牙を研ぐ
「――噂の新入りってのは、テメエか」
呼び出された廃ビルの屋上で、俺を待っていたのは、片手にナイフを弄ぶ男だった。隣町の別グループを束ねる、噂に聞く実力者――通り名は「メス」。理由は、聞かなくても分かる気がした。
「話が早くて助かる」
軽口を返すと、メスは楽しそうに口の端を吊り上げた。
「調子乗ってんじゃねえぞ、ガキが」
言い終わるが早いか、ナイフを持った腕が横薙ぎに振られる。予備動作の小さい、慣れた一撃だった。
――蘭に叩き込まれた言葉が、頭の中で反響する。 『喧嘩の勘だけじゃ、そのうち頭打ちになるから』
上体を反らして紙一重で刃をかわす。だが完全には避けきれず、頬に浅い痛みが走った。血の味が、口の中に広がる。
「へえ、避けんじゃん」
メスは驚いたように目を見開いたが、すぐに二撃目、三撃目と畳みかけてきた。ナイフの軌道は不規則で、素人目には読めない。だが、蘭とのスパーで叩き込まれたのは、拳の軌道ではなく「重心の読み方」だった。
――肩が動く前に、腰が動く。腰が動く前に、足の指先が地面を噛む。
その一瞬の予兆を拾えるようになっていた。
三撃目をかわしざま、俺は懐に潜り込んだ。距離を詰められれば、刃物の間合いは死ぬ。近すぎる距離は、逆にメスにとって不利になるはずだった。
「――ちっ」
舌打ちと同時に、メスが肘を返して距離を取ろうとする。だがその一瞬の隙を、逃す気はなかった。
左のフックを、みぞおちに叩き込む。息が詰まる音と共に、メスの体がくの字に折れた。
「終わりだ」
畳み掛けようとした瞬間、メスが最後の力を振り絞ってナイフを突き出してきた。捨て身の一撃。避けきれないと判断し、俺は肘でその腕ごと押さえ込み、そのまま体重を乗せて地面に叩きつけた。
ガシャン、とナイフが転がる音。メスは荒い息を吐きながら、仰向けに倒れたまま動かなくなった。
「――……マジかよ」
肩で息をしながら、俺は屋上の柵にもたれかかった。頬の傷が、じくじくと痛む。だが、負けなかった。それだけで十分だった。
翌日、頬の傷を見た蘭が、呆れたように眉を寄せた。
「刃物相手によくやるわね、無茶しすぎ」
「勝ったんだから文句ねえだろ」
「勝てばいいってもんじゃないの。ま……悪くない避け方だったみたいだけど」
そう言いながらも、口元にはどこか満足そうな笑みが浮かんでいた。俺の中で積み重なっていく実戦の感覚は、確実に何かを研ぎ澄ましていた。
牙は、まだ研がれ続けている途中だった。




