺はそんなの何にもなりはしないと諭したくて必死で。
――いつだって、必死で喧嘩していたのだ。藤原の言うことにも一理ある。
けれど。
俺が別れることに踏み切った直接的な要因はそこにはない。
確かに喧嘩もあった。
価値観が違ったり、時に意地のぶつかり合いになったりすることもあった。
でも、それでも最後には、俺か香織のどちらかから必ず折れて和解するのだ。
―――雨降って地固まるって言いますけど、雨が降ったあと天気にならなければ固まりませんよね。
香織は梅雨頃からそんなことをよく口にするようになった。
雨上がりは晴れなければ地面も乾かない。
それくらいは分かる程度に、俺も香織も大人だった。
「ところで」
まるで、今までの会話の流れを両断するような切り口で藤原は身を乗り出した。
「祐介君は最近、同じ学科の男の子の友達とも疎遠になってるって聞いたけど、本当なの?」
§
それからだった。それまで恒例行事のように繰り返されてきた些細な諍いが、際立って頻繁に起こるようになったのは。
ただでさえ少ないメールに腹が立ち、課題があるから、部活があるからと会えない日が続くたびに苛立ちを覚えるようになっていった。気が気でなかった。
彼女に非があるわけではない。
それは香織も十分分かっていたようで、しかもへんなところで頑固な香織は、俺が悪い以上俺から謝るまで頑なに自分から折れるのを嫌った。取り繕うこともしなかった。
そんな態度が俺を更に苛立たせた。
この時はまだ、それを香織への憤りにしか結びつけられずにいた。
自分の中に眠る不安――否、恐怖に直結しているだなんて、夢にも思わなかった。
§
「それは何?」
藤原の声が。耳元で囁かれるかつての友の声が、どこか遠い。
くらりくらりと貧血のように頭がふらつき、前後不覚に陥った。
「何?」
幼馴染の声が耳の奥から響いてくる。
―――そういえば、俺は何故、幼馴染と大学に進学してから疎遠になっていたのだろう。
……そして。
今、こうして藤原と二人っきりでいる空間。
窓がある。
窓の外は、薄暗い日の出前の世界が雨に包まれている。
それ以外は一切の不明瞭。
壁の色は?
扉の位置は?
家具の種類は?
そして、俺は思い出す。
不安の正体。
香織と過ごす日々の中に突然湧いて出た恐怖。
「―――藤原、お前は……」
藤原は笑った―――ような気がした。
もはや目の前の人間の輪郭さえあやふやに霞んでいた。
§
幼馴染が交通事故で死んだ。
突然のことだった。
高校の帰り道、久しぶりに二人でゲームセンターに寄った。誘ったのはあいつのほうだった。普段ゲームなんて遊ばないくせに。面白くなさそうな顔で毎日を過ごし、学校も遅刻ばかりで授業だって聞いちゃいない。そんな不良じみた無気力な俺を見かねてのことだった。このお節介めと悪態をつき、乗り気じゃなかったけど一応付き合った。なんだかんだで馬鹿のように遊び倒して、そして別れた。
次の日もまた退屈で怠惰に過ぎていく学校で嫌でも顔を合わすのだと信じて疑わなかった。次の日遅刻した俺を出迎えたのは、幼馴染の席の上に置かれた花瓶と白い花だった。
俺と別れてからすぐの交通事故だったそうだ。
俺なんかにお節介を焼かず、そのまま真っ直ぐ家に帰っていれば避けられた事故だった。
―――馬鹿なヤツ。
俺は悪態をつきながらその日学校をふけた。
あいつが事故にあったのは自業自得なのだ。
必死に思い込もうとする。
そうでもしなければ自分が壊れてしまいそうだった。
だって、そうだろう―――?
