「影」
あの黒い車を見かけてから、数日が経った。
「――気のせいだったのかな」
ゆずがそう言うのも無理はなかった。あれ以来、目立った動きは何もない。牧場の仕事も、食堂の手伝いも、いつも通り続いていた。
だが、俺の中の警戒だけは、解けなかった。
「――念のため、荷物はまとめておこう」
「そんなに、警戒しなくても」
「悪いけど、これだけは譲れない」
ゆずは少し不満そうな顔をしたが、それ以上は反論しなかった。
数日後の夕方、牧場からの帰り道、いつもと違う道を選んでみた。ただの気晴らしだったが、その途中、集落を見下ろす高台から、妙な光景が目に入った。
村の入り口付近に、あの黒い車が、また停まっている。今度は一台ではなく、二台。
距離があって、はっきりとは見えない。だが、その周りに立つ数人の男たちの佇まいには、見覚えがあった。
――堂気だ。喧嘩慣れした連中特有の、あの立ち方。
心臓が、大きく音を立てた。
急いで家に戻ると、ゆずが不安そうな顔で待っていた。
「――咲亞、さっき、変な電話があって」
「何だって」
「よそ者の男たちが集落を探ってるって、女将さんから連絡があったの。名前は言ってなかったけど……多分」
言葉を濁したゆずの顔から、俺と同じ予感を抱いていることが分かった。
「――逃げる準備を」
そう言いかけた時、外で、車のエンジン音が聞こえた。一台ではない。複数の車が、集落の方へと近づいてきている。
窓の隙間から外を覗くと、夕闇の中、こちらへ向かってくる黒い車のヘッドライトが、いくつも連なって見えた。
――間に合わない。
背筋に、冷たいものが走った。三ヶ月続いた平穏が、音を立てて崩れていく感覚が、確かにあった。
「――ゆず」
「うん」
「絶対に、俺から離れるな」
強く手を握ると、ゆずも同じ強さで握り返してきた。だが、その手が、微かに震えていることに、俺は気づいていた。
迫りくるヘッドライトの光を見つめながら、俺はこれまでとは違う、拭いきれない不安を感じていた。
――今度は、何かが違う。
――第四部・完




