名前が独り歩きする
脇腹の痣が消える頃には、俺の名前は界隈全体に知れ渡っていた。
「一人で八人相手にして、無傷で返り討ちにしたらしいぜ」 「いや、無傷じゃねえって話だ。それでも勝ったってのがヤバいんだよ」 「あいつに逆らったら終わりだって、隣の連中もビビってるらしい」
噂というのは、伝わるたびに膨らんでいくものらしい。実際には無傷どころか、しばらく息をするのも辛いくらいだったが、訂正する気にもならなかった。
そんな中、最後の壁として立ちはだかったのが、当時この一帯で最大勢力を誇っていた別グループの頭――「鬼灯」だった。
「わざわざ来てもらって悪いな」
呼び出しに応じて向かった倉庫街の一角で、鬼灯は静かにそう言った。噂に聞いていたような荒々しさはなく、むしろ落ち着き払った男だった。それが逆に、底の見えない不気味さを感じさせる。
「単刀直入に聞く。俺の下に入れ。断るなら、ここで潰す」
「――断る」
即答すると、鬼灯はわずかに口角を上げた。
「そう言うと思ったよ」
構えた瞬間、鬼灯の姿が視界から消えた。
――速い。
反応した時には、既に鳩尾に一撃を受けていた。息が詰まり、後方に吹き飛ばされる。
これまで倒してきた誰よりも、格が違う。本能的にそう理解した。
「立てよ。まだ、終わってねえだろ」
地面に手をついて、荒い呼吸を整える。蘭に叩き込まれた言葉が、また蘇る。
――重心を読め。予兆を拾え。
鬼灯の動きを、目でではなく、肌で追う。踏み込みの瞬間、わずかに軸足が沈む。その一瞬のタイミングだけを、頼りに動いた。
二撃目が来る。今度は、紙一重で見切った。
「――ほう」
鬼灯の目に、初めて興味の色が浮かぶ。
そこから先は、記憶が曖昧なほどの応酬だった。何発殴られ、何発殴り返したのか、正確には分からない。ただ、意識だけは絶対に切らさなかった。膝が笑おうと、視界が霞もうと、立ち続けることだけを、体に強制し続けた。
やがて、鬼灯の拳のキレが、わずかに鈍り始めた。息が上がっている。人間である以上、無限には動けない。
――今しかない。
最後の力を振り絞り、懐に飛び込んだ。渾身の一撃を、顎に叩き込む。
鬼灯の体が、糸が切れたように崩れ落ちた。
静寂の中、荒い息だけが倉庫街に響いていた。
「――お前が、これからのこの街の顔になるんだろうな」
膝をついたまま、鬼灯がそう呟いた。悔しさよりも、どこか清々しさを含んだ声だった。
その日を境に、俺の名前は、もう誰も逆らえない「顔」として定着した。
だが、俺の中に湧き上がったのは、勝利の高揚感だけではなかった。
――あの古参の男の言葉が、また頭をよぎる。 『昔もいたんだよ。お前くらいの歳で、こんくらいの勢いでのし上がった奴が』
同じ道を、俺は今、確かに辿っている。
その事実に、微かな寒気を覚えながらも、俺は立ち止まることができなかった。




