旅立ちの前に
西暦二一九二年三月一七日
『晶様、本日は九時より冬華様とお約束がございます。起床をお願いいたします』
アルテアの落ち着いた声に続いて、『晶兄ちゃん、起きろー! 太陽がもうあんなに高いぞ!』と、オカブの弾んだ声が重なった。
視界の端のデジタル時計は、午前八時を指している。
「……あっ!」
僕は跳ねるようにベッドから飛び起きた。
「おはよう、二人とも!」
『おはようございます、晶様』
『おはよう!』
アルテアが満足げに応じる。キッチンからは、すでに食欲をそそる出汁の香りが漂ってきていた。
***
身支度を終え、家を出る。朝比奈家までは歩いてすぐだが、冬華はすでに玄関の前で待っていた。僕の姿を見つけるなり、パッと顔を輝かせる。
「晶君、おはよう!あ、マフラー、してくれたんだ!」
「おはよう!うん、すごく暖かいよ。ありがとう」
少し照れながら頷くと、冬華の視線が僕の首元に釘付けになった。それから彼女は、自分の首元に手をやって、悪戯っぽく微笑む。
「……えへへ。実はね、おそろいなんだ」
冬華がくるりとその場で回って見せる。
彼女の首に巻かれているのは、鮮やかな赤と橙色のマフラー。僕が貰った深い青と水色のものと、編み目が全く同じ——色違いのお揃いだった。
「これ、晶君のを作るための練習台だったんだけど……自分でも気に入っちゃって」
朝の光を浴びて、冬華の頬がマフラーの色を映したように赤らんでいる。
「……そうなんだ。うん、すごくよく似合ってるよ」
思わず見惚れてしまい、言葉が少し遅れてしまった。
冬華は「ありがと」と小さく笑うと、マフラーに顎を埋めるようにして、幸せそうに目を細めた。その笑顔は、とても柔らかく澄んでいた。
***
今日の目的地は、家から一番近い場所に鎮座する浮川神社だ。この地域の氏神様でもあり、僕にとっては幼い頃から慣れ親しんだ場所でもある。
今日は、これから始まる長い旅路の安全と、進学先での学業成就を祈念して、正式にお祓いを受けることになっていた。春華おばさんが「一生に一度の門出なんだから」と、わざわざ予約してくれたのだ。
本当は初詣の時のように、家族揃って十時に現地集合する手はずだった。けれど、数日前に冬華から『予約の前に、二人だけでお参りしない?』と内緒の誘いがあった。朝比奈家の皆さんの賑やかな声が響く前の、静かな境内。僕たちはマフラーを揺らしながら、朝の光が差し込む参道を並んで歩いていた。
土曜日ということもあって、境内にはちらほらと参拝客の姿があった。授与所には、おみくじや破魔矢、御札——さまざまなものが整然と並んでいる。
「へえ……いろいろあるんだな」
思わず声に出すと、
「ほんとだ」
冬華が目を輝かせる。
「ちょっと、向こう見てくるね」
そう言うと、軽い足取りで駆け出していった。
「うん。じゃあ、僕はこっちにいるよ」
「分かった!」
振り返って手を振り、冬華は人混みの向こうへ消えていく。その背中を見送りながら、僕は何気なく並んでいるお守りに目をやった。
(……あれ?)
視線が、ある一点で止まる。いくつも並ぶ中で、それだけが妙に気になった。
(これ……)
手に取ってみる。小さな布の中に込められた意味を、なんとなく考えながら——気づけば、それを持ったまま立っていた。
しばらくして、足音が近づいてくる。
「晶君」
顔を上げると、冬華が戻ってきていた。少しだけ息を弾ませて、でもどこか嬉しそうに。
「じゃあ、これ」
そう言って、差し出されたのは——“安全祈願”のお守りだった。一瞬、言葉を失う。
「……ありがとう」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。そのまま、少しだけ照れながら続ける。
「実は……僕からも」
さっき手に取ったお守りを差し出す。冬華は、きょとんとした顔でそれを受け取り——そして、すぐに意味に気づいた。
“縁結び”。
「……っ」
頬が、ほんのり赤く染まる。視線を逸らしながら、でも少しだけ嬉しそうに笑った。
「……ありがと。……一生、離さないから」
その声は、風に消えてしまいそうなほど小さくて——けれど、僕の心に消えない刻印を残すほど、強かった。
***
「晶兄ぃ、おはよう!」
冬華と並んで境内を歩いていると、静寂を割るような元気な声が飛んできた。
振り返ると、翔がちぎれんばかりに手を振りながら駆け寄ってくる。その後ろから、航おじさんと春華おばさんが落ち着いた足取りで続いていた。
「おはよう、翔。……皆さん、おはようございます」
僕は足を止め、居住まいを正して頭を下げた。航おじさんが短く、けれど力強く応じ、春華おばさんは包み込むような微笑みを返してくれる。
さらにその背後に立つ二人の姿に気づき、僕は驚きで少し目を見開いた。
