表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルテアの記憶  作者: 上井みるき
旅立ちの記憶
PR
62/78

旅立ちの日に

第一章は、これで終わりとなります。お読みくださった方、ありがとうございました。

西暦二一九二年三月二四日

 三月最後の土曜日、いよいよ出発の日を迎えた。目を覚ますと、午前八時。カーテンを開けると、春のやわらかな日差しが部屋に差し込んでくる。


(あきら)様、おはようございます』

「おはよう、アルテア。シャワー浴びてくる」

『はい』


 朝のシャワーは久しぶりだった。少し熱めのお湯が、どこか落ち着かない気持ちを、ゆっくりとほぐしていく。

 身支度を整えてリビングに戻ると、すでに朝食の準備は整っていた。

 今日は僕の希望で、カフェのモーニング風メニュー。ホットサンド、カリカリのベーコン、サラダにオニオンスープ、そして食後のヨーグルト。

 どれも、見慣れているはずなのに——今日は少しだけ特別に見えた。


「美味しい」


 ひと口食べて、自然と声がこぼれる。


『ありがとうございます。たくさん召し上がってください』


 アルテアは、どこか誇らしげに、けれど慈しむような眼差しで僕を見つめていた。サクサクのホットサンドを頬張るたび、香ばしいバターの香りが広がる。


「……うん。でも」


 スープに浮かんだクルトンを、スプーンでそっと押し沈める。


「……しばらく、食べられないんだね」


 言ったあとで、少しだけ後悔する。リビングに、静かな時間が落ちた。


『それは仕方ありません』


 アルテアの声は、いつもと同じ落ち着いたものだった。


『私の料理は、(あきら)様に最適化されていますので』


 アルテアは懐かしむように続けた。


『それこそ、(あきら)様が初めて離乳食を口にされたあの日から、ずっと……』

「そっか……」


 小さく息を吐く。


「僕の好みを、一番知ってるのはアルテアだもんね」


 ヨーグルトを食べ終え、最後にコーヒーをひと口飲む。

 ふと視線を上げると、リビングの片隅に置かれたスーツケースが目に入った。一週間かけて用意したそれは、もうすぐここを離れることを静かに告げている。


「……アルテア」

『はい、(あきら)様』


 少しだけ言葉に詰まりながら、続ける。


「……留守番、頼むね」


 声が、思ったよりも震えていた。アルテアは静かに一歩近づき、蛇腹の腕で僕を包み込む。僕も、そっと抱きしめ返した。


(かしこ)まりました』


 その声は、いつもよりわずかに柔らかかった。


(わたる)様、(さち)様との思い出の場所を——そして、(あきら)様が帰るべき場所を』


 抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。


『責任を持って、守り通します——いつまでも』


 僕はゆっくりと身体を離す。アルテアの瞳には、機械では説明できないような、深い光が宿っているように見えた。


(あきら)様』


 アルテアが、そっと僕の肩に手を置く。


『あなたがどれほど遠くへ行っても——それこそ、何光年も先の星の海の彼方へ行こうとも』


 その声は、静かで——揺るがなかった。


『私は、ここにいます』


 ほんのわずかに、微笑む。


『寂しくなったときは、オカブに話しかけてください。常に私と同期(シンクロ)していますから』

「……ありがとう」


 目尻に溜まったものを、乱暴に袖で拭う。それでも、少しだけ視界が滲んだままだった。

 しばらく、言葉はなかった。

 やがて、僕は小さく息を吸って、顔を上げる。


「よし、行ってくる」


 玄関へ向かうと、すでに荷物はまとめて置かれていた。靴を履き、扉に手をかける。


(あきら)様』


 アルテアに呼び止められる。振り返ると、彼女は小さな包みを両手で持っていた。


『こちらを』

「……お弁当?」

『はい』


 静かに頷く。


『道中、お時間があるときに召し上がってください。(あきら)様のお好みに合わせてお作りしました』


 受け取ると、ほんのりと温もりが残っている。包み越しに、それが伝わってきた。


「ありがとう」


 それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。そのとき、軽やかな音がする。


(あきら)兄ちゃん、準備できた?』


 オカブが、いつものようにふわりと浮かび上がった。その声は、どこか少しだけ誇らしげだった。


「うん。行こうか」


 僕がそう言うと、オカブはくるりと一回転する。


『任せてよ。アルテア姉ちゃんの代わり、僕がバッチリこなしてみせるからさ!』


 思わず、少しだけ笑ってしまう。その言葉に、アルテアも静かに微笑んだ。


 僕はもう一度、家の中を見渡した。

 見慣れたリビング、いつもの匂い、両親が建て、アルテアが守ってきた僕だけの世界。


「……行ってきます」


 今度は、はっきりと口にした。


『いってらっしゃいませ、(あきら)様』


 扉を開けると、春の光が、まぶしく差し込んでくる。

 僕は一歩、外へ踏み出した。オカブが、その隣に並ぶ。後ろで、静かに扉が閉まる。僕は振り返らずに歩き出した。


***


 朝比奈家に到着すると、玄関の前にはすでに皆が集まっていた。

 冬華を筆頭に、航おじさんと春華おばさん、翔。そして、哲平おじいちゃんと早苗おばあちゃんまでが、僕の門出を待ってくれていた。

 その光景を目にした瞬間、僕は無意識に背筋を正した。


「おはようございます。……皆さん、朝早くからすみません」


 軽く頭を下げると、足元で新品の革靴が光る。合格祝いに朝比奈家のみんなから贈られた、大切な一足だ。


「素敵なプレゼント、ありがとうございます。今日、履いてきました」


 まだ少し硬いはずの革が不思議と僕の足に吸い付くように馴染んでいる。その適度な圧迫感が、これから始まる未知の生活への“支え”のように感じられた。

 顔を上げると、哲平おじいちゃんと早苗おばあちゃんが、誇らしそうにこちらを見ていた。


「まだ独り立ちするには若いからな」


 哲平おじいちゃんが、ゆっくりと言う。


「なんも心配しとらんと言えば嘘になるが……お前なら大丈夫だ。しっかりやってこい」

「何より、体調と事故にだけは気をつけるのよ」


 早苗おばあちゃんが、包み込むようにやさしく続けた。


「たまには、私たちにも連絡ちょうだいね」

「……はい」


 自然と、声が少しだけ低くなる。


「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん」


 まっすぐに見て、言葉を重ねる。


「帰ってくるまで、元気でいてください。必ず、連絡します」


 二人は小さく頷いた。


 僕は一歩近づき、それぞれとしっかりと握手を交わす。その手は、温かくて——少しだけ、強かった。


「じゃあ、行こうか」


 (こう)おじさんの声に、皆が動き出す。五人で、朝比奈家をあとにする。振り返ると、玄関が少しだけ遠く感じられた。


***


 アカデミー受験のときに使った駅へ到着する。街の玄関口でもあるこの場所は、いつもと同じはずなのに少し違って見えた。

 中学生の僕にとって、ここから先は“外の世界”だ。

 搭乗口の前で、翔が声をかけてくる。


(あきら)兄ぃ」


 少しだけ背伸びした声だった。


「帰ってきたら、お話いっぱい聞かせてよ。僕もいつか、アカデミーに通うかもしれないしね」

「もちろん」


 自然と笑みがこぼれる。


「連絡もするし、土産話もいっぱい持って帰るよ」


 少しだけ間を置いて、続けた。


「翔は——僕の同志だからね」

「……うん!」


 翔の瞳が、決意を宿してまっすぐにこちらを射抜く。僕たちは軽く拳を合わせた。乾いた小さな音が、どんな言葉よりも深く、僕たちの約束を刻印した気がした。

 続いて、春華おばさんが一歩前に出る。


「家のことは心配しないで」


 やわらかな声だった。


「私と冬華で、ちゃんとしておくから。アルテアのこともね」


 その言葉に、冬華も静かに頷く。


「ありがとうございます」


 僕は深く頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 顔を上げると、春華おばさんとしっかり握手を交わした。その手は、あたたかくて——どこか安心する力強さがあった。

