「衝動」
「――俺が今の若さの頃の話だ」
黒田は緩んだ表情のまま、グラスを傾けた。
「跡目争いが一番荒れてた時期でな。生き残るためには、多少強引な真似もしなきゃならなかった」
周りの幹部たちが、神妙な顔で相槌を打つ。俺は黙って酒を注ぎ続けた。手が震えないよう、それだけに意識を集中させていた。
「――当時、面倒な女がいてな」
その一言で、部屋の空気が、俺の中でだけ変わった。
「俺の跡目を潰そうとしてた連中の身内でな。俺に近づいてきたのも、最初は情報を探る為だったんだろうよ。だが、そのうち本気になっちまったみたいでな」
黒田は笑いながら、酒を呷った。
「面倒なことに、ガキができたとか騒ぎ出しやがった。跡目争いの最中に、そんなもん抱えてどうする気だってんだ」
――ガキ。
自分のことを言われているのだと、頭のどこかでは理解していた。だが、心がそれを受け止めることを、まだ拒んでいた。
「それで、どうしたんです?」
若い幹部の一人が、興味本位に聞いた。黒田は、事も無げに答えた。
「面倒事の芽は、早めに摘むに限る。うちの若い衆に、始末させた」
――始末。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。母が、殺された。この男の、ただの「面倒事」として。
「――ガキの方はどうなったんです」
別の誰かが、軽い調子でそう聞いた。まるで世間話のような口調だった。
黒田は、一瞬考えるような顔をしたあと、興味なさそうに肩をすくめた。
「知らねえよ、そんなもん」
その一言に、周りがどっと笑った。
「女と一緒に始末されてんじゃねえの。それか、どっかで野良犬みたいに拾われて生きてるか。知ったこっちゃねえよ、そんな屑」
――屑。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
自分の存在そのものを、生きているかどうかすら気にも留めていなかった男が、今、目の前で笑いながら酒を飲んでいる。
母の命も。俺という存在も。この男にとっては、酒の肴になる程度の、取るに足らない「昔話」でしかなかった。
視界が、赤く滲んだ気がした。耳鳴りがひどくて、周りの笑い声が、やけに遠くに聞こえる。
気づけば、手にしていた徳利を、床に叩きつけていた。
「――あ?」
黒田が、初めて不快そうにこちらを見た。だが、その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも困惑でもなく、ただの「躾のなってない若造への苛立ち」でしかなかった。
その表情が、決定的だった。
自分でも、何をしているのか正確には分からなかった。気づけば、割れた徳利の破片を握りしめ、目の前の男に向かって突き進んでいた。
周りの怒声。誰かが羽交い締めにしようとする手を、力任せに振り払う。
「――ガキが、調子に乗ってんじゃ――」
最後まで、言わせなかった。
がむしゃらに、何度も。母の死を、俺の存在を、あんなふうに嗤った、その口を、二度と動かせないように。
どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からない。
気づけば、部屋は静まり返っていた。誰も、動けずにいた。
自分の手が、真っ赤に染まっているのを見て、ようやく俺は、自分が何をしたのかを理解した。
障子越しの夕陽は、いつの間にか完全に落ちていた。真っ暗になった部屋の中で、俺はただ、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
――取り返しのつかないことを、してしまった。
その自覚だけが、遅れてゆっくりと、体の芯まで染み込んでいった。