もしあいつが、俺なんかにお節介を焼かなければ。
もし俺が、あいつを心配させるそぶりを見せなければ。
ゲームセンターなんかに行かずに、いつものように行きつけの喫茶店にでも行って、まっすぐ家に帰っていれば。
藤原は、瑞希は、事故なんかに遭わなかったのに。
§
「そして君は、失うことを怖れた」
俺は返す言葉もなく、顔を逸らし俯くしかなかった。
「直接的か間接的かなんて関係ない。ただ、自分が関わった人の死が怖くて目を背けたんだよ」
藤原は――。幽霊として俺の前に現れた藤原は、抑制のない淡々とした声で告げる。
「自分の与り知らないところで、何か大切なものが消えてしまう恐怖。君は、不器用だけど純粋で、そして何より心が弱かったから……。忘れたつもりでも、吹っ切ったつもりでも、心のどこかで燻り続けていたそれが、ほんの些細な切っ掛けで堰を切ったように溢れてしまった」
そういえば、祐介君の家族の人も祐介君の知らないところで亡くなったんだっけ、と、俺自身とっくに忘れ去ってしまっていたことまで掘り起こしてくる。
「祐介君は恐怖に負けたんだ。けどそれを、君のちっぽけなプライドが許さなかった。そんな程度のトラウマをいまだに引きずって、不安に駆られ、自分自身に苛立ち、周りとの不協和を奏でてしまう自分自身を許せなかった。だからどうでもよくなった。投げやりになった。肩の荷を全部降ろそうと考えた。ある日唐突に他人との繋がりが途切れてしまうことに怯えるよりも、自分からその繋がりを断ち切ってしまったほうが楽だと思ったんだ」
藤原の言葉が一つ突き刺さるごとに、あやふやだった部屋の外装が剥がれ落ちていく。不鮮明な色の壁が水に浸した障子のように溶けていき、用途が分からない不明瞭な家具たちが腐食して崩れ去っていく。屋根も消え去り、俺は窓の外に広がる雨に打たれていた。
「―――黙れ、悪夢」
俺は低い声を上げた。これが夢でなかったら俺は藤原を殴っていたところだ。
けれどこれは、どこまで行っても俺の夢なのだ。殴るのは藤原ではなく俺自身だ。
それを分かってか、藤原は黙らなかった。まるですべてを投げ出した俺の心を代弁するかのように。
「君は繋がりを捨てた。最も心を許した存在との縁を絶った。一度投げ出したら後はドミノ倒し。繋がりが薄く、どうでもいい他者との繋がりも容易く放棄した。疲れたから。面倒だったから。そして何より、その中から再び深い縁が紡がれることを怖れたから」
「もう、いい……」
「永遠なんてなかった。あるのは無常。すべては傘要らずの朝雨のように、いつか終わってしまう、結末の見えた世界」
「もう、やめろ……」
「消えてしまうから。いつか終わってしまうから、すべてを始めないつもりなの? 縁を断ち切って、誰とも深く関わらず、自分の弱い心だけを守って生きていく? 独りで? ――そうやって引きこもるつもりなんだ? 怖い怖いって言いながら、本当はそれを乗り越えるだけの力があるくせにしようとしない。傷付くのは嫌だから、痛いのは嫌だから。そして何より、何もしないほうが楽だから。祐介君は惰性のまま、ただ楽なほう、楽なほうへと進んだに過ぎないんだよっ!」
「もう、どうでもいいんだ―――」
俺は膝を折った。そこで本当に何もかもが折れたんだと思った。けれど、藤原はそれを許さなかった。
「―――けど、ね」
藤原は一息ついてから、言った。
決して淡々とした物言いではなく。
「縁、あんまナメんなちくしょう」
藤原が、俺の声でそう告げるのと同時に。
「――祐介君がそうやってどれだけ自分を責めててもっ!」
叱咤するような、強い口調が、
「私はっ! 私たちはっ!! 祐介君に笑っていてほしいのっ!!」
目の前の藤原の口からではなく、背後から、俺の背中に叩きつけられていた。
「――瑞希……?」
振り返らない。
振り返れない。
けど分かる。
俺の背中をその細い腕で力いっぱい叩きながら、額を背中に押し当てながら、嗚咽を漏らし、鼻をすすりながら泣きじゃくるその幼馴染の声を、忘れられるはずがない。
目の前にいた藤原の顔をした悪夢は、霧のように雨に溶けて消えて行った。
「お前、成仏したんじゃなかったのかよ……」
「そんなの、知らない、よ……。祐介くんが泣いてるから……。雨が降ってるから、降り続けてるから……。私は、わた、しは……っ」
雨音が続いている。
今も降り続いている雨音と幼馴染の泣きじゃくる声だけが、静かに、静かに、広がっていく。
「――ああ、そっか。お前が来たんじゃなくて……」
ようやく、思い出してきた。
俺がなぜ、こんなにも瑞希を泣かせてしまっているのかを。
§
何もかもがどうでもよくなった俺は、それでもその日を何とか過ごすため、近所のコンビニへ夕飯を買いに行った。
運気というものは、どういうわけかその人物の気力に比例しているようだった。
適当に弁当を見繕って帰るその道中―――まったくもって信じられないことだが、車が俺目掛けて突っ込んできた。
信号はないが見渡しが悪いわけでもない、ごく普通の住宅街にある交差点だ。それがなぜ、こんなことになっている?
