あの日忘れた夢に
「こんにちは。今日も迷子?」と、デパートを訪れるたびに失礼な挨拶をするエレベーターガールの夏美さんが何の連絡もなしに仕事を辞めてしまってから、早いものでもう半年になる。
今の時代どこのデパートも大概のアナウンスは機械が済ませてしまう。人が画一的で無機質な声に安心感を覚えるようになってどれだけ経つのだろう?
そんな哲学チックなことを考えながら、私はいつものようにデパート最上階に広がるレストラン街の軽食店で紅茶の香りを堪能していた。
彼女の好きだったアールグレイを、彼女がいなくなってからこの軽食店で飲むようになったのは皮肉な話だ。……正直、私が淹れた紅茶のほうが美味しい。思わずため息も漏れる。
私の正面に、いつもの夏美さんの不器用な笑顔はない。
代わりにこの日は、今や無二の親友であるクリスがいつものように無愛想な顔でレモンティーを飲んでいる。
夏美さんとは違うタイプで笑うことが苦手な彼女は、しかし小さく喉を鳴らしてはほぅと息をつき頬を緩ませている。夏美さんに勧められたこの店は、どうやら彼女の趣向に合ったようだ。
「それで、シイコ。その人の連絡先……ケイタイの番号とか、知らないのですか?」
「―――うん。デパートに来た時声をかけてもらって、買い物のあと一緒にお茶するくらいの付き合いしかなかったから……」
そんな付き合いでかれこれ十年以上の付き合いがあったなんて今でも信じられないくらいだ。
「おかしな知人です。本当に」
特に微笑むわけでもなく平淡なクリスの声に皮肉はない。むしろ、羨望の色が見え隠れしていた。
私は「確かに」と頷いた。
お決まりのあの挨拶にしてもそうだけど、なぜ夏美さんはああまでして私なんかと関わりを持とうとしたのだろうか。
幼い頃に母を亡くした私への哀れみだろうか?
そんな単純なものではないような気がする。
もっと深いところで、暗黙の内に私達は繋がっていた。
「けど、寂しいな」
私は呟く。
「もう夏美さんと会えないと思うと」
あんな不器用な人でも、彼女と付き合うことで救われていた自分が確かにいたのだ。
小さく、クリスのティーカップが音を立てた。
なんだろうと顔を上げると、珍しいことに彼女は驚きに目を丸くしていた。
「……シイコ。その人の名字、クサカベ――いいえ、確か、旧姓をカトリといいませんでしたか?」
私は頷く。
あの人の名前は、確かに香取夏美だ。
「私、その人知っています」
今度は私が驚く番だった。
「その人に、会いたいですか?」
私のカップが、静かに音を立てた。
それが答えだった。
§
二時間に一本しかないローカルなバスに揺られること三十分。私は小さな農村を訪れていた。
私の家のある都心から電車で一時間半。そんな田舎町にクリスの家はある。
クリスはいつも二時間かけて遊びに来ているのだと思うと申し訳なくなる反面嬉しくもあり、同時に今度からは私の方から遊びに来ようと決意した。
クリスから渡された地図の案内通りに畦道を進んでいくと、民家が寄り集まった集落のような村が見えてきた。
そんな村の一角に建つ、田舎町に相応しいといったような古い屋敷。クリスの地図によると、夏美さんはここに住んでいるらしい。
夏美さんは、つい最近クリスの住むこの田舎町に嫁いできたらしい。
小さな田舎町だ。
人の出入りは瞬く間に村中に伝播するだろうし、クリスの住む家はこのあたり一帯の大地主に連なる親族のうちの一つらしい。
クリスの耳にもそんな村の新入りの話が入ってくるのは、考えれば自然な流れだ。
クリスが夏美さんを知っていたことには驚いたが、私はそれ以上に、あの夏美さんが結婚して退職したのだという事実の方が衝撃的だった。
ここに夏美さんがいる――。
意識した途端動悸がなった。
突然訪れた私に、夏美さんはいつものような不器用な笑みを浮かべるのだろうか?
