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「名前のない幸せ」
山奥の集落に落ち着いて、一ヶ月が経った。
人口の少ないその土地では、余所者への警戒よりも、人手不足の方が深刻だった。俺は近くの牧場で働き始め、ゆずは集落唯一の食堂で手伝いを始めた。
「――お前、力仕事似合うな」
牧場主の老人に、そう言われて苦笑した。喧嘩に使ってきた力が、まさか牛の世話に役立つとは思わなかった。
夕方、仕事を終えて食堂に顔を出すと、ゆずが厨房から顔を出して笑った。
「今日、お客さんに褒められたんだよ。手際がいいって」
「そりゃ良かったな」
「他人事みたいに言うね」
軽い言い合いをしながら、隅の席で賄いの夕飯を食べる。それだけのことが、ひどく尊く思えた。
夜、借りている古い一軒家の縁側で、二人並んで星を見上げるのが、いつの間にか習慣になっていた。
「――こんな暮らし、想像もしてなかった」
ゆずがぽつりと言った。
「悪いか」
「ううん。悪くない。むしろ、ずっとこうしていたいくらい」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、隣にいる彼女の温度だけを、確かめるように感じていた。
母を殺した男への復讐。その果てに待っているものが何なのか、この暮らしの中では、考えないようにしていた。
考えなければ、この時間は、永遠に続くような気さえした。
窓の外、都会では見えないほどの星が、静かに夜空を埋めていた。