「哲平おじいちゃんと、春菜おばあちゃん……!来てくださったんですね」
「当たり前だろう。お前の新しい門出だぞ。見届けんわけにはいかん」
哲平おじいちゃんが、いつもの少しぶっきらぼうな、けれど情愛の滲む調子で笑う。
「人生の節目ですからね」
春菜おばあちゃんの穏やかな言葉が、朝の冷たい空気に溶けていく。その言葉に、胸の奥が少しだけ引き締まる。
「春華おばさん……お祓いの予約までしていただいて、本当にありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで」
春華おばさんは優しく首を振った。
「これは、私たちの気持ち。あなたのこれからに、少しでも追い風が吹くようにね」
そして、少しだけ表情を引き締めて言った。
「さあ、入りましょうか」
促されるまま本殿へと上がり、儀式が始まった。
神主が現れ、静かに儀式が始まる。低く響く祝詞の声。凛と空気を震わせる鈴の音。古びた木の香りが漂う静寂の中で、僕は目を閉じた。祝詞の言葉をすべて理解できるわけではない。けれど、頭上を吹き抜ける風の音や、自分の心臓の鼓動までが、一つの大きな流れに溶け込んでいくような感覚があった。
***
やがて儀式は滞りなく終わり、静けさが戻る。本殿を出て境内に戻ると、心なしか、お祓い前よりも空気が澄んでいるような気がする。
冬の名残を残した風が、やわらかく頬を撫でていく。
「俺たちは、このあとランチでも食べて帰ろうと思うんだが」
航おじさんがそう切り出した。
「晶もどうだ?」
少しだけ間を置いて、僕は首を振る。
「いえ……今日は遠慮しておきます」
言葉を選びながら続ける。
「準備もありますし……それに、あの家とも、しばらくお別れになるので」
「そうね」
春華おばさんが、静かに頷いた。
「あなたのお家ですものね。幸っちゃんたちが遺してくれた大切な……」
その言葉のあと、誰も続けなかった。短い沈黙。けれど、その静けさの中で——みんなが同じことを思っているのが分かった。
お父さんと、お母さんのことを。
「……すみません。せっかくのお誘いなのに」
僕が頭を下げると、「気にするな」と、航おじさんが軽く手を振り、ちらりと冬華を見る。
「冬華はどうする?」
「えっ」
少しだけ驚いた顔で、僕の方を見てくる。
「晶君と一緒でも……いい?」
遠慮がちに尋ねる声。僕はすぐに頷いた。
「もちろん」
「やった!」
ぱっと表情が明るくなる。その横から、翔が口を挟んだ。
「お姉ちゃん、迷惑かけちゃダメだよ」
「なっ!」
次の瞬間、軽い音がした。冬華のげんこつが、翔の頭に落ちる。
「余計なこと言わないの!」
「いてっ……!」
頭を押さえてうずくまる翔。その様子に、場の空気が少しだけ和らいだ。航おじさんたちは苦笑しながら、ゆっくりとその場を後にする。
残されたのは——僕と、冬華の二人だけだった。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、境内は静かに感じる。どこか遠くで、鈴の音が小さく鳴った。
「……じゃあ、帰ろうか」
僕がそう言うと、冬華は小さく頷いた。
「うん」
二人並んで歩き出す。しばらくは、どちらからともなく言葉が出なかった。砂利を踏む音だけが、静かに続いていく。
ふと、手が触れた。
「……っ」
不意の接触に少しだけ距離を取る。でも、次の瞬間、僕はそっと、その手を取り直した。確かめるように。冬華の手は、少しだけ冷たくて——でも、すぐに温もりが伝わってくる。
一瞬だけ、力がこもる。それから、冬華が同じ強さで握り返してくれた。
ぎゅっと、やさしく。そのまま、何も言わずに歩く。言葉はなくても、それだけで充分だった。
鳥居に一礼し、いつもの道に出る。見慣れた景色のはずなのに、どこか少しだけ違って見えた。
(この時間を忘れないようにしよう)
そう心に誓った。
◎登場人物
◯星野晶(15)(166cm):主人公。この春、中学を卒業した。
◯朝比奈冬華(13)(155cm):中学一年生、晶とは幼馴染兼彼女。
◯朝比奈航(51)(181cm):冬華の父。晶の父と親友だった。
◯朝比奈春華(46)(155cm):冬華の母。晶の母と親友だった。
◯朝比奈翔(10)(145cm):小学校四年生。冬華の弟。
◯朝比奈哲平(79):冬華の祖父、春華の父。近所に住んでいる。
◯朝比奈早苗(73):冬華の祖母、春華の母。近所に住んでいる。
◯アルテア:晶の自宅にある家事用ロボット。晶の母、幸と数学者スターリング教授が制御プログラムを実装している。隠されていた能力を取り戻し、今はかなり高性能。
◯オカブ:晶の通学補助用ドローン。グレーで無骨だったが、アルテアが改造し人間っぽくなり、晶を兄、アルテアを姉と認識している。