そして私は、どんな顔をして夏美さんに会えばいいのだろうか?
私はインターホンを前に躊躇していた。
特にアポイントを取っているわけじゃない。このまま回れ右をして帰ってしまっても何の問題もない。
せっかくだし、クリスの家に遊びに行こう。
……けど、そうしたらクリスに「まだ会ってきてないんですか。さっさと会いに行きましょう」とか言われて、強引にこの場に連れてこられるに決まっている。
押しだけは強いのだ、あの子は。
私は意を決してインターホンを鳴らす。
しばらくして、インターホンのスピーカーから「はぁい、少々お待ちください」と、ひび割れた懐かしい声がした。
やがて近付いてくる足音。
扉が開き「あら」と、夏美さんは驚きに一瞬目を丸くしたあと。
「椎子ちゃん、久しぶりね。迷子――にしては、ちょっと遠出しすぎたんじゃあない?」
夏美さんは。
まるでスイカか何かを服の下に仕込んでいるのではないかと勘繰るほどに大きくなった自分のお腹を撫でながら、いつものように不器用に微笑んだ。
§
「予定日は来月の末になるの」
夏美さんは自分の腹部を慈しむように撫でながら微笑んだ。
「ま、ぶっちゃけ言うと出来ちゃった婚なんだけどねぇ」
「よかったじゃないですか。三十路の前に結婚できて」
「んー、残念。あたし、去年の八月で三十。籍入れたのが今年の四月だから、三十路前はぎりぎり逃したわ」
「そうなんですか……」
取り留めのない会話に花を咲かそうとするも、うまくいかない。
目の前でちゃぶ台に頬杖をつきながら緑茶を啜る夏美さんの姿からどうしても違和感が拭えない。
夏美さんはよくも悪くもスタイリッシュな人だった。
目の前の夏美さんとかつての夏美さんがどうしても繋がらなかった。
「どうして―――」
「ん?」
何の連絡も無しにいなくなったのかと訊こうとして私は口ごもった。
どうしても何もない。
夏美さんから私に連絡する手段はなかったのだし、突然の結婚と退職だったのだろう。
デパートに寄るついで程度に会っていた私に、夏美さんを問い詰める資格なんてありはしないのだ。
私が口ごもっていると、夏美さんは名案をひらめいたとばかりに手を打って、「椎子ちゃん、いい天気だし、外に出ましょうか」と言った。
肯定以外に、私の選択肢はなかった。
§
「越してきてビックリよ。このあたり、本当に何も無いのよ」
先週の台風が嘘のようによく晴れた秋晴れの下。
小さな小川沿いに続く畦道を、目的もなく、本当に気晴らしの散歩とばかりに歩く夏美さんの横顔を覗き込みながら、私は相槌を打つ。
私には一度訊ねてみたいことがあった。
けれど、今この場でそれを口にするのも少しばかりはばかられる。
思えば、私と夏美さんの関係も、いつだって遠慮につぐ遠慮で成り立っていたような気がする。
買い物の途中で夏美さんに声を掛けられ、そのまま喫茶店でお茶をしながら色々な話をする。
けれど、決して踏み入った話はしない。
まるで示し合わせたように二人して他愛のない世間話に花を咲かせ、夏美さんが私をからかっているうちにその時間は終わるのだった。
見ると、夏美さんも私と同様にばつの悪そうな顔をしていた。何か話を切り出そうとしているのだが、どうにも踏み切れないでいるようだった。
「夏美さん」
意を決して、私は口を開いた。
その意図を夏美さんも汲み取ったらしく、「座りましょうか」と土手の斜面に目をやった。
踝ほどの丈の草が生い茂る、ちょっとした緑の絨毯に腰掛けた私達は、しばらくの間頬を打ちつける風の余韻に浸っていた。
終わりの予感を、感じていた。
私と夏美さんの関係はとても曖昧で、暗黙のうちに成り立っているようなものだ。
それを突き詰めるということは、つまりもう今までのようにはいられないということで、それなりに楽しかった時間が永遠に戻らなくなるような気がしてならなかった。
