最初の一歩
西暦二一九二年三月二七日
管理官の話が終わると、三人と別れ、僕は割り当てられた居室へと向かった。いつもなら、好奇心のままに部屋の隅々まで確かめているはずなのに——今日は、そんな気になれない。
頭の中には管理官の言葉が残り続けていた。
受験で泊まったホテル、試験会場、クライマーの個室。先月からいくつもの“部屋”を渡り歩いてきたけれど、眠れなかったことはなかった。
——なのに。
ベッドに身を横たえても、意識だけが浮いたまま、落ちてこない。
(……無重力のせい、だけじゃないよな)
天井を見つめたまま、小さく息を吐く。僕はポケットから、冬華がくれたお守りを取り出した。無重力の空間で漂うそれを指先でそっと包み込み、胸に引き寄せた。
掌から伝わる確かな感触に、少しだけ心が落ち着いていく。そのまま、いつの間にか深い眠りへと落ちていった。
***
翌朝。特に約束をしていたわけでもないのに、部屋を出たところでリアムと望月さんに出くわした。
「おはよう、星野君」
「おはよう、晶」
「おはようございます」
どうやら二人は、簡単な自己紹介を交わしていたらしい。そのまま流れで、三人でステーションの見学に出ることになった。
静止軌道駅は、想像以上に広大だった。無重力の通路を手すりを頼りに進み、巨大な設備の間を抜けていく。研究区画では忙しそうに行き交う研究員の姿があった。展望窓の向こうには、青く輝く地球が静かに浮かんでいる。
言葉にするほどでもない時間だったけれど、それでも、ここが“地上とは違う場所”なのだという実感だけは、確かに胸に刻まれた。
やがて夕方。再びクライマーへと乗り込む。次の目的地は高度七万キロにある月軌道連絡駅。静止軌道を離れ、さらにその先へ。
僕たちを乗せた巨大な箱は、ワイヤーを噛む微かな振動と共に、ゆっくりと、しかし確かな加速を始めた。
***
クライマーの中で一泊すると、無事に月軌道連絡駅へと到着した。そこから先は、さらに外へ。学院のあるL4へ向かうため、連絡艇へと乗り換える。
月軌道連絡駅の規模自体は、静止軌道駅と大きく変わらない。体感で異なるのは、僅かに感じる“重さ”——地球より外側に向かう“遠心力”くらいだ。
もっと異なるのは、ここの空気感だ。静止軌道駅の中心が“研究施設”だとすれば、ここは、言わば“港”だ。行き交う人々の表情もどこか軽く、カジュアルな旅行者やスーツ姿の社会人の姿も目立つ。ここには日常に近い賑わいがあった。そして、窓の外には、これから乗り換える連絡艇を射出する循環テザーの巨大なアームが、月へと続く道のように静かに回転しているのも、大きな相違点と言えるだろう。
僕はリアムと望月さんと合流し、案内に従って連絡艇へと向かう。慌ただしさの中にも、どこか整然とした流れがあり、僕たちはその中に自然と組み込まれていった。
連絡艇に乗り込めば、学院を目指す旅も残すところ二日だけだ。
***
連絡艇で丸一日を過ごしたのち、部屋の外景投影窓に、コマのような形をした学院の姿が浮かび上がった。
僕が荷物をまとめている間にも、連絡艇は到着体制へと移行し、金属同士が噛み合う鈍い衝撃を伝えながら、ゆっくりと軸へ接続する。
下船した僕たち学生、およそ三十名がコロニー側へ移り終えると、背後で連絡艇のゲートは静かに閉じる。僕は動く通路の取っ手を掴み、その流れに身を任せた。
やがて前方のゲートをくぐると、視界が一気に開けた。そこは、円形の連絡通路だった。半径百メートルはあるだろうか。内側は全面がガラス張りになっていて、外から差し込む光が空間全体を明るく満たしている。間接映像ではない。本当に、外の宇宙がそのまま見えている。
通路の各所から、中心へ向かって六本の連絡路が伸びていた。等間隔に配置されたそれらは、まるで車輪のスポークのように見える。
その先、中央部には垂直方向に貫く構造体——中軸があり、各連絡路の乗り場が設けられている。この六本の連絡路は、その形状から通称「スポーク」と呼ばれていた。
僕が望月さん、リアムと合流すると、リアムはすっと右手を差し出してきた。
