またまた場面転換
一方その頃――大学の研究室。
薄暗い室内では、電子機器の駆動音だけが静かに響いていた。
白衣を纏った教授、将門五郎はコーヒー片手に窓の外を眺めている。その広い背中に向かって、助手の風上成子がぐいっと身を乗り出した。
「それでそれで!? 島の話の続き、もっと聞かせてくださいよ!」
成子はノートとペンを構え、好奇心に目を輝かせている。
その様子に五郎は苦笑を漏らした。
「君は本当に、そういう非日常的な話が好きだな」
「だって、絶対に面白いやつじゃないですか! 教授が丸一年も失踪していた本当の理由なんて!」
「……ただ面白いだけなら、僕だって良かったんだけどね」
五郎は重い腰を上げて椅子に腰掛け、静かに語り始めた。
「始まりは、当時同じ学生だった友人――佐野健吾と、船で沖合へ遊びに行った時だった」
「はいはい、それで突然の嵐に遭遇したんですよね?」
「ああ。あり得ない規模の嵐だったよ。空が真っ二つに割れるんじゃないかっていうくらいの雷鳴が轟い
て、まるで巨大な壁のような高波が船を丸ごと飲み込んだんだ」
五郎の視線が、どこか遠い記憶の底へと向けられる。
「船は一瞬で転覆した。僕も健吾も容赦なく海に投げ出されてね。……次に気づいた時には、見たこともない見知らぬ海岸へ打ち上げられていたんだ」
成子の持つペンが、猛烈な勢いでノートの上を走る。
「そこに、あの村があったんですか?」
「そう。妙にゲームの初期設定を思わせる村だったよ。木造の簡素な家々に、手製の槍を持った村人たち。電気の通っている気配は微塵もない。そこで僕たちは、村の長に引き合わされたんだ」
「おお、いかにもな長老キャラ!」
「本当にそんな感じだったよ」
五郎は思い返すように少しだけ目元を緩めた。
「その長から、この島の構造を聞かされた。この島は『グネシー島』と呼ばれ、六つの区画に分かれている、とね」
「六つ……」
「もしこの島から脱出したければ、自分たちがいる居住区以外の危険地帯を調べるしかない、と言われたんだ」
「じゃあ、まずは村人たちに協力を頼んだんですよね?」
「ああ、当然真っ先に頼んださ。でもね――」
五郎は当時の無力感を思い出すように、大袈裟に肩をすくめた。
「会話が、全く成立しなかったんだ」
「え?」
「こちらが何を聞いても、彼らはあらかじめ決められたような同じ返答しか返してこない。まるでRPGのNPCのようにね」
成子は「うわぁ……」と、想像して少し引いたような顔をする。
「だから僕たちは、自分たちの足で行くしかなかった。最初に足を踏み入れたのが、あの老人が『小指』と呼んでいた――樹海領域だった」
五郎の表情が、目に見えて曇っていく。
「……そこは、文字通りの地獄だったよ」
一瞬にして研究室の空気が張り詰める。
「見たこともない毒虫が這い回り、獰猛な獣が容赦なく襲ってくる。そして何より異様だったのが、“樹人”の存在だ」
「樹人……」
「人間がそのまま木に変貌したような化け物さ。いくら身体を引き裂いても、森そのものが意思を持っているかのように、次から次へと無限に湧いてくる。まさに、森全体が僕たちの敵だった」
成子はごくりと息を飲む。
「僕たちは戦う術も知らず、命からがらそこから逃げ帰ったよ」
「……でも、教授はこうして帰ってきたんですよね?」
「ああ」
五郎は笑った。
だがその笑みは、どこか常軌を逸した、凄まじい執念を感じさせるものだった。
「鍛えたんだ」
「え?」
「ひたすら、肉体を鍛え上げた」
「いや急に脳筋!?!?」
成子が思わず素っ頓狂な声を上げる。
「当時の僕たちは、四六時中勉強しかしてこなかったからね。腕なんて、文字通り細い枝みたいなものだったんだよ」
「今の教授からは、口が裂けても想像できないんですけど……」
白衣の上からでも容易に判別できるほど、現在の五郎の体格は異様な威圧感を放っていた。研究者というよりは、最前線をくぐり抜けてきた熟練の軍人に近い。
「毎日狂ったように鍛えたよ。食って、鍛えて、寝て、また鍛える。それ以外に、あの狂った島で生き残る方法は存在しなかったからね」
五郎は静かに、しかし鋼鉄のような拳を握りしめる。
「気づけば、僕たちの腕回りは、かつての自分たちの胴体よりも太くなっていたんだ」
「怖っ、成長の方向性が怖いです教授」
「それだけの肉体を備えてから、僕たちは再びあの樹海領域へと向かった」
「……どうなったんです?」
「余裕だった」
一瞬の迷いもない即答だった。
「襲い来る樹人を素手で叩き潰し、獰猛な獣を力任せにねじ伏せ、毒虫はまとめて踏み潰した」
「解決法が全部フィジカルに極振りされてる……」
「結局のところ、極限状態において最後に信用できるのは、己の筋肉だけなんだよ」
「人生で一番聞きたくなかったタイプの名言がきちゃいましたね……」
五郎は成子の反応に、少しだけ満足そうに口元を歪めた。
「そうやって僕たちは、圧倒的な力で少しずつ島を攻略していったんだ。薬指、中指、人差し指……それぞれの危険地帯を、一つずつ確実に踏破していった」
「じゃあ、その勢いのまま最後まで行けたんですね?」
その瞬間だった。
五郎の顔から、完全に笑みが消え失せた。
研究室の空気が、肌を刺すような冷たさへと一変する。
「……最後の『親指』が、最大の問題だったんだ」
低く地を這うような声。
その威圧感に、成子も思わず背筋を正し、息を詰める。
「そこには、それまでに踏破してきたどの領域とも比べものにならない、“あるもの”が待ち受けていたんだよ」
「あるもの……一体、何があったんですか?」
五郎はそれには答えず、ただ沈黙を守った。
その重苦しい空気に耐えかねて、成子はふと思い出したように、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「そういえば……その、一緒に島を攻略していた佐野健吾さんって、今はどうされているんですか?」
完全な沈黙が室内を支配する。
五郎の顔からすべての感情が抜け落ち、冷徹な仮面のようになった。
それはまるで、脳の奥底に封印した、決して思い出したくもない凄惨な記憶を、無理やり抉り出されたかのような表情だった。