それならば、いっそのことこのまま土手で風を受け、「もうすっかり秋ですね」と、いつものように他愛のない話をしているほうがいい。
たとえ会話がなくても、いっそこのまま沈黙のうちにすべてを流してしまえばいい。
「―――あたしね、笑うことが苦手なのよ」
長い、長い沈黙を、夏美さんは破った。
「……意外でしょう?」
意外でもなんでもない。
けれど私はあえて何も口にしなかった。
今はただ、その終わりの言葉に耳を傾けていたかった。
「あたし、実は出産はこれで二度目なのよ。一度目は、あたしが十六の時。……両親や周りからの反対を押し切って、どうしても生んであげたかった」
夏美さんが十六ということは、私は三歳にも満たない子どもだった頃の話だ。
「―――せっかく生まれた新しい命なんだっていうことより、あたしはただ、周囲に反発したかっただけなのかもしれない。お腹の子どもを否定されるってことは、あたしと当時付き合っていた人との関係を否定されているような気がして、意地でも認めさせてやるって、躍起になってただけなのよ。結局、流産しちゃったんだけどね……」
夏美さんは、私を見据えながらどこか遠くを見ているようだった。
「ショックだったわ。認められたくて意固地に生む生むって言ってたのに駄目だった。……認められずにすべてを失ったことが悔しかった。……けど、それ以上に、名前も考えて、オムツやミルクやベビー服なんかも買い揃えて生まれてくるのを待っていたのに、その子はもういないんだ、生まれてくることさえ叶わなかったんだって思った瞬間、涙が止まらなくなるほど悲しかった。……失くしてはじめて気づくものなのよ。自分が何を望んでいたのか、何を夢見ていたのか、なんてね……」
夏美さんは私を見ながら別のものを見ている。
どこか遠くへ忘れてきてしまったものを懐かしむような、そんな眼差しで。
きっとそれが、私の尋ねたかった問いへの答えだった。
質問も返答も、すべて暗黙のうちに通じてしまう。それが、今日までの私達の関係だった。
私が最も訊ねたかった質問。
夏美さんはなぜ私なんかと関わりを持とうとしたの?
夏美さんは答える。
それは、あなたと生まれてくるはずだったあたしの子どもを重ねてしまったからよ。
私達の関係の原点。幼い頃母を亡くして泣いていた私を見つけた夏美さんは、生まれてくるはずだった自分の娘の姿を私に投影してしまった。それは、私という人間を見てくれていなかったということだ。
掴み損ねた夢の代替物。私にとってそのショックは大きい。
けれど、夏美さん自身も幾度となく自己嫌悪に苛まされ、私と会うたび、私と話すたびに罪の意識に責められていたに違いない。
でなければ、あんな不自然な関係で十年も続くはずがない。
十年も付き合っていながらこんなギクシャクした関係のままでいるはずがない。
「……まぁ、こんな悲しい思いするくらいなら、もう絶対子どもなんて作るものか、恋なんてするものか……って思って、ずっと仕事一筋に生きようって決めてたんだけど。やっぱりあたしも女なのよね。人生どうなるか分からないわ。もちろん、あたしは今幸せよ?」
夏美さんは、自分の話はこれで締めと言わんばかりにはにかんだ。
はたから見れば、今の私達の会話は、夏美さんが辛い過去を打ち明け、今の幸せを噛み締めているようにしか見えないはずだ。
私達はそれ以上のことを伝え合っているのに。
けれど表面上ではやはり当たり触りのない会話でしかなく、本当に伝えたいことを外面に表していないため、いくら懺悔したくても、それらはすべて私の受け取り方次第なのだ。
本当に不器用な人だ、夏美さんは。
「夏美さん」
私は緩みそうになる口元を引き締める。
夏美さんが、暗黙の懺悔をしているというのなら。
私も同じように、暗黙の赦しを与えなくてはならない。
そして、終わらせるのだ。
今日までの歪な関係を。
「夏美さんのお腹、触ってもいいですか?」
夏美さんは驚きに目を瞬かせたあと、「いいわよ」と表情を緩めた。
