「黒い車」
集落に来て、三ヶ月が過ぎた。
牧場の仕事にもすっかり慣れ、周りの住人たちとも、余所者ながらに馴染み始めていた。ゆずも、食堂の女将にすっかり気に入られ、まるで本当にここで暮らしてきたかのような、自然な日常が出来上がっていた。
「――咲亞くん、来年もここにいるつもりかい」
牧場主の老人に、何気なくそう聞かれた時、俺は一瞬、返事に詰まった。
「――分からないですけど、そうなったら、いいなと思います」
そう答えるのが、精一杯だった。復讐の記憶は、まだ消えていない。だが、この暮らしを失いたくないという気持ちも、確かに本物だった。
その夜、家に帰ると、ゆずが小さな紙袋を手に、少し照れたように笑っていた。
「――これ、作ってみたんだけど」
紙袋の中には、不揃いながらも、丁寧に編まれたマフラーが入っていた。
「下手だけど、暖かいはずだから」
「――ありがとう」
不器用な手つきで巻いてみると、ゆずは満足そうに笑った。こんな些細なことが、今の俺にとっては、何よりも大切なものに感じられた。
「――ずっと、こんな日が続けばいいね」
ゆずがそう呟いた声は、どこか、確認するような響きを持っていた。
「――ああ」
短くそう答えたが、心の奥では、確信を持てないでいた。
数日後の夕方、いつも通り牧場から帰る道すがら、集落の入り口に停まっている、見覚えのない車に気づいた。
地元の人間が使うような軽トラックではない。黒く、艶のある、明らかに外から来た車だった。
車内には誰も見えなかったが、一瞬、視線を感じたような気がした。
「――気のせいか」
そう自分に言い聞かせて、俺は足を速めて家路についた。
だがその夜、玄関の鍵を確認する手が、いつもより少しだけ、強張っていたことに、俺自身、気づいていた。




