「ママの沈黙」
店の掃除を手伝うふりをして、俺はずっとママの横顔を盗み見ていた。
グラスを拭くママの手つきは、いつもと変わらない。だが、あの夜からずっと、俺の中で燻り続けているものがあった。
「――なあ」
「何だい」
「あの女、どこで会ったんだよ。俺の、母親」
グラスを拭く手が、一瞬だけ止まった。だが、すぐにまた動き出す。
「言っただろ。店の前に置いていかれたって」
「置いていったのは誰だよ。あの女なのか?」
「……」
ママは答えなかった。かわりに、空になったグラスを棚に戻し、別のグラスを取り出す。それだけの動作に、やけに時間がかかった気がした。
「ママ」
「昔のことだよ。忘れちまった」
「嘘つけ」
思わず声が尖った。ママは驚いたようにこちらを見て、それから、困ったように笑った。俺が一番苦手な顔だった。
「咲亞」
「何だよ」
「知らなくていいことも、世の中にはあるんだよ」
その一言で、会話は終わった。ママはそのままカウンターの奥に引っ込んでしまい、俺は追いかける気力もなく、椅子に座り込んだ。
その夜、店を閉めた後の厨房で、俺は洗い物をするママの背中に、もう一度声をかけた。
「ママがあの店の前に俺を拾ったのって、本当に偶然なのか?」
洗い物の手が止まる。振り返らないまま、ママはぽつりと言った。
「……偶然だよ」
「じゃあ、何であの女のこと、ニュース見ただけで俺の親だって分かったんだよ」
「――」
沈黙が、答えだった。
ママは何かを知っている。それも、俺が思っている以上に、深く。
「ママ」
「今日はもう店じまいだよ。上がりな」
有無を言わさぬ声だった。いつもは甘い笑顔の裏に、優しさを隠しているような人だ。だが今夜だけは、その笑顔の下に、何か硬いものが見え隠れしていた。
俺は結局、それ以上何も聞けないまま、自分の部屋に戻った。
天井を見つめながら、頭の中で色んな可能性がぐるぐると回る。
――ママは、俺の母親を知っていた。
――もしかしたら、俺の父親のことも。
一つだけ確かなことがあった。この店の中に、俺がまだ知らない何かが、ずっと眠り続けている。
窓の外で、遠くの国道を走る車のライトが、一瞬だけ天井を照らして消えた。