ああ、と、深く納得。
脇見運転だ、コノヤロウ。運転席で携帯片手に唖然としてるドライバーの顔が見えた。クソッタレ、今更ブレーキ踏んでも遅ぇよ。
まあ、この展開もアリといえばアリだ。唐突に何かが終わる。今回はたまたまそれが俺の番だった、というだけだ。
そんな時だ。視界の隅から妙なものが割り込んできた。
見知った顔があった。
何でこいつがここに? と思う間もなく、俺は突き飛ばされた。
あぁ、アホな子だ。一生懸命にも程がある。
なんだって俺の身代わりなんかになろうとするのだろう。
こんなどうしようもない、俺なんかの――。
なんだか癪に障ったから、転ぶ寸前で踏みとどまって、逆に突き飛ばし返してやった。
俺を助けようと躍り出た見知った顔――香織は、元からの体格差のせいもあってぽーんとすっ飛んでいった。
ついでに俺も勢いがつきすぎて、前のめりに香織の待つ歩道にまで飛んでった。
あ、何だ。これならギリギリ車避けられるんじゃね?
安堵した瞬間、嫌な音がして俺の意識は飛んだ。
§
「香織さんはね。電話で別れ話に頷きはしたけど、納得はしていなかったの。だから休みが明けて、祐介君に直接会うために家を訪れたんだ。それで、偶然事故現場に居合わせたみたい」
「……凄い偶然だな」
「それが縁だよ。祐介君の見ていた私じゃないけど、なめんなちくしょう、だよ」
泣きべそかいて震える声のまま汚い言葉を吐く藤原に、俺は思わず笑いをこらえきれずに吹き出してしまった。
「ってことは、何か。これは俺の見ている悪趣味な自己分析っぽいエゴだかイドだかの夢じゃなくって、死後の世界か」
なるほど、納得だ。道理で藤原がいるわけだ。
「それは違うよ。ただの、ちょっとした、臨死体験」
死んでない?
思わず首をひねる俺に、藤原は小さく、けれど確かに嬉しそうに言った。
「香織さん、カッコいいよね。行動力あって。……焼けちゃうなあ」
飛んだ意識の片隅に。
跳ね飛ばされた俺に駆け寄る香織の姿がちらついていた。
きっとあのあと、救急車を呼んで、てきぱきと処置をして、俺の命を救おうと全力で頑張ろうとするのだろう。
……あんのドラマ主人公め、お前のその行動力はどこから湧いてくるんだ。
「祐介君はどうする?」
一瞬何を尋ねられたか分からなかった。ややあって、あぁ、と俺は納得した。
つまり、来た道を帰るか、それとも藤原と共に逝くか。
「……なんか色々疲れたし、もういいわ、俺。天国なり地獄なり連れてってくれ」
藤原はそれを聞くと、俺の背中で小さく笑った―――
「やだ」
脇を思いっきりつねられた。
「お前、全部知ってんだろ? もういいんだ、疲れたんだ、嫌になったんだ。もう楽になりたいんだっての」
藤原は首を振る。
「そんなの許さない。祐介君が死んじゃったら、私、泣いちゃうから。365日、一年間、休みなく泣き続けるから。世界を大洪水で沈めてやる」
とんでもないことを言い出した藤原に、俺は呆気に取られた。
「神様気取りかよ。ノアさんに箱舟造船依頼出さなきゃ地球のピンチじゃねえか……」
「地球の未来は祐介君にかかってるよ。大変だね」
「責任重大だな……。逃げてえ。投げ出してえ」
「祐介君から伸びる縁が許さないから、まだこっちには来れないんだけどね。香織さん、すごく頑張ってる」
「……つまり、俺の主導権どころか生き死にまであいつが握ってるってことか」
「そうだね。それだけ祐介君の無事を強く願ってるんだよ」
「……マジ分かんねぇ。元々、俺が強引に交際申し込んで、強引に終わらせたってのに」
「分かってるくせに。香織さんは祐介君が好きなんだよ」
「まさか!」
「好きでもなきゃ祐介君とっくのとうに振られてるよ?」