 やがて、ハイパーループが滑り込むように到着する。音はほとんどないが、空気だけがわずかに震えた。


「じゃあ、行ってくる」


 短く告げ、僕は自動ドアの向こうへと足を踏み出す。後ろには、見送りのために同乗する航おじさんと冬華が続いた。

 気密扉が重厚な音を立てて閉じる。強化ガラスの向こうで、翔が両手をちぎれんばかりに大きく振り、春華おばさんが祈るように手を振っていた。


 定刻、車体が静かに動き出す。次の瞬間、景色が流れ——翔と春華おばさんの姿は、瞬きをする間もなく、視界から消え去った。


***


 巨大な海上ハブ・ターミナルへ到着する。ここから先は、赤道の軌道エレベータへと直行する海上リニアの領域だ。

 喧騒に満ちた発着ロビーの隅で、(こう)おじさんが足を止めた。


「とりあえず、一年だけがんばれ。あとのことは、それから考えればいい。まだ若いんだ、気楽にな」

「ありがとうございます。必ず連絡します」

「そうだな」


 (こう)おじさんは小さく頷く。


「それから——映像の件、“宿題”をもらってるからな。分かったことがあれば伝える」

「よろしくお願いします」


 握手を交わす。そのあと、(こう)おじさんは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。


「……がんばれよ」


 それだけ言って、視線を外す。


「じゃあ冬華、向こうで待ってる」

「うん」


 (こう)おじさんは、何も言わずにその場を離れた。残されたのは、僕と冬華の二人だけ。ほんのわずかな沈黙。

 冬華が、ゆっくりと口を開く。


「連絡さえくれれば、私は大丈夫だから」


 まっすぐに、こちらを見る。


(あきら)君が一生懸命やるのは分かってるし……私も、次に会うときまでに、隣を歩けるくらいには成長するよ」


 言葉が、出てこなかった。胸の奥が、じわりと熱くなる。


「……ありがとう」


 やっと、それだけを絞り出す。


「連絡はちゃんとする。……それに、僕も負けないようにがんばるよ」


 僕はたまらず、彼女を強く抱きしめた。冬華も、細い腕で精一杯抱きしめ返してくる。心臓の鼓動が重なり、互いの存在が魂に刻まれていく。


「……こちらこそ、ありがとう」


 冬華が僕の胸に顔を埋めたまま、少しだけいたずらっぽく続けた。


「あと、成長っていうのはね」


 少しだけ、意地悪そうに笑う。


「体のほうもだからね。さっきみたいに抱きしめられた時、せめて(あきら)君が照れるくらいには」

「……はいはい。期待しておくよ」


 思わず、苦笑する。右手で軽く、冬華の頭に触れた。ほんの少しだけ、強めに。


「じゃあな、冬華」

「うん。(あきら)君も」


 僕は搭乗口へ向かって歩き出した。数歩進んだところで、抗えずに一度だけ立ち止まり、振り返る。冬華は、まだそこに立っていた。ずっと、手を振り続けている。僕も手を振り返す。


 それから——もう一度、前を向いた。

 今度は、振り返らなかった。

 地上は、もうすぐ遠くなる。

 けれど——帰る場所は、ちゃんとそこにある。


 僕はその温もりを胸の奥に閉じ込め、宇宙(そら)へと続くタラップを一歩ずつ踏みしめた。


◎登場人物

◯星野晶(15)(166cm):主人公。この春、中学を卒業した。

◯朝比奈冬華(13)(155cm):中学一年生、晶とは幼馴染兼彼女。

◯朝比奈航(51)(181cm):冬華の父。晶の父と親友だった。

◯朝比奈春華(46)(155cm):冬華の母。晶の母と親友だった。

◯朝比奈翔(10)(145cm):小学校四年生。冬華の弟。

◯朝比奈哲平(79):冬華の祖父、春華の父。近所に住んでいる。

◯朝比奈早苗(73):冬華の祖母、春華の母。近所に住んでいる。


◯アルテア:晶の自宅にある家事用ロボット。晶の母、幸と数学者スターリング教授が制御プログラムを実装している。隠されていた能力を取り戻し、今はかなり高性能。

◯オカブ:晶の通学補助用ドローン。グレーで無骨だったが、アルテアが改造し人間っぽくなり、晶を兄、アルテアを姉と認識している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