服の上から、命の詰まった大きな腹部に手を添える。触れると、じんわりと暖かかった。
これが母の温もりなのかと考え、思わず頬が綻ぶ。
瞬間、私の手のひらは驚きに跳ね上がった。
―――胎動だ。
力強い命の躍動に、私は一瞬戸惑った。けれど再度、慈しむように手を添える。
―――夏美さんの娘の役は、あなたに返すわね。
私の想いに反応するかのように、その子は再びお腹を蹴った。
「夏美さん。……小さい頃にお母さんを亡くした私にとって、夏美さんは歳の離れた友達で、お姉ちゃんで、そして、たぶん……お母さんでした」
夏美さんは特に驚いた様子もなく、今度こそは、私を見てくれていた。
長い、長いままごとをしていたような気がする。
夏美さんは、母親役。そして私は娘の役。そんなゴッコ遊びに興じていた私達は、この日その関係を終えることにした。
「そんな私は、夏美さんにどんな言葉を贈ればいいと思います?」
悪戯っぽく訊ねる私に、夏美さんは一瞬息を飲んだ。
やがて、夏美さんの表情が穏やかで、柔らかいものに変わっていく。
「とりあえず、まだ聞いてないお祝いの言葉を聞きたいわ」
夏美さんは遠い日に忘れてきた夢を掴み、そして今度こそ、本当の母になる。
ならば、友であり、妹であり娘である私の最後の役目はたった一つだけだ。
その言葉と共に、夏美さんを送り出そう。
ちぐはぐだった私達の関係を終わらせよう。
「遅くなりましたけど。夏美さん、おめでとうございますっ」
ただ、その祝福の言葉にすべてを込めて。
「……ふふっ。ありがと、椎子ちゃん」
初めて見るその人の本当の笑顔を、私は見送った。
§
「ありがとう、クリスちゃん」
後日。夏美さんがお気に入りだったデパートの軽食店で、私はクリスにお礼の意味を込めて、ジャンボサイズのチョコレートパフェを奢った。
「――De rien, ma chérie」
クリスはパフェを口に運んだスプーンを加えたまま、照れたように顔を伏せて、フランス語で呟いた。
クリスと出会ってから二年半。日本語もずいぶんと上達した。
そんなクリスがフランス語で話すときは、決まって照れ隠しのときだ。
大切なことを伝えたい。けれどはっきり伝えるのは恥ずかしい。
だからあえてフランス語で伝える。
私もこの付き合いの中で、ずいぶんとクリスのことを理解できるようになった。
――今、クリスが呟いたフランス語の意味も。
私の頬は思わず緩んだ。
とても。とても嬉しかった。
「ナツミにも、お礼を言われました。……シイコと会えて、嬉しかったと。挨拶もなしにお別れしたこと、申し訳なさそうにしていましたよ」
「うん。だから、今度はちゃんと携帯の番号とメールアドレスを交換したよ」
「そうですか。なら、大丈夫ですね」
頷いて、私は紅茶に口を付ける。
あの日、私と夏美さんの古い関係は終わりを告げた。
そしてその日から、私と夏美さんの新しい関係が始まる。
明日からは、もっと本音を話し合えるだろうか?
それは分からない。
とりあえずのところ、夏美さんのアドレスを聞きだしたことだし、これから生まれてくる赤ちゃんと遊んであげることに思いを馳せるのだった。
終わり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
不器用で騒がしい、癖のある登場人物たちと二人の少女が紡ぐ、全20話の連作短編集です。
過去を清算し、新しい一歩を踏み出した椎子と夏美。彼女たちの不器用な関係性が、少しでも皆様の心に届いていれば嬉しいです。
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引き続き、彼女たちの物語をよろしくお願いいたします。
【初出】
「あの日忘れた夢に」
熊谷雑文工房『KAZAK』 2006 星降り号 掲載
(※Web掲載にあたり加筆修正)