……くそぅ、これが全部俺の夢ってオチの可能性がまだ残ってる分、これじゃあまるで自惚れじゃないか。
「自惚れてもいいよ。私が保証してあげる」
「亡霊か夢の住人の保証は確かなんだろうな?」
「うん。だって―――」
――――私。祐介君のこと、大好きだったから。
後ろから、腰に手が回される。
藤原は――瑞希は背中に顔をうずめたまま、「やっと、言えた……」と、くぐもった、掠れるほど小さな声を漏らす。
俺は空を仰ぎ見た。
いろいろな感情がないまぜになって、胸の底からせり上がってくる。目頭が熱くなり、気を抜くと、一気に決壊して目から溢れてしまいそうだった。
「一生懸命でまっすぐな女の子の恋は怖いよ? だって、迷いがないから。ただひたむきに進むから」
「……それがいつか終わってしまうとしても?」
「うん」
瑞希は頷く。身を打つ小雨はいつの間にか上がっていた。
「永遠なんてないって知っている。ひょっとしたら、明日自分が事故に遭うかもしれない。祐介君が事故に遭うかもしれない。もしかしたら地球に隕石が降ってきてみんな死んでしまうかもしれない。本当に些細なことで終わることもある」
横槍を入れず、俺は耳を傾ける。
「永遠なんてない。だけど一緒にいたい。いつか終わってしまうなら、その時まで精一杯楽しみたいって、そう思ってるんだよ」
「……もう、終わってるだろ」
たった一つの交通事故で、俺と瑞希は終わってしまった。
そして香織とも、電話越しとはいえ、俺ははっきりと終わりを告げたのだ。それはどうあっても覆されることはない。
「うん。終わっちゃったね。けど、また始めることもできるんじゃないかな? だって二人とも、まだ生きているんだよ? やり直せるんだから、大丈夫」
普通に考えたら次の恋を始めようということなんだろうが、コイツのニュアンスだと、香織とよりを戻してまた一から始めれば、と、言っているように聞こえる。
「……なに、それ? すっげぇみっともねぇ」
「うん。ついでだから、洗いざらい全部話しちゃえば? 弱い自分を全部曝け出してみて、それでももし、もう一度受け入れてもらえるのなら―――」
「……あの頃みたいに、戻れるのか?」
喧嘩もあったが、そこそこに充実していたあの日々に。
「戻る? 全然足りないよ。前以上の関係目指さなきゃ」
――ああ。
やっぱり瑞希と香織は似ている。
同じ価値観を持っていやがる。俺とまったく違った価値観を。
こいつらといるだけで、俺までなんだか頑張れるヤツだと錯覚してしまうじゃないか。
「祐介君、雨は上がったよ。そこに出来た虹を渡って、祐介君の居場所に帰るんだ」
「あんな小雨で、虹ができるわけないだろ」
「気分だよ」
「……そうか、気分か」
頬を綻ばせ、藤原が笑う。
それはつまり、別れのときなのだ。
「やっぱ、天国に連れてってくれ……ってのはナシか?」
「だめ、だよ。言ったでしょう? 祐介君には、笑っていてほしいの。ここでお別れ」
「生き返ってもなあ。香織にどんな顔して会えば……。決心つくまでここにいちゃダメか?」
「だめっ! 祐介君、駄々こねないの」
「うわあ、不安になってきた。藤原、一緒についてきてくれよ」
「そろそろ怒るよ?」
これで綺麗に決心がつけばそれなりのジュヴナイルになるんだろうが、生憎俺は捻くれ者だ。俺はしばらくああだこうだと駄々をこねるようにして藤原とのやり取りを楽しんだ。
久しぶりに、笑ったような気がした。
「……それじゃあ、俺はそろそろ諦めて振られてくるとしよう。いくら粘っても変なところで頑固なお前のことだ。足蹴にしてでも追い返すんだろう?」
「うん、頑張って。大丈夫、振られたって次の恋があるよ」
「……自惚れてもいいとかいったのは誰だ?」
声を出して笑った藤原が、ゆっくりと俺の背から離れる。
