「逃亡」
「――北海道に、飛ぶぞ」
亮からの短い連絡に、俺は迷う暇もなく頷いた。
追われる身になったその夜のうちに、亮が用意していたという偽名のパスポートと、当分の生活費が入った鞄が、指定された駅のコインロッカーに届いていた。舎弟頭補佐まで昇進した亮の伝手が、こんな時にも生きている。それがどれほどありがたいことか、この時の俺には分かっていなかった。
「――本当に、これで大丈夫なの」
隣で震える声を出したのは、ゆずだった。着の身着のまま連れ出してしまったことに、今更ながら申し訳なさを覚える。
「悪い。お前まで巻き込んで」
「今更、そんなこと言わないで」
ゆずは無理に笑おうとしたが、うまくいっていなかった。それでも、逃げないという意志だけは、その目に見えた。
始発の空港行きバスに乗る前、俺は最後にもう一度だけ、亮に電話をかけた。
『――今、どこにいる』
呼び出し音は鳴り続けたが、繋がらなかった。何度かけても、同じだった。
「……繋がんねえ」
不安が募ったが、事前に受け取っていたメモには、こう書かれていた。
『これからは、この番号は使うな。足がつく。今から言う通りに処分しろ』
指示は具体的だった。まず、SIMカードを取り出し、指の力で二つに折る。次に、バッテリーを本体から抜き、それぞれ別の場所に捨てるように、と。
「――待って。それ、捨てちゃうの」
ゆずが、自分の携帯を見つめながら、消え入りそうな声で言った。
「これがないと、誰にも連絡が取れなくなる」
「分かってる」
「本当に、これで、誰にも頼れなくなるんだね」
その言葉が、やけに重く響いた。俺は何も言わず、彼女の手から携帯を受け取り、指示された通りに解体していく。
SIMは、駅前を流れる川に投げ込んだ。小さな水音を立てて、闇に沈んでいく。
バッテリーは、少し離れたコンビニのゴミ箱へ。本体だけを鞄の底に隠し、後で人目のない場所に捨てるつもりだった。
たったそれだけの作業に、なぜか、これまでの人生の全てを断ち切るような感覚があった。
「――行こう」
ゆずの手を取り、始発のバスに乗り込む。窓の外を流れる、まだ夜の明けきらない街の景色を見つめながら、俺は改めて、後戻りのできない場所まで来てしまったことを実感していた。
飛行機の中、ゆずは俺の肩に頭を預けたまま、一言も喋らなかった。ただ、その手だけは、ずっと俺の袖を強く握り続けていた。