「じゃあ、晶。短い旅だったけど、楽しかったよ。また学院で会おう」
「ぜひ。こちらこそありがとう、リアム。おかげで移動中、退屈しなかったよ」
差し出された手を、しっかりと握り返す。続いてリアムは、望月さんとも同じように握手を交わした。
「じゃあ、凛。しばしのお別れだ。学院生活、楽しんでくれ」
「ありがとう、リアム」
リアムは軽く手を振ると、「またな、二人とも」という言葉だけを残して、人の流れの中へと消えていった。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
望月さんと僕は案内に従い、連絡路へと向かって歩を進めた。
***
連絡路を走行していたポッドが、居住区画へと到着した。扉が開くと同時に、体に馴染んだ重力が戻ってくる。その感覚が、妙に心地よかった。
僕はゆっくりと一歩を踏み出す。コロニーでの、最初の一歩だ。地球と同じように澄んだ空気の匂いに、思わず深く息を吸い込む。
——そのとき。
「……すごい」
望月さんの声が、すぐ近くから聞こえた。顔を上げる。そこに広がっていたのは、これまで見たことのない光景だった。
人工の光に照らされた空は、どこまでも青く、高く、透き通っている。その透明感は、地球の空とは違うのに、不思議と“作られたもの”には見えない。まるで、おとぎ話の中に入り込んだみたいだ。
そして何よりも——地平線。
左右に伸びる道路の先で、それは上空へと緩やかに持ち上がり、どこまでも続いている。この場所が、球でも平面でもないことを、はっきりと感じさせる景色だった。
周囲の新入生たちも、それぞれ端末を操作しながら、行き先を確認している。
「さて、私たちも行きましょうか?」
「はい。あの……今さらなんですけど、望月さんの目的地ってどこですか?僕は桜寮ってところみたいなんですけど」
「私も同じみたいよ」
「それは心強いです。ぜひ、ご一緒させてください」
「もちろん」
望月さんは少し考えるようにしてから、ふっと笑った。
「コミューターを呼んでもいいんだけど……一つ提案!近いみたいだし、歩かない?五百メートルちょっとよ」
僕は少しだけ考えて、すぐに頷く。
「そうしましょう。コロニーの中、ちゃんと見てみたいですし」
「よかった。隣が冬華ちゃんじゃなくて、申し訳ないけど」
明らかにからかうような口調に、わざと咳払いをする。
「そんなこと思ってませんよ。……でも、いつか冬華を連れてきて、この景色を見せてあげたいとは思います」
「そうね……地球とも宇宙とも違う景色だものね。私も、友達に見せてあげたいな」
寄り道をしながら歩いたせいか、少しだけ時間はかかった。それでも、会話が途切れるよりも早く、目的地へと辿り着く。十五分ほどの道のりだった。
目の前に現れたのは、三階建ての立派な建物。正面のセキュリティゲートの前には、日本人らしき男女が二人、笑顔で待っていた。
「いらっしゃい」
「桜寮へようこそ」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
(——いよいよ、始まるんだ)
胸の奥で、期待が静かに膨らんでいった。
◎登場人物
◯星野晶(15)(166cm):主人公。国際宇宙学院の新入生
◯望月凛(20)(165cm):国際宇宙学院の新入生。主人公とはアカデミー入試の下見で出会った。語学堪能な健啖家。
◯リアム・ハートリー(男性)(24)(179cm)(オーストラリア):国際宇宙学院の一年生(中等生)。主人公とは軌道エレベータの搭乗口で出会った。感情表現は豊かだが、感情に流されない。机上の空論嫌い
◎用語
◯国際宇宙学院:宇宙船の乗組員を養成するための専門機関
◯静止軌道駅:軌道エレベータの静止軌道(高度約三万六千㎞)に浮かぶ施設。全長=約一六〇m、最大幅=約一一〇 m。総床面積=約一万八千㎡。常駐人員=五百人、最大滞在人員=千五百人。
◯月軌道連絡駅:軌道エレベータの地球中心から約七万kmに浮かぶ施設。全長=約二二〇m、最大幅=約一六〇 m。総床面積=約三万㎡。常駐人員=三百人、最大滞在人員=千百人。