振り返らない。
顔は見ない。
明るく努めてはいるけれど、瑞希の声はさっきから震えっぱなしだ。
きっとその顔は涙でくしゃくしゃになっているはずだ。
見ないでおいてやるのが優しさってやつだ。
そしてきっと俺の顔は、それ以上に酷いことになっているだろうから。
「じゃあな」と片手を挙げて立ち去ろうとする俺を呼び止める声が上がった。
「朝雨に傘要らず、だよ」
「……?」
「それか、馬に鞍置け――って。朝雨はすぐに晴れるものだから傘は要らない、出かける用意をせよって意味。つまりね。これは、その程度の話だったんだよ」
ああ、そうかい。その程度と言い切られるのは癪だが、あの世への引きこもり予備軍だった俺にはちょうどいい激励だ。
「私はね、祐介君。雨上がりのあとの、澄んだ空気と高い空が好きなんだ」
いつか聞いた台詞だった。
「止まない雨はない。いつか必ず晴れる日が来る。だから私は、雨が好きなんだと思う」
雨が好きだと言った、変わり者の幼馴染を背に歩き出す。
「永遠なんて、ない。雨はいつか上がる。晴れた空もいつかは曇る。それは楽しいことも、悲しいことも、全部ひっくるめて、永遠じゃあないんだよ」
俺は終わってしまうことを怖れた。だから気付けなかった。
「だから、ね? 祐介君。私は世界のすべてが好きだったんだ」
怖がらずに世界を愛して。
そんな、幼馴染からのエールを受けて、俺は答える。
「世界のすべてとか、よく分かんないけどさ」
最期にあいつの顔を見たい。
振り返りたい。
できるなら、駆け寄って抱きしめてやりたい。
けれどそれは未練だ。
すべてを飲み込み、ずっとずっと俺に世話を焼き続けた、たった一人の幼馴染へ。
「俺も瑞希のこと、ずっと、ずっと、雨の中二人で走ったあの日から、好きだった」
息を呑む声。
相変わらず、泣き虫なヤツだ。
泣かないように強がって飄々としたキャラを演じるなら、最後まで貫けっての。
「だから、安心しろ。な? いきなり世界全部は無理かもだけど、少しずつ、好きなもの、増やしていくから」
いつか、俺にも訪れるのだろうか。
いつかは終わってしまう、儚いばかりの世界すべてを、俺は好きになれる日が来るのだろうか。
……まあ、急ぐ必要はないだろう。
とりあえず、今繋がっている縁とやらを、これから少しずつ増えていくだろう縁たちを、終わりのその時まですべて見届けてから考えても遅くはない。
そんな俺という生の終着点、その先で再び瑞希と再会できたのなら。
今度は酒でも飲み交わしながら語り合えばいい。
もしもその時。
遅れて来てもいい。先に待っていてくれていてもいい。
俺の隣にあいつ――香織が居てくれたなら、俺は間違いなく、限りある世界も悪くはなかったと思えるだろうさ。
Fin
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
一人の臆病な少年の軌跡。その果てで待つ誰かの笑顔。そこを目指して、少年は再び歩き出す。彼の一歩が少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
もし少しでも『続きが読みたい』『応援したい』と思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけますと、大きな励みになります。
引き続き、彼らの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「朝雨」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2007 新歓号 掲載
(※Web掲載にあたり大幅に加筆修正)




